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兄を殺してから耳もとで何かが囁くようになった。昼夜問わずそれは囁くので私はあれからろくに睡眠を取れずにいた。その囁きに耳を傾けると『どうして』『はやく』『きづいて』『ひどい』などと言っているように聞こえた。
『まきちゃん』
今夜は私の名前を耳もとで言った。
夜になると部屋は兄の血でてらてらと輝きだす。ベッドの下は泉でもあるみたいに血まみれになり、壁や机、天井にまで血が飛び散っている。私の手も当然ように血にまみれていた。血で汚れていないのはベッドの上だけだった。
警察の人の話を聞くにそれほど血は流れていないということだった。死因は階段から落ちた際に強く頭を打ったことによる頭部損傷だと言っていた。階段から落ちたくらいで人が死ぬのだろうか。警察の人は私を思って嘘をついているのかもしれない。あの日私は明確な殺意を持って兄を殴った。覚えているのはその殺意と水を吸い込んだ布団のようにぐったりした兄を階段から落としたときの音だけだった。
兄はひきこもりの異常者で、パソコンからは強姦もののアダルト動画がダウンロードされた形跡があったため、私の殺人は正当防衛ということになった。何ひとつ嘘はなく、すべてが真実であり事実だった。私が兄に日頃から殺意を抱いていたことなど些細な問題だった。
家族は当たり前のように崩壊した。もともと崩壊は始まっていて、ジェンガのように誰が最後の積み木を抜くかという状態だった。ひきこもりの兄を溺愛していた母は彼の世話以外の家事をすべて私と父に押しつけるようになり、父は仕事を理由に家に遅くまで帰ってこなくなった。
それでも家族としての体裁を守りたいのか、母と私は夜6時から7時の間テレビ番組を一緒に見ていたし、夕食は父とふたりで食べていた。父も母も何故か決まって水曜日に「学校はどうだ?」「勉強は?」と私に聞いてきた。
父のことは嫌いではなかった。もともと口数が少ない人ではあったけど、頭がおかしくなった母の愚痴も兄の愚痴も一切言ったことがなかった。私の作った夕食に対して、毎回「いただきます」と「ごちそうさま」、そして「ありがとう」という言葉をかけた。
母のことは兄と同じように嫌いだった。兄をどうにかして部屋から出そうと必死だった。毎日毎日兄の分だけの手の込んだ料理を作っていた。母自身はほとんど何も口にしてないように思えた。
親のサインが必要な高校の書類を母に捨てられ喧嘩になったとき、私は母に「兄と共に死んでしまえばいい」と言ったことがある。兄の部屋の前での言い争いだった。母は「どうしてそんなことを言うの。たった一人の血の繋がった兄妹でしょ」と言った。本当に死んでしまえばいいと思った。
兄は母の前では普通らしく振る舞っているようだった。隣の部屋から聞こえてくる母と兄の会話に、私は気が狂いそうなほど苛立った。母は知らないのだ。この得体の知れない生物が隣に住んでいる不快さを。夜中にベッドが軋む音や、その後に洗面所へ向かうために私の部屋の前を通る足音を聞くたび、私は吐き出してしまいそうなるほど悪寒がする。私はすぐに耳にイヤホンをつけて音楽を流し「死ねばいいのに」とつぶやかなければいけなかった。
『ひどい』
兄が死んでから母は私とろくに口をきかなくなった。「どうして殺したの」なんてヒステリーに叫ばれたら殺してしまおうと思っていたので拍子抜けだった。母なりの罪悪感を感じているのなら、せめて私に一言謝って欲しかった。
『あやまる?どうして?』
耳もとで誰かが囁いた。
『お母さんもお兄さんも酷いことは何もしてないじゃない』
『酷いことをしたのはまきちゃんだよ』
『お兄さんはまきちゃんのことが好きだったのに』
『でもね、良い知らせもあるよ』
『そのためにボクは来たんだ』
『君のおなかにはね』
『赤ちゃんがいるよ』
パッと私の顔の横で光が弾けた。弾けだした光は今度は一点に収束し、私の手のひらほどの何かを形作ろうとしている。その光が人形の形になると、今度はゆっくりと私の正面に移動し始めた。光の粒子は塊になり、輪郭を持ち陰影ができた。人型の輪郭の背中に羽が生え、頭の上には独立した輪っかができあがる。赤ん坊のような上半身は裸で腰には白い布を巻いていた。
『ハッピー!』
私の目の前の天使はそう言ってダブルピースをした。静止画のように浮かんでいる。
『やっと会えたね!』
そう言う天使の顔は本当に嬉しそうに笑っていた。まるで素晴らしい天啓があなたのもとに届きましたよと言うように。
「ねえ、もう一回言って」
私がそう言うと天使はまた同じように嬉しそうに笑った。
『やっと会えたね!』
「違う。そこじゃない。私のお腹に赤ちゃんがいるってホントなの?」
