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chord 35 決心
開店にはずいぶん早い午後十六時過ぎ。
私達二人はトロイメライにいた。二人揃って店の中に入ると、カウンターで開店準備をしていたマスターが「お帰り」と笑って出迎えてくれた。
いつも決まって座っていたカウンター席ではなくて、お互いの顔が見えるようにテーブル席に腰を下ろす。
向かい合って改めて顔を見ると、なんだか照れ臭かった。
テーブルの上に両手を乗せて、温もりを確かめるように握り合う。
客観的に見たら、もの凄く恥ずかしいことをしているとは思うものの、彼の手を離せなかった。
少しでも彼に触れていたかった。
だって一度は諦めた手だから。
もう二度と、触れられないと思ったから。
なんてしあわせな時間なのだろう。
一分一秒が大切で仕方ない。
晴翔も同じ気持ちでいてくれるのか、私の指先や爪も撫でるように優しく触れている。
愛しさが指先から胸の奥へと伝わって、涙が出そうになる。
そんな私たちの間を邪魔しないように、すぅっと静かにコーヒーカップがテーブルの上を滑るように置かれた。
見ればマスターが、ほほえましげに微笑を湛えて立っていた。
「すみません」
「長い話になるかなと思って。年寄のお節介」
マスターが目を細める。
ちょっとだけ気恥しくなって、急いで手を離してカップを手に取る。
彼はプッと噴き出したあと、くるりと踵を返して、奥の厨房へと戻って行ってしまった。
「マスターはなんでもお見通しみたいだね」
「まあ、彼は俺の師匠だし。今となっては実の父親ってかんじだし。ああ見えてさ、レッスンってなると鬼みたいに厳しいんだよ? 垂れてる目をさ、こうやって吊り上げるんだ」
晴翔が自分の目を指先で吊り上げて見せる。
無理やり吊り上った顔がおかしくて、声を立てて笑ってしまう。
すると奥から「おーい、聞こえてるぞお」というマスターの声が飛んできて、今度は二人してクスクスと声を殺して笑い合った。
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