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ドラマチックシーのあるところ
サメが僕に囁いている。
心は彼方。遠にここには在らず。
彼女の言葉はまどろみの中でこだまして、
脳には届かない。
光の海で、輪郭をなぞろうと手を伸ばした。
・
・
・
「…近江くん!」
ハッと目を覚ます。
ここは…
「ちょっと、こんなとこで寝てたら危ないですよ」
…こんなとこ?
周りを見渡せば、オレンジ色の海だった。
黄金の空と、遠くにうっすら見える港。
ここが瀬戸内海の海だと理解するのに、時間はかからなかった。
ただ、起きたら夕暮れの海が見えるということは…
「そうか…僕、甲板で寝てたのか」
「危ないですよ!
船が傾いたりでもしたら、一発でボチャンやけん…」
この人は確か…真島さんだ。同じ定期便に乗っていたのか。
「ハハ…すいません…
起こしてくれてありがと、真島さん。」
「すごいとこで寝てたから。
流石に、同僚が同じ便で死んだら目覚めが悪いし…」
「いや…心配かけました。
大人しく部屋に戻ります」
「そうした方がいいと思います
ひどく疲れているようだし」
その通りだ。
今日は第3金曜日。
いや、正確に言えば1999年の7月16日。
ノストラダムスとかいう預言者が、世界の滅びを予見した月に入り、世間は異様な空気を見せている。
香川県高松港の近くに据わる『FM精神病院』は
僕が事務職として働く職場だが、今日は田舎の病院にも関わらずひどく賑わっていた。
彼のせいである。
「7月中に全ての人間が滅びる」という簡単な言葉が、患者の心をかき乱し、普通の人間を狂人に変えてしまった。
故に、
事務職なのに現場の対応人員として駆られ、疲れ果てた僕は、こうやって神戸行きの定期便船の甲板で、泥のように眠りこけていたのである。
…患者の半狂乱な声が、まだ耳に残っている…
「本当に…世界は滅ぶのか…?」
と、呟いていた。気づけば。
「そんな訳ない」
「え?」
「本当に信じてるなんて、そっちの方が驚きやわ。
近江くんって、あんま世間に流されそうにないイメージやったから」
「いやいや、信じてないよ!…
…ただ、
今日の…203号室の矢田さんっているでしょ?
あの部屋の対応で…少し、怖くなったんだ。
こうやって小さな誤解から人の滅びは始まっていくのかもしれないって。」
「…うん…せやね…」
「てか、真島さんって僕の名前覚えてたんやね。」
「覚えてるよ!流石に。
一応同僚やんか」
真島紗奈は、同じ事務室で働く同僚だ。
人当たりがよく、迅速な仕事捌きで、
先生や看護婦長からの信頼も厚く、おまけに容姿端麗と非の打ち所がない。
僕のような、もさっとした人間とは完成度の差を感じる…
「まぁそうだね」
「でもちゃんと喋ったんは初めてやね
なんか、でも、さっき超ふかいこと言ってたね笑
意外とイケてる系?ミステリアス系?」
「いやごめん、調子乗ったよ
一切忘れて欲しい…」
「うそうそ!ごめん、からかって!
私もそーゆードラマチックな話好きやよ。」
「…!
それこそ意外だ。もっとさっぱりしてると思ってた。」
「なんかね、親が漁師なんよ。やから昔から漁についていくのが日課で…
でも海の上ってやることないけんさ、ぼーっと海をみながら考え事するのが好きやったんよね」
「漁師の…てっきり神戸の街から来たのだと…」
「よく言われる〜。
でも、実は生まれは高知なんよね。」
「え!僕も生まれは高知の香味市!」
「やば!?私もや!!」
「…それはすごいな!
もしかしたら高校とか近かったかもしれない。」
「せやな!!やばいねなんか
ドォン。
突如、轟音が鳴って衝撃が走った。
と同時に船がグゥンと減速する感覚を覚えた。
「…何だろう。」
「…わからん。とりま、船内に入ろ。
なんか危ない気配がする。」
「そうだね。」
不吉な予感を感じながら、光る海を背にした。
・
・
・
船内のフードコーナーには、十数人が集まっていた。
FM病院の顔見知りが多い…名前を覚えている人は少ないけど。
真島さんと僕が入ってきても、目が合っただけで声はかけてこなかった。皆、不安からは抜け出せないようだ。
「…船、止まってる…?」
「そうみたいだね…」
「何かに乗り上げたんかな?」
「いや、多分だけど、その可能性は低いと思う。
周りに島らしきものはないし、まだ明石海峡大橋も通ってないから、だいぶ深い沖のはずだ。」
「…せやね!
