満月の夜の訪問者

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 満月の夜。一匹の黒猫は、男のもとへ現れた。  男は縁側に座り、月の明かりに照らされる庭を眺めながら、お猪口を口へと運ぶ。刺激の強い香りが鼻から抜けると、側に置いてあった皿から団子を手に取って口の中へと放り込んだ。 「甘ったるい団子と酒は、どうにもオイラには合わねえな」  男はぶつぶつとぼやきながら、団子を肴にして酒を飲み続ける。少刻が経って、男は庭に降りてくる月光が一部途切れていることに気が付いた。 「おや? なんでえ、猫っころかい。オイラのとこに来たところで、何もありゃしねえよ。さっさと帰りな」  男は追い払うように足をばたつかせた。だが、猫は怯むことなく、なお男に歩み寄って行く。 「お前さん、まさかこの団子を食いてえってんじゃねえだろうな。猫っころの分際で、人様と同じもんを食おうなんざ、ふざけた野郎だぜ。近所の連中はどうだか知らねえが、オイラは絶対にやらねえからな」  男は皿に盛られた団子を矢継ぎ早に口へ放り込んだ。頬が膨れるほどに団子を詰めて、隙間から苦しみの息を漏らしながら懸命に咀嚼していく。  男のそんな様を見ながら、黒猫は大きく鳴いた。 「ふぁふ! ふぁふぁふぁほふ。ふぉふぉへほ!」  叫ぶ男を無視して、黒猫は皿の上に残された団子にかぶりついた。一個二個三個と、まるで手品のように団子の姿がその場から消え去って行く。  男は慌てて酒で団子を流し込み、言葉を吐いた。 「誰が食ってもいいって言った!? さっさと出て行かねえと、とんでもねえことになるぞ!」  男の怒声に怯えたのか、黒猫は身体を跳ねあがらせて、すぐさまその場から逃げ去って行った。既に、皿の上からは団子は一つ残らずなくなっている。  男は深くため息をついて、満ちに満ちた丸い月を肴に、また酒を飲み始めた。月光は変わらず、庭を照らし続けている。  次の満月の日。男は、いつもと同じように縁側に座り、団子と酒を傍らに置いていた。  なんとなくだが、男には予感があった。きっとまた、あいつはやってくるに違いない、と。そしてその予感は、見事に的中した。 「ちっ、今日も来やがったか。この前はしてやられたが、今日はそうはいかねえ。観念して帰りやがれ」  男は地面を蹴り上げた。舞い上がった砂が黒猫に覆い被さったが、黒猫は意に介さない様子で、じっと、団子が盛られた皿を見つめ続けている。 「ほお。中々肝が据わってやがるな。頭からそんなものかけられちゃあ、思わず目を瞑ってしまうもんだが、細めることすらしやしねえ。そんなにこの団子が気に入ったのかい?」  黒猫は視線を変えることなく、力強く鳴き声を上げた。頭の上に乗った砂を払う素振りすら見せない。 「よし、分かった。ちょっと待ってろい。いいか、オイラの分は食うんじゃねえぞ」  男はそう言うと、おもむろに立ち上がり奥の部屋へと歩いて行った。黒猫は視線を団子から男の背中へと変えて、か細い声で鳴いた。  団子に目を向けることなく、男が消えていった方角をしばらく見続けていると、暗闇の中から形作られていくようにして男の姿が現れた。  男の手には団子が盛られた小皿が見える。男は裸足のまま庭へと降りて、地面に小皿を置き、再び縁側へ腰かけた。 「ほらよ。お前さんの分だ。遠慮なく食え」  男の言葉を待っていたのか、さっきまでじっと座り続けていた黒猫は勢いよく団子に飛びついた。小さく呻き声を漏らしながら、がつがつと団子を食い荒らしていく。 「贅沢な猫っころだぜ。団子なんて、人様でも食えねえ奴が大勢いるってのによ」  男は月明かりに照らされる黒猫を眺めながら、酒をあおった。深く息を吐いて、視線を月へと移し、そしてまた黒猫のもとへ落とした。  皿に盛ってあった団子を食べ終わった黒猫は、満足した様子で毛づくろいを始めている。 「もう食い終わったのかい。もっと味わって食いやがれってんだよ、たく。まあ、いいか。それよりも、そんなに一気に食っちまったら喉が渇いただろう。オイラの団子を食ったんだ、この際、こっちも付き合ってもらうぜ」  男は裸足のまま地面の上を歩いていき、空になった小皿に酒を注いだ。黒猫は水だと思ったのか、団子同様勢いよく飛びつき、皿に満たされたそれを舌で数回掬い取って飲み込んだ。    そして、飲み込んだと同時に、ふぎゃー、と甲高い鳴き声を上げてその場にひっくり返った。 「なんでえ、酒も飲めねえのかい。ガキにはママのおっぱいの方がよかったか」  男の嫌味を理解したのか、黒猫は即座に飛び上がって右の前足で小皿を蹴り上げた。小皿は見事に宙へ舞い上がり、男の頭上に至ると、重力に従ってその身を反転させて落ち始めた。  皿の中にあった酒も、重力に逆らうことなど出来ずに、男の頭部目掛けて流れ落ちて行く。 「てめえ! どうしてくれんだい、びしょびしょじゃねえか!」  怒鳴り散らす男を前に、黒猫は嬉しそうにその場で数度飛び跳ねた。男はそんな黒猫のもとへ裸足で向かうが、近づいた分、黒猫はぴょんと跳ねて遠ざかる。茶番のようなその光景を何度か繰り返すと、黒猫は庭の外へと出て行った。  その後。満月の夜が訪れる度、黒猫は男のもとへと現れた。男はいつものように悪態をついて、黒猫はそれに対して楽しんでいる様子を見せた。  追いかけて、逃げて。