ニゲカガミは人を狂わせる

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ニゲカガミは人を狂わせる

知秋はいつも亜梨沙の左側にいる。 たまに位置が入れ替わった時はなんだか落ち着かない。その感覚はいつもおいてある場所に鍵がなかった時のような不安と焦燥感に似ている。そう思っているのは亜梨沙だけではないようで、違和感を覚えると、どちらともなく自然な成り行きで同じ位置に戻る。 だから必然的に、亜梨沙は知秋の右側をよく見る。彼女の頬には小さな黒子が並んでいる。時折ぼーっと眺めては無意識にその点と点を結んで三角形を作っていた。 最初は特に仲がいいわけではなかった。帰り道が同じだと気づき、一定の距離を保ちながら歩くのもなんだか気の引けた亜梨沙が勇気を出して知秋に話しかけたことがきっかけで、顔を合わせると肩を並べるようになった。 ビビッドカラーの露出が激しい派手な服が好きな知秋と、全身をユニクロで固めたような無難な服装が好きな亜梨沙。見た目も正反対な二人だが、性格も見事に正反対で、それ故に不思議と居心地が良かった。お互い未知の生物として観察しあっている関係といってもいいかもしれない。 今では一緒にいるのが当たり前の存在だ。 その日は、知秋が図書館に本を返却しに行くと言うので同行することにした。知秋は大変な読書家で、毎週のように図書館に通っている。亜梨沙もたまに気になった本を借りてはみるのだが、期限内に読まないといけないルールが煩わしく読破できた試しがない。亜梨沙にとって図書館は、本を借りる場所というより課題をやらざるを得ない雰囲気を提供する場所だった。 それでもずらりと並んだ背表紙を見あげると圧巻させられる。この世界にはたくさんの本があり、誰もがその全てを読むことなく死んでいく。この図書館の貯蔵本を全て読もうとするだけでも、気の遠くなるような時間を要するのだろう。 「そういえば、亜梨沙。あたしに隠していることあるでしょ?」 本棚を物色する手を止めずに知秋が囁いた。丁寧に塗られたネイルに見惚れていた亜梨沙は聞き返す。知秋はもう一度繰り返したが、隠していることの心当たりがない。 知秋は目当ての本を見つけたのか、満足そうな表情で貸し出しカウンターに向かった。 「とぼけないでよ。できたんでしょ。カレシ」 「えっ。私に?」 「この状況で他に誰がいるって言うのよ。聞いたわよ。年上の男の人と一緒に手を繋いで公園デート。それから仲睦まじくシャボン玉で遊んでたんですって?ちょっと、そんな面白いこと…あ、いや、素敵なこと、どうしてあたしに教えてくれないの!」 そういえば先日、知り合いの男と広場に出かけた。禁煙をしたいがどうにもうまく行かない、口寂しいと宣うので、それならシャボン玉でも吹いていろ、口に咥える分には同じだと手渡したのだ。 確かに公園には多くの人がいたけれど、まさか知り合いに見られていたとは。あの男と知り合いだと思われたくはなかった。 「違うの、知秋ちゃん。彼は友人でそういう関係じゃないの。シャボン玉がとっても好きな人でね、付き合ってあげてたのよ」 我ながら苦しい言い訳だと思う。なんだ、シャボン玉がとっても好きな人って。 「でも手を繋いでたんでしょ?」 「あれは強引に連れて行かれたから…」 「やっだー。彼ってば大胆。じゃあまだ付き合ってないのね。でも、きっとその男は亜梨沙のこと好きなのよ。だからってデートにシャボン玉はセンスを疑うけど…いや、ごめん。ねえ、どんな人?教えなさいよ」 知秋はくるっと振り返った。満面の笑みだ。 「亜梨沙はその人、どう思ってるの?」 困惑した亜梨沙がお茶を濁そうと口を開きかけた時、知秋の背後にキラッと光るものを見つけた。 何よりもまず、体が動いた。知秋の腕を掴んで引き寄せる。クロエの色気のある香りが漂った。 「きゃっ!何?」 「知秋ちゃん、前を見て歩かなきゃ。図書館はただでさえ危ないんだから」 亜梨沙が指差した先に、地面から“逃げ鏡“が伸びていた。ちょうど人の腰の高さほどしかない。そのまま歩いていたら気づかずに通り過ぎてしまっていただろう。 体の半分が“逃げ鏡“を通り過ぎてしまった場合、下半身だけ向こう側に行ってしまうのだろうか。上半身だけが取り残されたなんて話を聞いたことはないが、胴体が切り離されてもなお動き続ける足を想像して顔をしかめる。 知秋は青白い顔で逃げ鏡を見つめていた。まるで大きな虫を見てしまったかのように顔を歪め、亜梨沙の背後に回る。それでも離れたくはないようで、肩をしっかりと掴まれた。その手が小さく震えている。亜梨沙は努めて明るい声色を出してなだめた。 「触りさえしなければ大丈夫よ。それにしても、最近よく出るようになったね。治安が悪いのかな?」 亜梨沙はカバンから小さなカラースプレーを取り出し、腰をかがめて逃げ鏡に向かって大きく×印を書いた。 逃げ鏡に映る向こう側の亜梨沙も同じ動作をしている。本物の鏡のように左右対称にならない。逃げ鏡に映る自分とハイタッチをしようとしてもできないのは有名な話だが、いざ目の前にすると頭が混乱する。 「ねえ、亜梨沙。あたしったら、混乱しちゃってるみたいなの」 適切に処理をした後、立ち上がった亜梨沙に、知秋はモゴモゴと口を動かした。 「これ、なんだったかしら」 知秋は地面から伸びた逃げ鏡を指差す。 「え?」 「名前を、ど忘れしちゃって」 「逃げ鏡よ。大丈夫?」 「ああ、そうよ。そうだわ。逃げ鏡。いやあねえ、歳をとると忘れっぽくなるって本当だわ」 知秋は不自然に乾いた声で笑った。
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