月夜の散歩

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ああ――月夜だからって、明るいとは限らない。 「だって、そうじゃないか。夜は夜だもん、お月さまだって、ゴキゲンななめの日もあって、地上を照らすだけ照らすことにも飽きて、あくびなんてさ、したくなる時もあるよね」 啖呵を切るようなタテオの言葉に、 「ナッルホドねー」と七郎は頷いて、 「でも、だからといって、雨が降って来そうな気配もないね」と些か反発の念を込めて言い返した――「そうさ、お月さまだってヒマじゃないでしょってわけでね。照ったり、曇ったり、降らせたりってね」 タテオは七郎の反論には応えず、今の話など聞かなかった風の顔をする。 そして、1時間ほど前のことなんだけどさ、と前置きして、その1時間前の眠り際、突然ツッツッツと枕元辺りへと走り込んで来た1匹ののおおきなゴキブリを、自分は背中の圧で、そのまま枕越し押し潰してやった、とそんな話をしてみせるのだった。 「うん、そうさ。背中を枕に押し当ててさ、一気にってね」 「え、でも、それって、ちょっと、かわいそうかも」 「なんでー。相手はたかがゴキブリだぞ」 「だってさぁ、たかがゴキブリだってさぁ、きみとさぁ、添寝なんてしてみたい、なんておもって枕元を走って行ってたのかもしれないしさぁ」  そ、そんな、と呟き、ヒト呼吸置いてから、「きみはやさしいやつだね、なんてオレってのは、言ってなんかやらないぞ」と力んだ声を返したタテオは、ともあれ、そのゴキブリのせいで寝そびれてしまって、オレはおまえに電話を掛けて誘った。だから、こうして2人、夜の散歩とシャレ込んでいるというわけだ、と悪びれない。 わるいな、とそれでもタテオは、夜中の散歩に連れ出したことを謝ってみせる。 「いや、それはかまわないんだけれど」 タテオとおんなじ、アルバイト暮らしの七郎は、この1ヵ月ほど、レストランのボーイの仕事が夕方からのシフトに割り当てられていて、午前0時前にはアガリとなる。 今日も自宅に戻って、カップラーメンとコンビニおにぎりの食事を済ませて、さあ録画済みのサッカーの試合でも見るかと構えていたところ、付き合ってくれよとタテオからの電話が入り、ああいいよとこたえた。 タテオとは、レストランの前のアルバイト先で知り合ったが(それは新聞販売店だった。朝夕と新聞の配達を行なう仲間であった)妙に気が合い、七郎がレストラン勤めに変わっても付き合いは続いていた。だから、頼みにはこたえてやりたいという気持があるし、それを果たすための体力というものが、バイト明けでも若い自分にはたっぷりと残っているのだと強気にもなれる。 こんな友達っていうのもイイものじゃん――少々昂ぶる気分のまま、七郎は夜中の散歩をヨシとした。 ゆっくりでもなく急ぎ足でもなく、月夜の道を、タテオと七郎は歩いている、歩いて行く。 そうしていながら、どうでもいいような話をどうでもよい調子でタテオと七郎は気軽に語り合う。 行きつけのコンビニで肉まんを買おうと思っていたら、切れている。自分が行く時間、もう3日連続でそうなんだと七郎がどうでもいいような口調で嘆けば、ああそういうことってあるかもな、とタテオもどうでもよいような風情で頷く。そのような呼吸がわるくない。 ――そうしているうち、中年の男女二人連れが、向こうから近づいて来る。 「第1号だね」とタテオは浮き立った声を洩らした。 今夜の散歩で、行き合うことになった最初の1組というわけだった。 ゆっくりでもなく急ぎ足でもなく近づいて来る1組は、タテオと七郎に、 「お仲のよろしいことで」と冷やかしかげんのまなざしを寄越したあと、 「ご気分はいかがですか」と丁寧に訊ねてきた。 「はい、程ほどには」 タテオはそれしきの応え方をして、七郎の肩に手を掛け、カップルですと冗談口調でもなく言う。 「それでなくても、アタクシは、つい先ほど、枕元に忍び込んできそうであった性悪のゴキブリを殺してやったばかりで、イイ気分で歩いております。 ハイ、そーした感じなのです」 「それはそれは、けっこうなことで。そう言えば、ワタクシらも、つい先ほど殺傷は犯しましたのですが、あいにくとゴキブリさんほどシャレたものじゃない。まあ、にんげんの一人や二人をちょいと息絶えさせた、なんてね、そう、首を絞めてね、ナイフで刺したりもしてね、まあ、それだけのことでして」 ハ、ハー。 タテオは即座に直立不動の姿勢となって、2人連れに頭を下げる。 じゃあ、と2人連れを手さえ振って見送るタテオに、 「なんて、礼儀正しい若者だ。あなたのような方には、きっとイイことがありますよ」と2人連れはやさしく声を掛け、2歩3歩と進み始めてから、ふと振り返り、「もちろん、お連れさんのあなたにもね」と七郎に向かっても微笑む。 