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その一 ちょっと、ちょっと……、思阿さんがどこかへ行ってしまいました!
「なんじゃ、深緑! 宵の口からぼうっとしおって! おぬしは、……」
夏先生が、虫籠から出てきて、わたしの膝の上で騒いでいる……。
何を騒いでいるのかしら? 静かにして欲しいのに……。
ウフフフ……、思阿さんたら、「可愛い」ですって……「愛おしい」ですって……。もう一度見てみようかな……。思阿さんからの贈り物!
わたしは、髪に挿してもらったかんざしの貴石に指で触れながら、寝台から立ち上がった。思阿さんの笑顔を思い浮かべると、自然に顔がほころんでしまう――。
「おおっと、とっ! こら、深緑! きゅ、急に立ち上がるでない! わしの話を、……」
わたしの膝の上から転げ落ちた夏先生は、床にぺっとり張り付いて、まだ何か叫んでいる。わたしは、卓の上に置いた行李から、先ほど屋台で思阿さんから買ってもらった手鏡を取り出し、自分の顔を映してみた。
右の耳の上で束ねた髪に、可愛いかんざしが挿してある。
思阿さんにもらったんだ……。思阿さんが挿してくれたんだ……。ウフフフ……。
手をつないで、一緒にここまで歩いてきた。思阿さんの大きな力強い手が、これからもわたしを守ってくれるんだ……。エヘヘヘ……。
―― グルギュルグル……ギュルウウウーンッ……。
「お、おう! いつものように腹がなっておるぞ! そろそろ、屋台で何か買うか、ここの隣の料理屋で、腹ごしらえをした方が良いのではないか?」
もう、夏先生ったら、雅味に欠けることばかり言って!
わたしは、今、心が満たされているから、それで十分なのです……。
空腹なんて、そんなことは……。
―― グルグルギュルルルグルグルー……グルギュルギュルグウウウーンッ……。
やだ! さすがに、やせ我慢にも限界があるわね。そろそろ、自分の欲に正直になるべきね!
「わかりました、老夏! 屋台をのぞきに行ってきます」
「うむ! それでこそ、深緑じゃ! 恋情に浸るのは、腹を満たしてからにしろ。恋情から病に至れば、快癒水とて効かないかもしれないぞ!」
「はい、気をつけます!」
夏先生を床から拾い上げ虫籠に戻すと、わたしは荷物を背負って部屋を出た。
わたしたちは、澄江の下流にある錝州の州城・廣武行きの船に乗るため、船着き場に隣接する安邑という郷に宿をとった。
安邑は大きな郷で、船で州城に向かう人々が必ず立ち寄るため、立派な宿が何軒も軒を連ねていた。
思阿さんは、今夜の宿が決まると、明日の船の時刻を確かめてくると言って出かけていった。
なかなか戻ってこないところをみると、たぶん、またいつものように、感じの良い酒楼でも見つけてお酒を楽しんでいるのだろう。
本当にお酒が大好きなんだから!
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