今宵の月のように

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 肌寒い夜だった。  児童公園の木製ベンチに座って両手をこすり合わせる。  電灯の少ない公園は、夜の闇をさらに濃くしていた。  公園の隣には、古くからある小児科医院がある。夜間救急を受付けるこの辺りでは数少ない病院だ。  夕飯のあと、弟の裕太がまた発熱した。  ついこの前も、寝込んでいたと思ったら、まただ。  ママはいつも裕太につきっきりで、ぼくのことはほったらかしだった。  今日も裕太の診察を待つ間、公園で待とうとここにやってきた。  長くかかりそうだ。本を持ってきて良かった。  鞄から一冊の本を出し、広げようとした。  そのとき―― 「今宵は月がよく見えますね」  隣のベンチにいつのまにかおじさんが座っていた。心臓がばっくんと跳ね上がる。  おじさんは、夜空からぼくに顔を向けた。まん丸い顔をして、嬉しそうに微笑んでいる。全然怖くなかった。なぜだか悪い人とは思えなかったのだ。  ぼくが空を見上げると、おじさんの言うとおり、今夜の月は綺麗な円を描いていた。 「おじさん、月が好きなの?」  久しぶりに声を出した。  今日、学校では、朝の出席を取る返事のときしか口を開かなかった。ぼくには、仲良くおしゃべりをする友だちがいない。もしかしたら、家でも一言二言しか発言していないように思う。 「はい、好きです。わたしも、月のようになりたいものです」 「へえ。太陽じゃなくて?」  明るい太陽のようになりたい、ならよく聞く話なのに。  でも、おじさんは相変わらず穏やかな表情で満月を見上げている。 「はい。月になりたいものです」 「どうして?」  さらに尋ねると、おじさんは答える代わりに、質問してきた。 「なぜ、月が光っているか知っていますか」 「ううん、知らない」  そんなこと、考えたこともない。夜空の月が光っているのは当然なのに、変なことを聞くおじさんだ。 「わたしたちが見ている月は、太陽の光が当たっている部分です。だから、地球が月と太陽のちょうど間にあるときに、月はまん丸く光って見えます。今宵の月のようにね」  ぼくが首をひねっていると、おじさんは腰を曲げて、落ちていた小枝を拾った。その枝で、地面の砂に大きさの違う丸を三つ横並びに描いた。 「左から、月、地球、太陽……。ほら、この位置だと、地球から見た月はまん丸に光るでしょう?」  確かにそうだ。ぼくは前のめりになった。 「えっと、それじゃあ半月の日は……」  拾った小石で、地球の真上に月を描く。 「そのとおり。地球から見て、月の半分だけが太陽に照らされて見えるので、半月になります。そして、言わずもがな」  おじさんは小枝で地球と太陽のちょうど間に月を描く。 「このときが、新月。つまり地球から月明かりがまったく見えなくなる日です」 「ふうん、けっこうおもしろいじゃん」 「ええ。月は太陽に照らされ、地球の闇に明かりをもたらしているのです」  月が光っている理由は分かった。でも―― 「おじさんが月になりたい理由になってないよ」  すると、おじさんは三日月型になった瞳でぼくを見た。 「いいえ、わたしはまさに月のようになりたいのです。誰かに照らされ、わたしも誰かを照らしたい」  なんだかおもしろくなかった。 「へえ。じゃあ、ぼくは新月の日の地球になりたいや。誰に照らされることもなく、誰かを照らすこともない。ぼくは、ひとりが好きなんだよ」  学校でも、家でも、いつだってひとりだ。  ぼくを馬鹿にする友だちなんかいらない。  仕事ばっかりで家に帰ってこないパパも、裕太ばっかりかまうママも、熱ばっかり出す裕太も、みんないらない。 「ほう。地球になりたいですか……」  おじさんは微笑んだ。 「なにが可笑しいんだよ?」 「いえ、失礼……。でも地球は月の光になり得るのです。月が太陽に当たっていない部分。つまり、月からしてみれば、月の夜ですね。そのとき、月では太陽の強烈な光が当たらないため、暗いです。でも……」  おじさんは再び月を見上げた。 「そんな中、明るい光が夜空に見えるのです。その光の正体はなんだと思いますか?」  地球……だ。 「お分かりですね。地球の夜に月明かりがあるように、月の夜には『地球明かり』があるのです。だから、キミも、誰かの明かりになることがあるでしょう」 「そんなの……」  あるわけない、と反論しようとしたとき、公園の入り口に裕太を抱いたママの姿が見えた。 「真人! こんなところに……」  ママが泣き出しそうな形相で、ぼくのほうへ駆けてくる。  なんだよ、裕太が落ち着いたからって。  ふと、隣に目をやると、おじさんの姿が消えていた。  いつのまに……  そういえば、とおじさんの顔を思い出して、思わず頬がゆるんだ。  おじさん、満月みたいにまん丸な顔だった。  今宵の月のように――
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