やとしたら、生き物系っぽいね。たまにこの辺って大きな鮫がおるって港の人が言っとったから。」
「鮫…?」
と話していると、ピンポンパンポーンと、
船内アナウンスが鳴った。
「…ザザザ…船長の…ニシカタです…
本船はエンジンのトラブルにより緊急停船いたしました…
…現在復旧作業を急いでおります…ザザ…
神戸…は9時30………見込み…
ご利用のお客様に…ご迷惑を……し………大変申し…ございません…
なお…イズ……プラ……タハウチ……… 船長室…………」
ブツッ
突然アナウンスが途切れた。
と同時に、ぱっと部屋の電気が切れ、自販機がヴゥーンと不気味な音がして消灯した。
「ブレーカーが落ちたのかもしれない」
と、誰かが呟いた。
そう言われるとそんな気もしてくる。
誰も話さなくなった。
さざなみの音と船が軋む音だけが聞こえる。
夕暮れの陽が微かに船内に差し、ゆらゆらとゆらめいて…
なんか…綺麗だ。
「近江くん」
ヒソヒソ声で真島さんが話しかけてきた。
「ちょっといい?
ここじゃなんだから…第2休憩室にいこ」
「あ、うん。わかった」
定期便船こがね23号は、去年造られた船で、
船内は綺麗である。
第2休憩室は共用廊下の奥にある小部屋で、外側の景色が見えるように小窓がついている。
沈む夕日が紫の雲を作った。
暗く蒼い海に、オレンジの光が跳ねては消えていく…
遠くに見える高松港を冷めた眼で見つめる真島さん。今まで見たどんな景色より美しい。
「フフ、どしたん」
「あ、いや、
船の電気が落ちたのに落ち着いてるなって…」
「そう?
ちょー怖いよ。マジ」
言いたいことが…たくさんあったはずなのに、言えない。
複雑な僕の心が、言葉になるとありきたりになってしまう。
「でも、なんか綺麗ね。海」
と彼女が言った。
便利な言葉だ。現象が感覚を追い越し、眼前を神秘が満たす時、言葉では何も捉えられない…とにかく綺麗だ。
言葉には含みも背伸びもなく、しっくりと僕の背丈に入った。
「うん…確かに。いいね…なんか…」
なぜだか、僕も穏やかな気分になってきた。
こういうシュチュエーションは初めてだけど、テンパっても僕にできることはないんだ。
あ、そういえば…
「こいつを食べるのを忘れてた」
出港前に近くのマクドナルドでコーラとポテトを買ったんだった。お昼を食べ損ねたのでお腹がぐうと鳴いている。
「お、マクド?美味しそうやね」
胸がドクンと跳ねる。一口いる?って聞け、僕。
せっかく真島さんと2人きりなのに…
「あの…よかったら一緒に食べる?」
あーダメだ。完全に行きすぎた。
「え!いいの!やったー」
あーダメだ。可愛い。
ポテトを2人で食べるためには、休憩室に並ぶベンチの隣同士の席に座らなくてはならない。その並びにする為には真島さんが動いてくれた。
ポテトを遠慮なくむしゃむしゃと食べる彼女は多分喉が渇いたらしく、「いい?」と聞くので頷くと
コーラの上蓋を外して、少し口にした後、指でスッと飲み口を拭いて戻した。
「いつだって、世界は想像の外からやってくる」
「え?」
「や、私ね、思っててん。
どんな事も、私の想像の範疇を超えた所で成り立っているんじゃないかって。
暗い海の底も、ノストラダムスの頭の中も、近江君の心の中も、私にはわからない。
もしかしたらそんな見えないところで世界はつながり合って、
私に見えているんじゃないかって…夜の海を見るとそう思うんだ…」
ふと横に目をやるともう夜である。ガラスに、
非常灯に照らされた2人の横顔が淡く写っている。
「…実は、今日は僕も似たようなことを考えていた。
多分今、日本の皆で“世界の終わりごっこ”をしてるんだと思う。
見えない恐怖が空気のように僕らを包んで、未知の何かがいるような感覚。
それが不快な一面何処かドラマチックでみんな…少し酔ってるだと思う。」
「私も非日常にちょっとセンチメンタルになってるってこと?」
「そうかもしれない…でも僕はただの社会現象だとは思えない。
真島さんが言うような、もっと大きな流れの輪を感じると言うふうな話の方が
肌感にピッタリと合う。」
「ふふ。よかった。そんなポエミーな女とは喋りたくないって言われるかと思った」
「僕のことそんなひどい人間だと思ってたのか」
