素晴らしい恋人

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静かに吐息を交えた後、床に打ちつけるシャワーの音をBGMに、先ほど見た夢を思い浮かべる。 例によって朧げではあるが、素晴らしい光景であった。 理想とする女。 誰よりも賢く、誰よりも美しい女が誘っていた。彼女の滑らかな肌の感触は今でもありありと思い出せる。 渉の名誉のために言っておくが、満足していないわけではない。むしろ僕が情熱的に愛しているせいで、たとえ行為が下手であっても何も不足に思わないだろう。ただあの大きな手のひらが、薄い唇が、肌をなぞるだけで僕の体は敏感に反応してしまうのだから。 部屋に戻ると、渉はすでにベッドに体を埋めていた。外は白み始めている。 傍のミニテーブルには、レイ・ブラッドベリのファンタジー小説が置いてある。ページの間に栞代わりの輪ゴムが半身をのぞがせていた。手近にあるものを適当に挟んだのだろうけど、少し心許ない。僕はその本を手に取って、適切に栞を挟んだ。重大な役割から解放された輪ゴムは随分朽ちていて、無意識に手のひらで弄んだだけで千切れてしまったほどだ。 脱ぎ捨てられた服の上にスマートフォンが転がっている。渉のものだった。気になったのでこっそり確認した。複数の女の名前が送信元のメッセージがあった。『昨日はありがとう!』という微妙なラインのものが多いが、めくじらを立てるほどではあるまい。 対してカバンに突っ込んだままの僕のスマホに届いているものといえば、数件のダイレクトメールとしつこいクラスメイトからの連絡だけだった。必要性を感じず、電源を落とす。 間接照明を消し、バスタオルを剥いで僕もベッドに潜り込んだ。 「今日は、どんな世界に行っていたんだい?」 渉がむにゃむにゃと、キスをしながら尋ねてきた。僕はそれに応じながら先程の夢の内容を言って聞かせる。 渉は僕の突然夢を見る症状を、旅行(トリップ)と呼んだ。その夢はぼんやりとして特徴がなく、話して聞かせるほどのものではないが、それでも渉は内容を知りたがった。僕が話すとまるで素晴らしい映画を見ているかのように聞き、時に笑い、時に目を丸くするのだ。 「その女性は誰だったんだろう」 渉は穏やかな表情を崩さずに呟いた。僕がその女を抱いたことを咎めるでもなく、かといって嫉妬しているわけでもなさそうだ。ただ単純に、疑問に思っているのだろう。 再度渉に寄り添う。石鹸の香りでかき消されてしまった彼本来の匂いを確かめるため、赤茶けた髪の毛に顔を埋め、口付けしながら息を吸いこんだ。 「トリップ先は幻だよ。僕が脳内で勝手に生み出した世界だ。この世に存在しないのさ。深く考える必要はない」 「そうかな。もしこの世界が君の脳内を具現化したものだとしたら、それこそ考える必要があると思うけど。女性と寝る幻想だろ。君が抱きたいと思っている女の子かも」 「まさか」 思わず大きな声を上げた。 「僕は一度でも女性を抱きたいと思ったことはないよ。女が苦手なのは知っているだろう?今だって、さっきの幻覚を思い出すだけで気分が悪い。吐きそうなくらい嫌なんだ。それでも渉が知りたいというから教えてやってるんだ。ねえ、渉。君だけは信じてよ。僕は君だけに愛されればそれで十分なんだから」 「そうだね。悪かったよ。もう言わない」 渉が慌てたように抱き締めてくる。それだけで満足したが、もう少し甘える事にした。 「僕のいうことを一つだけ聞いてくれたら、許してあげる」 「わかった。どうすればいい?」 「お酒が飲みたい」 「ダメだよ。未成年だろう」 「いいじゃないか。後三年で成人だし、選挙権はもうすぐもらえるんだ」 「後三年が短いと思うなら、それまで待つことだよ。ねえ。まさかとは思うけど、俺の煙草をこっそりくすねていないか?最近減りが早いと思っていたところだ」 「なあに、説教でもするつもり?君だって年端も行かない少年を部屋に連れ込んで抱いているくせに」 それから僕たちは顔を見合わせ、声を出して笑いあった。 渉の不思議な瞳に自分の顔だけが写る瞬間、全身が幸福に包まれる。僕は誰よりも渉のことを愛していた。渉に愛を伝えるためなら、どんな陳腐な言葉でもすらすらと言えた。 『世界で一番愛しているよ。君がいなくなるくらいなら、僕は死を選ぶだろう。渉のいない世界なんて無価値だから』
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