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ニゲカガミは人を食う
それは僕がここに来てすぐのことだった。
「ニゲカガミ?」
必死で鉄板の上を逃げるコーンをフォークで仕置めた後、僕は彼の言葉を繰り返した。
対面に座る渉は、大真面目な表情で頷く。
「そう。逃げ鏡。俺の大学じゃ、その話でもちきりなんだ」
「聞いたことないな。一体何なの?」
渉は開きかけた口をつぐむ。店員が食べ終えた皿を片付けに来たのだ。手際よく運ばれる皿を見守った後、渉は広くなったテーブルに頬杖を突き、飲みかけのアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。
「文字通り鏡だよ。ただし普通の鏡とは違う。一つは、映る景色が反転しないこと。もう一つは、突然現われては突然消えること。あるはずのない場所に現れて、人の姿を写して驚かせる」
「何それ。子供騙しにもならない怪談じゃないか」
僕は想像する。
いつもあるはずのない場所に、突如現れる鏡。不思議に思って近づくと、そこに映る自分の顔に違和感を覚える。いつもは反転した姿しか見ていないのだから当然だ。思わず自分の頬に触れる。すると鏡に映る自分は反対の手で反対の頬を抑えた。自分と全く同じ、ぎょっとした表情で⋯。
確かに気味の悪い話ではあるが、僕は17歳の高校生だ。そんな手垢のついた怪談に食らいつくほどの興味はない。生き残りのコーンの討伐に集中する。なかなか手強い。
渉が呆れ顔で口を挟む。
「箸を使えばいいのに」
「ここで箸を使ったら負けた気がするから。それに洗い物も多くなるし」
「君が食べ終わるのを待ってたんだけど、先にデザート注文していい?」
「僕も食べる」
僕は生き残りのコーンを諦めて、鉄板を机の縁に寄せる。目聡い店員がこちらに寄ってくるのが分かった。
ついでにパンナコッタと、苺のフロマージュを注文する。
再度店員が去った後を見届けてから、渉は身を乗り出した。
「人を食うらしい」
「えっ?」
僕の困惑した反応を渉は気にする様子もなく、ニコニコと話を続ける。
「逃げ鏡だよ。逃げ鏡。そいつは人を食うらしいぜ。吸い込まれるって言った方がいいのかな。映した者全てをってわけじゃないらしいんだけど。とにかく何らかの条件が揃った状態で逃げ鏡に映ると、その人は消えてしまう」
僕は何も言えなくなって、渉の様子を窺う。彼は穏やかな表情のままストローを咥えた。氷の溶けたアイスコーヒーはあまりおいしそうに見えなかった。
意図が分からない。
額に冷や汗が出る。前髪のおかげで隠せているだろうが、僕は努めて冷静に振る舞った。渉は他人の感情に敏感だ。少しでも動揺を見せるとすぐに察知する。
慎重に口を開く。
「ばかばかしい」
声が上擦らなくてよかった。いつも通りの低い声が出せた。
渉は目を伏せて頷く。
「俺も最初はそう思った。でもそれが俺たち大学生の間で話題なんだよ。トイレの花子さんとか、口裂け女と同じレベル都市伝説なのにさ。でもこんなに盛り上がってるってことはきっと、目撃談があるってことだろ?」
「あったからなんだって言うんだ。鏡が人を捕食するシーンを見たっていうのかよ」
「そのまさかだ」
ギクっと肩を震わせたのと、注文したデザートが来るタイミングがちょうど同じだった。渉の視線はお盆の上のデザートに行っていた。大丈夫だ。まだバレていない。僕はフロマージュをありがたく受け取った。
「そういえば昔、鏡嫌いの男がいたことを思い出した。その男は、特に顔が醜いわけでもないし、コンプレックスを抱いているわけでもない。何故だと思う?」
渉は居住まいを正す。
「へえ。なぜだろう。当てたいな。いくつか質問しても?」
「どうぞ」
話が逸れたことに安堵する。とりあえず安心だろう。うーんと腕を組んで視線を上に向ける。
「その男は、特定の鏡を嫌っている?」
「NO。この世界にあるあらゆる鏡が嫌いだと言う」
「男な職業は関係あるのかな。職業柄、毎日鏡を見る?」
「それもNO。僕の友人の話だ。どこにでもいる普通の少年さ」
「うーん。その男は鏡そのものではなく、鏡の持つ性質を嫌っている?」
「YES。鏡の存在を憎んでいるわけじゃない」
「つまり、景色を反射させるものであれば鏡じゃなくても嫌なわけだ。例えば、画面が消えた後のモニターとか、カップに入った紅茶とか」
「NO。あくまでも男は鏡が嫌いだ」
「そうか、なるほど。全然分からない」
渉は難しい顔をして黙り込んだ。僕はその様子をニヤニヤと見つめる。僕の話題に集中して、頭いっぱいになっている渉の姿を見るのは爽快だった。優越感といってもいいだろう。束の間の悦に浸る。
その時、渉がふと何かに気を取られたように表情を緩めた。そのまま僕に視線を向ける。
「それ、本当に君の友人の話?」
「YES。なんだよ、僕に友達がいないとでも言いたいのか」
「そういうわけじゃないよ。その話、俺も聞いたことがある気がするから。君の友人と同じ話をした男がいたんだ。誰が話したとか、いつ聞いたかとかは覚えていないんだけどね。もしかしたら、同じ男から聞いたとか?いや、でも俺たちに共通の友人なんていたっけ」
覗き込むように、特徴的な瞳がまっすぐ僕を貫く。
途端、僕は誰が見ても明らかに動揺してしまった。背中にびっしょりと汗をかき、頬が赤く染まる。この動揺は問いかけに対してであり、渉の目が僕だけを映したからであり、そのあまりの近さに対してでもあった。
「思い違いかもしれない」
必死で出した声は、情けないことに震えている。それでも渉が話を促すので、僕は弁明を続けなければいけなかった。
「ネットかどこかで拾った話を、さも自分の友人から聞いた話だと思い込んでいるのかも。記憶ってのは、そんなものだろう」
渉は頬杖をついたまま頷いた。まるで言葉を覚えたての子供が話しているのを聞いているかのように、優しい二重瞼を細めて笑う。
「ねえ、真純。一つ聞いてもいいかな。鏡嫌いの男とは別の質問なんだけど」
「答えたくないことには、答えないよ」
僕は両手を膝の上に置いて、俯いた。
この方法が全く効果的じゃないことは知っている。渉は人が放つ感情の揺れを読み取ることができる。彼にとって沈黙は、最も雄弁な回答なのだ。
「答えなくてもいい。真純、俺を見て」
ほら、やっぱり心を読む気だ。
僕は内心舌打ちする。
目を合わせる。その行為がどれだけ渉にとって利点があるか、長い付き合いで知っている。彼と目を合わせた人間は、その場でゆっくりと脱がされる羽目になるのだ。まるで玉ねぎの皮を一枚一枚剥いでいるかのように。丁寧に、じっくりと脱がされる。露わになった真っ白な部分の、その内部までも。
「嫌だ。見たくない」
目を閉じて、顔を背ける。
渉はしばらく押し黙った後、ふっと息を吐いた。笑っていると分かったのは、恐る恐る目を開けて彼の表情を確認してからだ。
「可愛いなあ、君は」
「なんだって?」
渉はアイスコーヒーを飲み干すと立ち上がった。上着を手に取り、帰り支度を始める。
慌てて僕もそれに倣う。マフラーを巻くのにもたもたしていると、さっさとレジに行った渉が料金をすべて支払ってしまった。財布を出すが「次はよろしく」と押し返される。
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