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「そう言えば、お砂糖はいらなかったよね?」
ひとしきり笑い合った後で晴翔に尋ねると「瀬奈はミルク入れるでしょ?」と返ってきた。
「好みまで覚えてくれてるんだね」
「きみのことならなんでもね」
「あれ? ちょっと待って。今。なんて……?」
あまりにさらりと言われたから気づくまでに時間がかかってしまったが、今、名前を呼び捨てされなかっただろうか。
晴翔は照れたように笑いながら、私にミルクの入った小さなポットを差し出した。
きっと私が思うよりもずっと、彼は緊張して私の名前を口にしたのだろう。
それが可愛くて、思わず吹き出してしまう。
「まいったな。すっごく勇気出したのに」
「うん。わかってる」
彼から受け取ったミルクをカップに流し入れる。
水面にマーブル模様が描かれていく。
スプーンで二回かき混ぜる。
すっかりミルクと溶けあったコーヒーが優しい色合いになる。
熱すぎない適度な温度になるように、ふうふうと息を吹きかけ口に含むと、膨らんだ心を包み込まれるみたいに胸の真ん中がほかっと温かくなる。
私同様にカップに口をつけた晴翔がふぅっと小さく息を吐いた。彼はソーサーの上にカップを戻すと、私に目線を向けて「本当は不安だったんだ」と眉を下げて笑った。
「不安?」
「フラれる覚悟だったから」
「どうして?」
「もう俺のことは必要ないって……言われたの、めちゃくちゃつらくてさ」
「確かに……でもあれは私なりの精一杯の強がりだったから……」
「うん。いろいろ考えるとね。俺はきみのなにを見ていたのかなって、ぜんぜん自信が持てなくなっちゃってさ。でも、どんなに考えても、やっぱり諦めがつかなかったんだ」
言いながら一度、晴翔はコーヒーに視線を落とした。それから、もう一度顔を上げると「考えたんだ」と言った。
「他の男にきみを取られてもいいのかって。覚悟がないわけじゃなかった。俺じゃなくて、他の男のほうがきみはしあわせになれるかもって思ったのも確かだよ。でも何度想像しても、きみが俺以外の他の誰かの隣で笑っているなんて、まったく想像できなかった。許せなくて、悔しくて、やりきれなかった」
「晴翔……」
「きみを傷つけたくないと思っていたのに、一番ひどい男は俺自身だったことにやっと気づいたんだ。だからもう、逃げるのはやめようって思った。きみの答えがどうであれ、自分の気持ちから逃げるのはやめようと思って、空港から引き返したんだよ」
彼は一呼吸置くと「俺はさ」と言った。
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