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「佐橋、英和辞典忘れた」
月曜日、2時間目が始まる5分前。
僕は後ろの席の佐橋雄大に声をかけた。
「隣のクラスに借りに行くか」
C組には去年同じクラスだった秋津昌美が
いる。
佐橋も立ち上がり、教室を出た。
「秋津ー」
廊下の空いている窓から教室の奥にいた
秋津を呼んだ。
「あれ。葵ちゃん、どした?」
笑顔で近寄ってくる秋津に
「英和辞典持ってる?貸して欲しい」
と言葉を続けると、秋津は残念そうに
「ごめん。家に持って帰っちゃった」
と言った。
「川瀬が持ってるかも、ちょっと待って?」
秋津が離れ、窓際の後ろの席に座っていた
男子に近づいていく。
「川瀬、英和辞典ある?」
「ん」
椅子を鳴らし立ち上がる彼と目が合った瞬間
息が止まった。
色素の薄い髪、物憂げそうな眼差し。
鍛えられた身体の線がワイシャツの上からも
はっきりわかった。
「誰に貸せばいいの」
英和辞典を手にした彼が、
緊張が止まらなくなった僕の前に立った。
彼の瞳の色は、髪と同じ茶色だった。
「借りに来た人?」
「あ、はい。D組の岸野です」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
辞書を差し出す彼の指先が受け取る僕の
指先に触れた。
「あ」
180センチは余裕で超えそうな長身の彼が
僕を見下ろし、呟いた。
「マジか」
「えっ」
意味不明な彼の言葉に驚き顔を上げた僕は、
彼の頬がみるみる赤くなっていくのを見た。
「岸野、もう時間だよ」
隣にいた佐橋に腕を取られ、
次の言葉が出ないままその場を後にした。
同時に始業のチャイムが鳴る。
慌てて席についたが、
川瀬という苗字しか知らない彼に
意識が絡め取られていた。
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