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BGMが止まり、観客の声がひっそりと静まり返ったところで、ステージに煌々と光が照らされた。深緑色のベースを抱えて、男は音を鳴らし始める。
初めてはっきり見えた彼の姿に、ジンジャエールをひっくり返しそうになった。
渉だ。
彼は弦を指ではじき (そのなめらかな運指はどこか妖艶だ)、歌い始めた。楽器に負けないほどの低く落ち着いた声が、おなかのあたりを揺さぶる。
まだバクバクする心臓を撫でつけて、生唾をごくりと飲み込んだ。
よく見ると、全くの別人である。
渉の髪色は黒くないし、あんなに凛とした眉をしていない。最大の特徴である目の色だって違う。それでも僕はステージの彼の姿を見た途端、なぜか脳みそがざわざわと騒ぎだし、渉が目の前にいると思ってしまったのである。
深緑色のベースがじんわりと溶け始め、輪郭を失っていく。同じ色をした液体が溢れるようにボディから流れ始めた。それは彼が奏でる曲の隙間に器用に滑り込み、他の観客はもちろん、演者の彼にも気づかれることなく僕を狙っている。
僕は緊張し、体が震え始めていた。
夜の海。
風の吹かない静かな夜の海だ。
波の音だけが響き渡り、水面を照らす小さな三日月だけが夜空に浮かんでいる。誰の声も聞こえない。誰の姿も見えない。僕はスニーカーを脱ぎ捨てる。その優しくも冷たい海に潜り込みたくてたまらなくなったのだ。
その海は、誰よりも優しく抱きしめてくれるだろう。息をすることも忘れて、もっと深くに潜っていきたいと夢中になれることだろう。真っ暗で光が届かない場所に来ても、安らかにこの身を揺らしてくれるのだろう。そして静かに沈む僕に海はこう囁く…。
“さあ、お入りなさい“
ぎゅっと目を閉じる。指先に力を入れると逆効果で、更にがくがくと震えた。慌ててジンジャエールを床に置き、必死に耐える。耳も寒いでしまいたかった。少しでも気を抜いてしまったら、彼の声を受け入れてしまったら。
僕はあの海に溺れてしまう!
この時渉からの着信が鳴り響かなければ、どうなっていたのか分からない。一斉に非難の視線を浴びた僕は、それを口実に飛び出した。
「渉、助けて」
急き切って電話に出た僕の声は、まだ震えていた。
しかし電話口の声は、恋人の声ではなかった。クスクスという女のバカにしたような笑い声。その高い声に覚えがあった。佳乃子ではない。絵里奈でもない。
赤い月の下で世界の終わりを待っているあの女。
「最後に教えてあげる」
呆然と立ち尽くすだけの僕に向かって、電話口の彼女は囁いた。
「私は成田真純。あなたと同じ、成田真純」
うふふ、という笑い声が耳に響く。
僕の足元に波が寄せる。
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