胃の下辺りで何かが動いたような気がした。ぷくぷくとカレーのようなどろどろした液体が沸騰しているような感覚。それらは吸い寄せられるように胃を通って食道を逆流した。耳もとで『大丈夫?』と声をかけてくる天使を手で払って、私は壁伝いにトイレへと向かった。
『つわりにしては早いよね?』
便器に突っ伏すような体制の私の後頭部にそう言葉を投げかけた天使を八つ裂きにしてやりたかった。しかし口から出てくるのは呪いの言葉ではなく、液化した夕食だった。
「誰の子」
しばらくして吐き気が落ち着いてから私は天使に聴いた。しかし聞かなくても答えは分かっていた。
『まきちゃんとお兄さんの赤ちゃんだよ』
やけに甲高くて耳の中で反響するような声で天使は答えた。足腰の力は抜けて立ち上がる気力すらなかった。私は吐瀉物を下水に流して、天使と向き合うように便器の上に座り込んだ。
「下ろさなきゃ。どうにかできないの」
『それはダメだよ。赤ちゃんは神様からの授かりものなんだから』
「そんなの関係ない……とにかく……どうしよう……」
私はぼおっとした頭をなんとか動かそうしたけど、良い考えは全くと言っていいほど浮かんでこなかった。さっき吐いた中に子どもが紛れ込んでいたかもしれないとか、そんな非現実的な妄想しか頭には浮かばない。
『それにまきちゃんが望んだんじゃないか』
「望んだことなんてない」
『赤ちゃんが欲しいって神様にお願いしないと赤ちゃんはできないよ。お母さんにもそう教わったでしょ』
「望んでなんかない!」
私は大きな声を出して、今が深夜であることを思い出し我に返った。父や母を起こすわけにはいかない。もしこの私の横でぷかぷか浮かぶ天使が母たちにも見えるなら面倒なことになる。今の私には父はともかく母と話す気力は残されてなかった。
もう疲れた。何もかもに疲れた。本能的にいくつかの楽観的な考えが浮かぶがどれも私を慰めてはくれなかった。開けられたトイレの小窓からは大きな満月が見えた。その満月は異常に大きかった。まるで他の惑星からの眺めのようだった。
私は激しいめまいを感じながら立ち上がり、自室へと戻った。途中閉め切られた兄の部屋の前を通った。そこには人の気配というものが一切なかった。兄の死は時間の死だ。時の止まった空間だけが残されている。
私はスマホと上着だけを取り部屋を後にした。しきりに耳もとで天使が『どこへ行くの?』と聞いてきてそのたびに手を振りあげてぶった。宙に浮いた風船を殴ってるような感覚でまるで手応えがなかった。それでも天使が嫌な気分になればいいと思いぶちつづけたが、特に気にしていないようだった。
玄関のドアをそっと開けると夏の嫌な熱気が私を包んだ。蒸し暑くへばりつくような熱帯夜だったが外はそれなりに風の流れがあった。私は今にも窓が開いて父に呼び止められるのではないかという不安を抱えながら、慎重に砂利の敷き詰められた庭を歩いた。
この辺りにはいくつかの家と田んぼと畑しかなく、この時間なら誰かと鉢合わせる可能性はまずなかった。家から離れてさえしまえばこの不安も収まるだろう。私は車庫に停めてある自転車にまたがった。
自転車のペダルに足をかけ走り出そうすると、ふいに背後で気配がしてそれと同時に「おい」と私を呼び止める声がした。天使かと思い無視しようとしたが、明らかに声が低く、そしてこの世界から聞こえる声だった。
「どこへ行く?」
声の正体は黒猫だった。月明かりしかない薄暗い夜の中でその鋭い眼光をこちらに向けている。
「案内してやる」
「どこへ」
『楽しいところがいいねぇ』
私は尋ねた。正直どこに連れていかれてもよかったのだが、行きたくない場所というのはある。例えば警察署のような場所。
「月の裏側」
黒猫はそういうと私の自転車の荷台に飛び乗った。自転車が不安定に揺れ、私は倒れないように力を入れて抑えなければいけなかった。
「行け」
「どこへ?」
「とりあえず進め」
私はペダルに足をかけ自転車を漕ぎ始めた。黒猫は私の後ろにちょこんと座り、天使は私の頭上を飛びながら離れずついてきた。私は後ろの猫に気を使いながらゆっくりと自転車を走らせた。
『ねえ、こっちであってるの?』
天使が言った。私は周りに遮蔽物のないのどかな田んぼ道を走っていた。黒猫は天使の言葉は聞こえないのか、それともただ単に無視しているだけなのか、黙っていた。ひょっとしたら乗っていないのかもしれないと後ろを見ると先程と変わらず横を向いて座っていた。
『妊婦さんなんだからさ、あんまり遠くへは行けないよ』
ついさっきまでだったら私は天使を殴っていたと思う。でもいつの間にか怒りは消えていた。あるのはその残り香のような不快な感情だけだった。
「ねえ、あなたはどうして話すの? 黒猫なのに」
『猫はふつう喋らないよね』
「話すさ、黒猫だって生きてる。あんたが理解しようとしてこなかっただけだ」
「じゃあいま聞き取れるのは私が理解しようとしたからってこと?」
