春暁に死す

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 穏やかな春の夜風が、べっとりと血のこびりついたキジトラの毛並みを撫でていく。  啄まれた目玉には、時折チカチカとした光が不規則に走るだけであった。葉の上を滑る雨粒も、転がった小石も、その瞳に映りはしない。  絶え絶えに息をしているだけで、夕刻に降った甘雨が乾き切らぬ泥臭い地面の匂いも、もう彼には届かなかった。  夜明けを告げる黒羽の喧騒が、小さな背に影を落とす。    「おおい、トラジロウ。今日も特製ねこまんま食ってけよ」  恰幅の良い肉屋の主人が、欠けた椀によそった餌を手に裏口から出てきた。  すると、雑然と積まれたダンボール箱の脇からキジトラ模様の猫が現れ、忍び足で近づいていく。その眼光は鋭いが喉をゴロゴロと鳴らし、いかにも待ちきれない様子である。主人は猫の警戒心に触れないようにお椀を置き、少し離れた場所にしゃがみ一服付けると「まいどあり」と呟き、店の中へ戻っていった。  トラジロウ、ニャン太、虎鉄。さまざまな愛称で呼ばれ、いつからか商店街に住みついていた世渡り上手な野良猫である。  元は何一つ不自由のない飼い猫だったが、満たされないものがあったとすれば、それは好奇心だったのかもしれない。  家主が閉め忘れた書斎の窓。そよそよとヒゲを揺らす若夏の風。揺らめき踊る隣家のひなげし。どこからか聞こえてくる小鳥のさえずりは、彼の本能を存分にくすぐった。  夢中で駆けて、跳ねて、飛び回り、キジトラは狭い世界に戻ることはもう二度となかった。    ある日の夕暮れ時。深い茜に染まった川はきらきらと眩く輝き、舞い落ちた桜の花弁を緩やかに運びせせらぐ。  キジトラは川沿いにあるベンチで体を横たえ、毛づくろいをしていた。ここは満開の見頃を終えた山桜が数本あるだけで、人通りも少なく、日向ぼっこには持ってこいの場所である。     ただ、近頃は頭の上で何かか弱い生き物の声がするのだった。見上げた先には、枝やハンガーで器用に編まれた鳥の巣がある。腹を空かせているのか、ぴいぴいと始終鳴きわめく雛鳥。まったく、と言った風体でキジトラが顔を背けた時、肉の切れ端を咥えた親カラスが戻ってきた。警戒している素振りなのか、キジトラの頭上で大袈裟に翼をばたつかせ、雑に風を切ってから我が子が待つ巣へ上昇する。二羽の雛はいよいよけたたましく鳴き、これでもかと開いた口の中に突っ込まれた肉片を懸命に飲み込んでいた。  やがて雛の腹も満足したのだろうか、木の上に静けさが戻る。巣立ちはまだ先のようだと思い巡らせ、そのままうつらうつらと居眠りを始めた。  夕日が滲んで消えゆくかわりに、黄昏が幾多の星を連れてくる。川向こうの民家から、どこか懐かしい晩の飯炊きの匂いが漂い始めていた。  キジトラはひんやりとしたベンチからのそりと起き上がり、ひとつ欠伸をする。今日は何処で餌をねだろうか。最近見つけた定食屋か、それとも三丁向こうの肉屋にしようか。うまく飯にありつけることもあれば、ぞんざいに扱われることもある。時には縄張りに踏み込んだ野良と喧嘩もする。  不自由のない満ち足りた穏やかな日々よりも、満たされぬ何かを求めてさまよう気ままな夜を気に入っていた。ぼんやりとした月明かりに照らされながら、今宵もふらりと街へ向かう。  数日が過ぎた頃。  夕刻が近づくと、どんよりと重い灰色の雲が青天を隠し、不快な湿り気がまとわりついた。今夜は一雨降るかもしれない。いつものようにベンチでひと休みしていたキジトラは、諦めたように春陰を仰ぐ。ふと、カラスの巣が目に止まり、あの雛達はもう飯にありつけたのか、などと柄にもなく他所の心配をしてみる。親カラスはご馳走を探しているのか留守のようだ。  瞬間、突風が吹き荒れる。キジトラは少し驚き背を丸め、小さく瞬きを繰り返す。風はまだ離れずにいた桜の花びらを強引に巻き上げて、砂埃とともに方々に散らしてしまった。  「早く来いよ!」  聞き慣れない人の子の声に、キジトラの耳がピクリと動く。  「どこ?」  「ほら、あの木の上」  子供たちがわあわあと騒ぎながらこちらの方に駆け寄ってきた。  「あれがカラスの巣なの?」  「うん。俺、昨日鳴いてるの聞いたんだ。ちょっとびっくりさせてやろうぜ」  「お前、見張り役な」  子供たちは小石を拾い集めると、あろうことか巣目掛けて投げつけ始めた。命中する度、歓声が飛び交う。  