4人が本棚に入れています
本棚に追加
肌寒い夜だった。
児童公園の木製ベンチに座って両手をこすり合わせる。
電灯の少ない公園は、夜の闇をさらに濃くしていた。
公園の隣には、古くからある小児科医院がある。夜間救急を受付けるこの辺りでは数少ない病院だ。
夕飯のあと、弟の裕太がまた発熱した。
ついこの前も、寝込んでいたと思ったら、まただ。
ママはいつも裕太につきっきりで、ぼくのことはほったらかしだった。
今日も裕太の診察を待つ間、公園で待とうとここにやってきた。
長くかかりそうだ。本を持ってきて良かった。
鞄から一冊の本を出し、広げようとした。
そのとき――
「今宵は月がよく見えますね」
隣のベンチにいつのまにかおじさんが座っていた。心臓がばっくんと跳ね上がる。
おじさんは、夜空からぼくに顔を向けた。まん丸い顔をして、嬉しそうに微笑んでいる。全然怖くなかった。なぜだか悪い人とは思えなかったのだ。
ぼくが空を見上げると、おじさんの言うとおり、今夜の月は綺麗な円を描いていた。
「おじさん、月が好きなの?」
久しぶりに声を出した。
今日、学校では、朝の出席を取る返事のときしか口を開かなかった。ぼくには、仲良くおしゃべりをする友だちがいない。もしかしたら、家でも一言二言しか発言していないように思う。
「はい、好きです。わたしも、月のようになりたいものです」
「へえ。太陽じゃなくて?」
明るい太陽のようになりたい、ならよく聞く話なのに。
でも、おじさんは相変わらず穏やかな表情で満月を見上げている。
「はい。月になりたいものです」
「どうして?」
さらに尋ねると、おじさんは答える代わりに、質問してきた。
「なぜ、月が光っているか知っていますか」
「ううん、知らない」
そんなこと、考えたこともない。夜空の月が光っているのは当然なのに、変なことを聞くおじさんだ。
「わたしたちが見ている月は、太陽の光が当たっている部分です。だから、地球が月と太陽のちょうど間にあるときに、月はまん丸く光って見えます。今宵の月のようにね」
ぼくが首をひねっていると、おじさんは腰を曲げて、落ちていた小枝を拾った。その枝で、地面の砂に大きさの違う丸を三つ横並びに描いた。
「左から、月、地球、太陽……。ほら、この位置だと、地球から見た月はまん丸に光るでしょう?」
確かにそうだ。ぼくは前のめりになった。
「えっと、それじゃあ半月の日は……」
拾った小石で、地球の真上に月を描く。
「そのとおり。地球から見て、月の半分だけが太陽に照らされて見えるので、半月になります。そして、言わずもがな」
おじさんは小枝で地球と太陽のちょうど間に月を描く。
「このときが、新月。つまり地球から月明かりがまったく見えなくなる日です」
「ふうん、けっこうおもしろいじゃん」
「ええ。月は太陽に照らされ、地球の闇に明かりをもたらしているのです」
月が光っている理由は分かった。でも――
「おじさんが月になりたい理由になってないよ」
すると、おじさんは三日月型になった瞳でぼくを見た。
「いいえ、わたしはまさに月のようになりたいのです。誰かに照らされ、わたしも誰かを照らしたい」
なんだかおもしろくなかった。
「へえ。じゃあ、ぼくは新月の日の地球になりたいや。誰に照らされることもなく、誰かを照らすこともない。ぼくは、ひとりが好きなんだよ」
学校でも、家でも、いつだってひとりだ。
ぼくを馬鹿にする友だちなんかいらない。
仕事ばっかりで家に帰ってこないパパも、裕太ばっかりかまうママも、熱ばっかり出す裕太も、みんないらない。
「ほう。地球になりたいですか……」
おじさんは微笑んだ。
「なにが可笑しいんだよ?」
「いえ、失礼……。でも地球は月の光になり得るのです。月が太陽に当たっていない部分。つまり、月からしてみれば、月の夜ですね。そのとき、月では太陽の強烈な光が当たらないため、暗いです。でも……」
おじさんは再び月を見上げた。
「そんな中、明るい光が夜空に見えるのです。その光の正体はなんだと思いますか?」
地球……だ。
「お分かりですね。地球の夜に月明かりがあるように、月の夜には『地球明かり』があるのです。だから、キミも、誰かの明かりになることがあるでしょう」
「そんなの……」
あるわけない、と反論しようとしたとき、公園の入り口に裕太を抱いたママの姿が見えた。
「真人! こんなところに……」
ママが泣き出しそうな形相で、ぼくのほうへ駆けてくる。
なんだよ、裕太が落ち着いたからって。
ふと、隣に目をやると、おじさんの姿が消えていた。
いつのまに……
そういえば、とおじさんの顔を思い出して、思わず頬がゆるんだ。
おじさん、満月みたいにまん丸な顔だった。
今宵の月のように――
最初のコメントを投稿しよう!