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「コンサート、中止にさせちゃってごめん。だけど今日は退院できなくてサプライズ失敗しちゃった」
晴翔は無邪気に笑ってコリコリと頭を掻いたが、動いた途端に痛みが走ったらしく、眉を寄せてつらそうな表情を作った。
「晴翔!」
指輪の入った箱をベッドに置く寸前で、晴翔に抱きしめられた。
彼は私の頭に自分の顔を押し付けて「不安だった」と口にした。
「事故に会った直後さ。意識が遠のいて、もうこのままきみに会えないかもって本当に覚悟したんだ。不安で不安で……きみを置き去りにすることになるのか。きみとの約束を果たせなくなるのかって……」
そこまで一気に話すと、ふぅっと小さく晴翔は息を吐いた。
「意識がないって自覚はなくて……ただ眠っているみたいな時間だった。でも夢の中は真っ暗でなにも見えなくてさ。瀬奈の顔を思い出そうとするのに浮かばなくて……焦って、不安で、どうしたらいいかわからなくて……そう思っていたらさ。ピアノの音が聞こえたんだ」
「ピアノ?」
「うん。ショパンのノクターン。アニキの弾くノクターンだった」
晴翔は私から体を離すと顔をじっと見つめ、私の左手を掬いあげた。
軽く握るとまた、話を続ける。
「初めはね、すごく小さな音だったんだよ。音のするほうに歩いていくとだんだん大きくなってさ。真っ暗だったところに光が見えてきてね。光の出口にアニキがいたんだ。おまえは戻れって。笑ってた。で、夢をちゃんと叶えて来いって。アニキに俺、話しかけようとしたんだけど、あっという間に光に飲み込まれて……気づいたら目が覚めて、このとおり」
「謙太郎さん……ずっと見守ってくれてたんだね」
「うん。だから俺、アニキの分も生きなくちゃって思った」
「そうだよ。ずっと一緒にピアノ、弾くんでしょ?」
「それなんだけどさ……今日はやっぱり指輪、渡せなくなっちゃったから。その……次回のコンサートまで待ってくれる? プロポーズ」
心底悔しそうに困り顔を作る晴翔に、私は「いいよ」と宝石箱を返した。
「あんまり長くは待てないけどね」
「瀬奈はいじわるだ。怪我が治ったら、絶対に仕返ししてやる」
「そんなこと言うと怪我してるところ、つつくわよ?」
私がつつく真似をすると、晴翔は満足そうに大きく笑った。
「みんなに謝っておいて。今度は絶対にいい演奏をするって約束するからって」
「うん……わかってる」
「瀬奈。愛してる」
「私も晴翔を愛してる」
晴翔の手を握りしめて告げる。彼は満面の笑みを浮かべながら頷くと、ベッドに横になり、目を閉じた。
「ずっと傍にいるからね……」
ささやきを一つ残して、私は病院を後にした。
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