chord 35 決心

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「ならさ。プライベートでパートナーになれば、一緒に弾いてもらえる?」 「え?」 「大切にする。もう泣かせない。淋しい思いなんかさせない」  私の心を見透かすみたいな、熱い思いが乗った矢のように鋭い視線が、深く、深く私に刺さる。 「だからさ。結婚を前提にして……付き合ってほしいんだ」 「え?」  目が点になる。  なにを言われたのか、一瞬ぼんやりしてしまう。  結婚を前提にしてつき合う――プロポーズされたのだろうか。  そもそも、結婚に憧れているわけでもないし、結婚したいと思っているわけでもない。  それに、いくらなんでも早すぎる。出会ってまだ二カ月きりなのに、だ。  晴翔は私の手をギュッと強く握りしめている。 「やっぱり『指輪』がないとダメ?」  晴翔は私の手を強く握りしめたまま、真面目な顔だけを崩し、くしゃっと笑った。  いたずらを思いついた少年みたいな笑顔。初めて会ったときにも見た顔だった。 「『指輪』を貰ったら考える」  ちょっとだけ、彼を困らせるつもりだっただけなのに―― 「そっか」  晴翔はうんと大きく頷くと、一気にコーヒーを飲みほした。 「マスター! 笹原さんに瀬奈のОK貰ったって、笹原さんに連絡してもらっていいですか?」 「ちょっ……晴翔!」  自分の思惑とまったく違う方向に話が向いたことに驚いて、私は飛び上がるように席を立った。  そんな私を見上げる晴翔の顔は、これまでのどんなときよりも意地悪く見えた。  彼はスクッと立ち上がると、テーブルについた私の手を掴む。 「美味しいコーヒー、ありがとうござました! お代は二人で連弾営業しますね!」 「そりゃあ、お客さん、入りきらなくなりそうだ」  マスターが私たちをほほえましそうに見つめる。  晴翔はマスターに軽く手を上げると、私を引っ張るようにして外へと飛び出した。 「ちょっと! 今度はどこに行くの!?」  戸惑う私に、晴翔はほほ笑みを投げて寄越した。 「指輪、買いに行くんでしょ?」 「買いにって……冗談でしょ?」  驚いて彼を見つめ返す私に、「冗談じゃないよ」と彼は笑った。 「瀬奈に決心してもらわないといけないからさ。これからずっと一緒に一つの曲を作っていくんだから」 「そんなことしなくても……決心なんかするから!」  焦って訂正する。だけど晴翔は首を横に振る。 「他の男に『俺の大切な人』って見せつけられるから、指輪は必要だよ」 「もうっ! さらっと大事なこと、言わないでってば!」 「あはは。照れて真っ赤になってる瀬奈、すっごく可愛い」 「もうっ! やめてってば!」  傍にいるだけで、手を触れるだけで。  ううん。  心が重なるだけで、こんなにもしあわせな気もちになるんだって私はやっと知ったような気がした。  街灯がともり始めた中を、私たちはまっすぐ前だけを見て走りだす。  彼の手を離さないように強く、強く握りしめながら、私は心の中で叫んだ。  ありったけの大きな声で。  大好き、と――
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