キジトラは、その理不尽な攻撃の理由も感情も知るところではなかったが、雛が襲われているのだということは理解していた。そして轟々と渦巻くようなどす黒い殺意が近づいていることも悟っていた。  「わあっ!」  子供たちの頭上に現れたカラスは円を描くように飛び狂う。あれは父だろうか、それとも母だろうか。我が子を守るため、羽が抜けそうなほど翼を振り乱し威嚇する。敵意を剥き出しにし、在らん限りの雄叫びを上げながら急降下した。  「逃げろおお!」  喚きながら、我先にと一目散に逃げる子供たち。  「あっ」  その時、一人の少年の足がもつれ倒れた。黒い怒りはそれを見逃さず、狙いを定めると、ギャアギャアと叫び声を上げながら羽をばたつかせ、少年の後頭部を蹴りつける。 「たっ、助け」  さらに背中に降り立ち、少年の衣服を啄み引きちぎった、その時。  茶色の塊が唸り声を上げて宙を舞い、カラスに飛びかかった。共倒れのような格好で地面を転がったが、すぐに体勢を整えるとお互い牽制するようにじっと睨み合う。  突然飛び出してきた猫のことなど露知らず、少年はわんわんと泣きべそをかきながら、這うようにその場から逃げ出した。  沈黙を破ったのはキジトラである。右前脚をしならせて、カラスの頬に爪をお見舞いした。 怯んだ隙を逃さず、喉元に噛みつこうと地を蹴った刹那。  小さな獣の叫びがこだまする。  不意打ちを喰らったのは、キジトラの方であった。  つがいのカラスが空から忍び寄り、滑空の勢いのまま乱撃を放ったのだ。仰向けに転がったキジトラを見るや、ここぞとばかりに二羽で襲いかかる。黒光りする凶暴なくちばしは耳を啄み、目を突いた。何度も、何度も。  赤々と燃えるような夕日が沈み、暗幕が降ろされる、その間際。  「お前、トラジロウか?」  大柄な男はどかどかと地面を踏み鳴らし大股で近づくと、長葱がはみ出したスーパーのビニール袋を乱暴に振り回した。 「シッシッ!この、どっかいけ!」  黒い二つの影は一声鳴いたあと、拍子抜けするほど軽快な足取りで一歩二歩と横に跳ね、山桜のてっぺんに飛んでいった。  闇夜の空。重くのしかかる鈍色の雲の間に覗く月が、ぼんやりと白く穏やかな輪郭で男と一匹を見下ろしている。  「なあ、おい。どうした。こんなになっちまって、お前」  変わり果てたキジトラの惨たらしい姿に顔を歪ませたのは、肉屋の主人であった。  たかが野良猫、されど野良猫。ましてや、あだ名までつけて餌を与えていた猫である。 「この辺、動物病院あったかな。カミさんに聞いてみるか」  ごそごそとポケットを探り、慌てて携帯電話を取り出した。波立つ心を落ち着かせ、不恰好な指使いで画面を手繰り妻の連絡先を探す。  キジトラがその様子に気づいていたのか、肉屋の主人だと理解していたのかは定かではない。  血溜まりを地面に残してキジトラは去っていった。よろよろと弱々しい足取り。消え入るほどの脆弱な呼吸。川沿いに生い茂る雑多な草むらに、ふらりと消えていく雉模様。  肉屋の主人の呼びかけに振り向くことは、とうとうなかった。    ぽつりぽつりと降り出した雨が鼻先に当たるたび、残った右目の閉じかけた瞼が持ち上がる。そうやって意識を繋ぎとめていた。  なぜあの時飛び出したのか。己の縄張りを守りたかったのか。それとも癪に触ったからなのか。あるいは子供の悲痛な叫びに反応したのかもしれない。  通り雨だろうか。強くなる雨足に、ひゅうひゅうとか細い息はかき消される。縮こまった四肢が時折ぴくりと震えると、血と泥で汚れた毛並みの上で雨粒が跳ねて落ちた。  しばらくの間そうして横たわっていたが、ふと何事か思案するように顔を上げ、何も無い空をじっと見つめる。やがて傷ついた身を起こすと、ゆっくりと歩み始めた。泥沼のような水溜りにはまろうとも、気に留める様子はない。まもなく物言わぬ死骸と成り果てるであろうキジトラの足は、雛の巣がある山桜のもとへと戻っていった。  やはり理由は定かではない。  ただ言えることは、夢遊でも気まぐれでもなく、明確な意思を持って最期を迎える場所を選択したのである。    無数の花びらが風に吹かれて、見事に散っていた。淡い破片の絨毯は、踏みつけられ泥に汚れ、いつしか跡形も無く朽ちていく。  季節は巡る。芽生える命、還る命。  霞流れる薄青の空の下、一匹の残骸が柔らかな春暁の光に包まれていた。 終
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