逃げて、追いかけて。  一人と一匹が疲れてくると、それぞれ並んで縁側に座り、専用の皿で共に団子を食した。男は毎度黒猫に酒を飲ませてみたが、その度男は酒を頭上から被る羽目になった。  そして。  幾度目かの、満月の夜。  男は小皿に団子を盛り、自分のとは違うお猪口に酒を注いで、縁側に座っていた。  庭に落ちる月光の位置が、変わっていく。  男は、庭を隅々まで歩いてみた。だが、どこにもあの姿が見えない。 「なんでえ。今夜はどっかのべっぴんさんとでも飲んでんのかい?」  月に問いかけてみたが、返答は何もない。男は眩しく光る月を細くした目で見つめた後、縁側に置いてあった小皿とお猪口を庭の真ん中に置いた。  家の中に戻って、少刻の後、男がまた出てくる。腰間には、鞘に収まった一本の刀が備えられていた。  裸足ではなく草履を履き、敷地外へと出て行く。  夜道は暗いが、地に降り注ぐ月光が道を示しているかのように、所々が明るく光っている。男はその光を頼りに、道を進んで行った。  そして――出会った。  一瞬、黒く汚れた雑巾が落ちているのかと思った。でもそれは、目を凝らさなくとも分かる。命を失った、一つの亡骸であることは。 「おいお主、何奴だ! このような時間に刀を差して出歩いているとは、どこぞかの刺客か!」  誰何の言を述べたのは、黒い亡骸の向こうで佇んでいる八人の内の一人であった。それぞれが腰間に刀を差していて、全員が柄に手をかけている。  その八人の後ろには、豪奢な駕籠(かご)が置かれていた。 「いやあ、そんな者じゃありやせんぜ。オイラはただ、ダチ公の姿が見えなかったもんだから、探してただけ。夜道は物騒なもんで、念のために刀を持ってるんでさあ」  男は軽い口調で言い放った。あまりに剽軽な態度がより不信感を抱かせたのか、八人は一斉に刀を抜き放ち、切っ先を男へと向けた。 「ここらでは、人一人見かけておらぬ。今すぐこの場を立ち去るのであれば、我らも刀を納めよう。さあ、早急に立ち去れ」 「いやあ、それがそうもいかんようで」 「何故じゃ?」 「オイラのダチ公が、そこにいやがるもんですから」  男は左手で頭を掻きながら、右の指で地面に転がる亡骸を指差した。 「猫が、友と? ふはは、笑わせよるわ。人が、猫と友などと。お主、頭が少々おかしいのではないか? 金をくれてやるから、医者へ行った方がよいぞ」  八人の笑声が、閑静な夜道に響き渡って行く。男は困った様子で、前方の八人を眺めていた。 「この猫は、何を急いでいたのか、我が殿の駕籠にぶつかってきたのじゃ。故に、拙者が始末した。刀が猫畜生の血で汚れるのは耐えがたいことではあるが、我が殿に対しての狼藉であったからな。仕方あるまい」  男はゆっくりと歩を進めて、黒猫の側で腰を下ろした。追いかける度逃げられたが、今はもう、動くことすらしない。勢いよく団子に食らいついていた口は、だらしなく開きっぱなしで、喉の奥から鮮血が溢れ出している。  男は一度、黒猫の頭を撫でてから、ゆったりと立ち上がった。腰間の刀を鞘から抜き出して、八人と対峙する姿勢を取る。男の目はどこか虚ろで、瞳の色が月光の側に寄り添う、暗闇のような色になっていた。 「オイラの嫁は、戦を仕掛けてきた他国の奴らの慰みものになった挙句殺された。倅やダチ公は、戦の中、オイラの隣で死んだ。おかしなもんですぜ、こんなどうしようもねえオイラだけが、生き残ってるなんてのは」 「お主の話など、どうでもよい。刀を抜いたからには、覚悟は良いのだろうな? こちらは八人、到底勝てるわけもなかろう」 「それはそうでえ。オイラは、てんで強くもねえからなあ。ただ、今生の最後のダチ公のために、どうしても刀を抜きたくなっちまった。お偉いさんに刀を向けるなんざ、親族全員殺されても文句が言えねえ大罪だ。だが、オイラは一人。だったら気兼ねなく、ダチ公と一緒に死ねる、ってもんだ」 「お主には、忠義がないのか」 「さあ。あるにはあるんだろうが、オイラにはそれよりももっと大事なもんがあるんでえ。顔も知らねえお殿様なんかより、酒を飲み交わしたダチ公との絆の方が、忠義なんかよりもずっと大事なんでさあ」  男は勢いよく飛び出した。その様はまるで、団子に飛びつくかのようであった。 「いい満月の夜だ。オイラにはもったいねえな。なあ、ダチ公。オイラ、ちったあ、ましな人間になれたかなあ。そっちにいったら、嫁の団子酒に付き合いながら、倅とダチ公に囲まれて、くだらねえ話で盛り上がりてえもんだ。お前さんも、きっと喜ぶぜ。嫁の団子は、オイラが作ったやつなんかより、数倍うめえからよ」  男の振るった刀は。衣服にすら触れることはなかった。  面倒事をただ断ち切るといった風に、男の身体は何度も悪意無き刀に斬られ、数秒の後に、先に血と魂を流し切っていた友の横に没した。  同じ赤い血が混ざり合っていくのを眺めながら、男は自分の生涯を思った。出来過ぎていたのか、そうではなかったのか。それははっきりとはしなかったが、それでも、最後に友と呼べる者の横で息絶えることが出来るのは、夢のようであった。  月の明かりが地上を照らす。  その先には。誰も知らない、一人の男と一匹の黒猫が、ただただ無残に、その生涯を終えていた。        
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