タテオと七郎も2歩3歩と進む。10歩、歩いて、 「さっきの話って、もちろんマジじゃないよね」と恐々確認する七郎に、どうだかなぁ、とタテオは冗談口調でもなく頷いて、月夜の道を歩いているからにはこんなこともあるってさとやっぱりどうということもない口調でこたえ、 「ともあれ、もうあのお二人さんは去ったのだから過去のヒト、さあさあ、次なる出会いを期待して歩こう歩こう」と促す。 それから、そう、やはりやっぱり、ゆっくりでもなく急ぎ足でもない歩行を続けるままに、タテオは、さっきの肉まんの話なんだが、と話を戻し、オレは肉まんってのがキライじゃあないが、どっちかと言えば餡まん派だな、自分の行きつけコンビニでは、蒸し器の餡まんが切れていたことがない。ケダシ優秀なコンビニだろう、と七郎を羨ましがらせたりなんかした。 「優秀かぁ」「そう、優秀」「うん、優秀って言うしかないかもなぁ」「そうそう、ケダシ、ケダシ!」 そんな具合、アハハと言葉のやり取りを楽しんでいるうち、ほらほら、今宵第2号の御方たちがやって来るよ、とタテオは目を輝かせた。 とはいっても、2人連れの御方たちは、歩き方が凄まじく、のろい。 5メートル進むのに、5分は掛かろうかといった態で、それにあわせるように、タテオも七郎も足を極端にのろくさせるのが何やら面白くはあった。 だが、あと10メートル、というところまで接近すると、2人連れの御方たちは見る見る急激なスピード感を持って進む。見る見る近づく。 「お若いあなた方の活力のおかげで、私たちの歩みもすこぶる捗る格好となりました。ありがとうね」2人連れの御方たちは声を揃えて感謝する。 「夜の散歩には、そうした効力、愉しさもあるのですね。お月さまのおかげでしょうか」と透かさず頷き返すタテオ。 「そうそう。よく、おわかり。さすがですね」 褒められて、うれしそうなタテオは、「相棒です」と七郎を紹介した。 よろしく、よろしく、とあらためましてのあいさつを交わした後、御方の一人のその男性は、 「私達は2人とも百歳に近いのですが、こうして、不倫の果ての道行きとシャレ込んでおります」 と真顔で打ち明け、連れ合いの御方の一人のその女性の肩をそっと抱き寄せるようにした。 「そうでしたか」とタテオが無理なく相づちを打つと、 「2人とも、歳に似合った連れ合いを持っているのですが――そう、自分の妻は90歳。このひとの夫は95歳です」と相方の女性の手をいっそう握り締めて、御方の一人の男性は話を続ける。 「しかし、夫婦2組で仲良しこよしのご近所付き合いをしているうち、わたしとこのヒトが恋仲になってしまい、それからはまあお決まりのすったもんだがあり、こうして私とこのヒトは手と手を取り合っての、まあ、この夜も更けての駆け落ちという次第になっておりますわけで」 そうなのです、そうしたわけなのですと御方の一人の女性も勇む様子で言葉を挟む。 「わたしたちは、夕方5時辺り、それぞれの家を出まして、手に手を取り合い、駆け落ちを始めましたが、それぞれの連れ合いはすぐさまそれに気づいて、追いかけて来ました。彼らも年を取っていますから、追いかける足というものは速くないのですが、それでもわたしたちより幾歳か若い分のろくもない。それで、いつ追いつかれるものかと気が気でなかったのですが、正真正銘お若いあなた方の活力を頂いて、スピードが出ました。おかげで、ずいぶんと彼らに差を付けることが出来たようです。その分、こうして余裕綽々の道行きができるというものです。本当に、ありがとう」 皴が多すぎて、1本1本の指の在り処が判らないというほどの右手を突き出し握手を求める御方2人に、 「お達者で、きっと、イイことがおありですよ」とタテオは応えた。 「そうそう、何しろ、お月さまの光が応援してくれてもいますしね。あなた方にも、きっとイイことがありますですよ。そうですとも、年老いた私たち以上にね」 御方2人は声を揃えて、達者な足取りで、先を行く。 いろんな人たちがいるんだよなぁとカンガイ深げな七郎に、 「だからー、月夜のお散歩ってのもいいものだろ」とタテオは満足げな様子。 しかし、そうさ、1秒前だって過ぎてしまえばみんなみーんな過去のこと、必要以上にこだわったり感激したりするのはよしにしようぜとタテオは口調を気取らせた後、また何だか知らないが、コンビニの餡まん肉まんの話に戻り、くだんの優秀なコンビニではこの間、餡まん肉まんを買うたび引けるくじ引きセールというのをやっていて、自分は3日連続通ってくじを引いたが、1度も当たらなくってがっかりした、とそんな話をして、七郎を笑わせる。 「100パー優秀なコンビニじゃなかったってわけだね」 「かも」 などと言い合っているうち、それにしてもずいぶん歩いてきたよなぁとさすがに少しは疲れたという顔で、タテオは呟き、そうだねーと七郎も頷く。 