「そんなところだ。まあ、こちら側に耳を傾けられるようになっただけだろう」
『こっち側にもね』
「ずっと誰にも耳を貸さず、独りでうずくまってるよりは黒猫の言葉でも聞いた方よっぽどいい」
黒猫は言った。月が遠くでぼぉうと光っていた。辺りには街灯がまばらにしかないのに不思議なくらい夜がよく見えた。ここは私の通学路だった。毎日のように通っている道を私はこんなときにも通っていたのだ。
「人の話に耳を傾けるのはいいことだ。黒猫の言葉を聞けるやつは多くない。じゃあ、あんたの話を聞こうか。そこを右に曲がれ」
私は言われた通りにT字路を右折した。学校へ行くときはいつもここを左に曲がった。学校とは反対側で私はここに道があることを初めて知ったような気がした。どれだけ先を眺めても田んぼと月しかなかった。
「私の話」
と呟いてみる。私の話なんて何もなかった。私は表面的にはどこにでもいる普通の高校生だった。もちろんつい先日まではということになる。兄を殺し、お腹に赤ちゃんがいる高校生は普通ではない。
「人生の本質は苦痛だ」
黒猫は言う。
『違う幸福だよ!』
「だから人間はずっと人生の本質から目を背けつづけている」
私は何も言わず、ただひたすらペダルに乗せた足を動かした。どこかに、何かに、近づいてる気がした。それは夏の木陰のようにひんやりとした暗い場所だ。私は引き寄せられるように自転車をこぐ。月は相変わらず私の前方にぼぉうと浮かんでいて、距離は縮まらない。周りの風景も代わり映えがない。
本当に進んでいるのだろうか、と私は不安になる。まるで悪夢の中のように走っても走っても前には進めずただ足が空回りしているような感覚に陥る。どれだけ逃げても恐怖の根源は常に一定の距離を保ったまま引き離すことはできない。しかしそれでも何かに近づいていた。それはまるで夢の出口のようなものだ。
「本質に目を背けられなくなったら、迫りくる足音に耳を傾けざるを得なくなったら。人はそれでも本質から逃げようとする」
ずいぶん遠くまで来た。果てしない一本道だ。この道の先には大きな川があるはずだった。感覚的にはその川を優に超えているのに、川どころか土手すら見えない。きっと時空が歪んでいるのだろう。そしてそれは突然現れた。
『行っちゃダメだよ! 引き返そう!』
天使は言った。
いつの間にか私の目の前には空き地があった。遊具のようなものは何もなく小さな子供が数人で遊ぶのがやっとのような広さだった。そして空き地の中心には奥行きのない平坦な月が浮かんでいた。その月は見たことのない奇妙に歪んだ模様をしていた。私は自転車を停めてその月の前まで歩いていく。
「月の裏側だ」
黒猫は言った。
『行っちゃダメ!』
私は天使の方を見た。それから「どうして」と言った。
「どこへ行こうと私の勝手でしょ」
『ねえ、戻ろう? まきちゃんはこれから幸せを生みだすんだよ。ホントだよ。辛いこととか色々あったけど、でもその分幸せがなくなるわけじゃない』
「あんたに私の何がわかるの」
『わかるよ。ねえ、あっちへ行ったら、もう二度と帰って来れないんだよ。まきちゃんのお父さんお母さん、お兄ちゃんがいるこことは本当に世界が違うんだ。幸福がないんだよ?』
「何度も言わせないで。幸福を語るあんたには何もわからない。私は幸せになるために生きてるんじゃない」
『じゃあ……なんのために生きてるの』
「それをいまから確かめに行く」
私は目の前にある月を眺めた。大きさはだいたい私の腰から首の辺りまでだった。月の模様は水面に浮かべた水彩絵の具のように様々な歪みを形作っている。そしてそれはぼんやりと発光していた。
「この大きさじゃ私、入れないけど」
黒猫に私がそう尋ねると「触れればいい」と言った。黒猫は自転車から降りて私の足もとまでやってきた。
私は大きく息を吐く。脳は雑念がなく澄んでいるのに、心臓は激しく私の胸を叩いていた。手を伸ばすと月には柔らかな電球のような温かさがあることに気がついた。私はもう一度息を吐く。そして天使の問いを反芻する。
何のために生きているのか。
私は家族が幸せだったときのことを思いだす。もう5年近く前のことだ。あのころは父にも母にもそして兄にも、私は愛されていた。そして私も家族を愛していた。
いったいいつから歪んでしまったのだろう。兄がひきこもりがちになってきてからだろうか。それなら歪みの原因は外からやってきたことなる。
本当にそうだろうか。原因は私の中にあるのではないか。そもそもいま、父と母が私を愛していないと言い切れるだろうか。父も母もそして兄も、私を愛しているから、こんなにも辛いのではないだろうか。
天使が何かを必死に訴えているような気がした。天使の声も黒猫の声も私にはもう聞こえなくなっていた。
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