お互い、そろそろ夜の散歩も打ち切りにしようか、という雰囲気だ。 止めるにしても帰り道もきつそうだな、と七郎が心配すると、 「まあね。でも、タクシーを拾えば、ヒトっ飛びさ。それくらいのオカネは持って出てきているからね」とタテオは安心させもする。だが、 「でも、もう何人か何組かは、面白い遭遇とかがあるかもな」 と歩行をリードする風も隠さない。 タテオの言うとおり、それからも確かに遭遇はあった。 透明なお面を被って「強盗だ、我らはゴートーだ」と叫び声を上げて走る血気盛んな若者らしき3人組や、南国のカーニバルにも負けない猛烈なサンバのリズムをお供に踊り続ける集団、かと思えば、三味線と小太鼓、ハーモニカにクラリネットとユニークな楽器の組み合わせが愉しそうな5人組等々、賑やかな面々が行き過ぎて行く。彼らは自分達のパフォーマンス(というしかないのだろう)に夢中で、タテオと七郎には、あっという風な顔をするだけで、忙しく先へと急ぐのだった。 そのうち、それでも、人通りは少なくなり、絶えていった。 「やっぱり、もう、お散歩はおしまいみたいだね」 「そうだな。まあ、それなりの収穫はあったかな」 頷き合ったところで、七郎の脚がふらつく。ふらつきついでというぐあい、路傍の石っころになど靴の先があったか、本当によろめいてしまうと、あーあーとタテオは七郎を抱きしめるようにしながら、態勢を元通りにさせ、そのついでというぐあい、おでこにチュッとキスをした。 照れるなぁ、と七郎が笑ってやると、まあ許せよ、月夜のお散歩もおしまいなんだからね、とタテオも笑う。 すると、その隙を狙ったみたいに、「おーい」とおおきな声が聞こえた。 「お助けを」とその声はすぐさま懇願の調子に代わる。 「どうしました」と声の主へとタテオは駆け寄る。七郎も続く。 1人の若い男性が、ゼイゼイと苦しそうな顔をして、道の真ん中でうずくまっている。傍らには、彼のおじいさんなのだろうか、心配顔の老人が、枯れ木のような腕を伸ばして、若者の背中をさすっていた。 「もともと喘息持ちなんですがね。このところ調子がいいので、今夜はお天気もわるくないみたいだから、この時間からでもちょっと散歩を、なんこの子が言い出しますものですから、さて、出掛けて来ましたら、やっぱり、このありさまです」 嘆く老人は、「大丈夫かい、平気かい?」と若者を気遣い、背中をさする手を休めない。 「――この子とは、SNSと通して知り合い、交際を続け、将来を誓い合う仲にまでなり、同居も始めたのですが、まあ、いろいろあるというぐあいで」 タテオは頷くばかりに話を聞いている。七郎も同じだ。 ごめんよ、ごめんよと囁くような苦しげな声で、謝るばかりの若者を、何を言っているんだと励ます老人に倣って、タテオと七郎も若者の背中をさすった。 3人の手のお助けのおかげか、若者はそのうち、苦しげな顔でもなくなり、一つ大きな息を付くと、「あ、もう大丈夫かもしれません」と表情を和らげ、ありがとうございましたとタテオと七郎に頭を下げた。 「そうだ、本当に有り難い有り難い。月の夜の功徳というものでしょうか。あなた方のように親切な方々がいてくださったおかげで、この子も命拾いが出来たというものです」 と老人も銀髪の頭を下げて、タテオと七郎の手を握る。 そして、 「おふたりは、もう長いお付き合いなんですか」と訊いた。 ええ、まあ、とタテオは照れくさそうにこたえ、でもキッスなんてのは、さっき初めてしたばかりですと打ち明けた。先刻のおでこへのチュッを言ってるんだと七郎も照れくさくなるが、 「あ、それって、イイ感じだなぁ」と若者はすなおに軽く手を叩く素振りまでする。 ホントにそうだ、そうですねと老人も頷き、ぱちぱちと拍手。 いっそう照れるタテオと七郎を尻目に、老人も、若者のおでこにチュッとキスをした。 「そうなんですよ。月夜の晩には、いろんなことが起こる。イイことも悪いことも起こるのでしょうが、やっぱりイイことのほうが多い。そうでしょうとも。そうお思いになりますよね、お二人も」 タテオと七郎が揃って、ハイと応える前、老人の言葉に促されたみたいに周囲は、ふっと明るみを増した。 「あ、お月さまのゴキゲンが戻ったのかな」 タテオの呟きには反応しないまま、じゃあと老人と若者は去って行く。 ――やっぱり、月夜は明るい。月の夜だからって、お月さまがゴキゲンななめのことがあったって、やっぱり、こうして、いつの間にか、明るくなるんだ―― あくびと言わず、クシャミ一つをしてみせるまでもなく、 「これからも、ヨロシクな」 タテオはそれだけ言うと、もう少し歩いていようぜ、と七郎の肩に手を回した。
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