「そんなことないよ。感性が豊かな男の子だと思っとった」
「え、そんなに僕と喋ったことってあったっけ…」
「近江くんてさ、『佐目鮫楼』でしょ。」
まずい。
病院では公にしていないが、
大学時代からちょくちょく書き続けていた世俗に噛み付くようなエッセイを
各新聞社に乱投していたところ、香川新聞の変わり者の目に留まり
新聞の小さな枠で連載しているのだ。もちろんバレないように細心の注意を払っているはずだ。
「えっと…何の話?」
「いやぁ下手やなぁ近江くん。
もっと話をぼかして書かないと、少し詳しく見ればエフエムの話やってわかっちゃうで」
「…だれかに言ってる?」
「言うわけないやん!せっかくの先生の作品を見れんくなるのは損やもん」
「あー…そっか、よかった…」
ガチャッ。
突如休憩室のドアが開く。
「船長が甲板に集まるように乗客に呼びかけてって言ってます。
一度きてもらえませんかね」
船員風の男が言う。
「あ、はい。甲板ですね。わかりました。」
真島さんが答えるので、僕は
何故夜の甲板に集まるのかの理由も聞かずに行ってしまったのである。
・
・
・
夜の海は夏でも肌寒い。
定期船を利用するものなら誰でも知っている。
海風といって、冷えた水面の空気が海から陸へ吹くのである。
だが今日は気温がやたらと高かったためか、少し心地よいぐらいの風である。
そして人工の明かりがほとんどないので、
星空は瞬き、月は影が映るほどに煇っている。
甲板に出れば、若そうな船員3人と、船長らしき白髭の老人、
そして経営を心配せざるを得ないほどの数人の客が遠方に光る神戸の夜
港を見ながら僕らを待っていた。
船長は重々しく口を開いた。
「…お揃いのようですので、事情を説明させていただきます。
当船こがね23号は16:59に臨時定期船として高松港を出港致しました。17:42分ごろ航行中に船底と‘’海洋生物”のようなものが接触し、船が停止いたしました。
…おそらくエンジン室付近の船底に接触したようで、非常用油圧モーターすら稼働しない状態です。
メインの電気系統がやられ、緊急用の発電機で最低限の電気を確保していますが、ガソリンのストック上、あと5時間ほどしか持たないかと思われます。
よって、当船はこれより第一種海難船とし、神戸海上保安庁へ救難信号を出します。
皆様におかれましては、休憩室で荷物をまとめ、ライフジャケットの配布までしばしお待ちください。
大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。」
沈黙が流れる。
このご老体が言うことはおそらく真実だ。彼の眉間に寄った深いしわがこの事態の重さを表している。
何故か足がその場から動かない。動けない。
「…近江くん、戻ろ。
こうなったのは誰のせいでもないし、それにほら。夜の海は危ないから。」
ハッとする。この人冷静すぎる。
少し頭が冷えた僕は、「それもそうだね」といってつま先が船内に向く。
明石海峡大橋付近には海流の構造上、渦潮がいくつも発生していて、夜の満潮期になるにつれて少し海は荒れるのである。
ぐらっと大きくバランスを崩し、よろめいてしまった。地面が僕に迫る。
ゴンッ。
頭を甲板にぶつけて力が入らず…多分今夜の海へ転がっている。
「あぶない!」
そう言って彼女が手を伸ばし、僕の脚を掴んだ時…
『キュォォォォォオオオオンッ!!!!』
甲高い轟音が響きわたった。
海の底の怪物が目を覚ましたようなおぞましい声だ。
『なんで…』
真島さんがつぶやいた。
と、同時に眩いばかりの閃光が目の前で炸裂する。
そこには色とりどりに光り輝く浮かぶクラゲが宙に浮いて漂っていた。まるでこの世の生き物とは思えないほどに鮮やかに浮遊している。
わからない。何が起こっているのかがわからない。
クラゲが本来浮く生き物か、沈む生き物かどうかもわからなくなっている。
「なんだこれ…」
と思わず口にしたが、それを言うにはまだ早かった。
さっきまで静かに緊急事態を聞き入っていた人間達が
奇怪な動きをし始めて、踊り狂い始めた。
誰も何もいわずにただ熱心に、祈るように、謎の舞踊を繰り広げる。
「…理解ができ…
ガァンッ
何かを撃ったような金属音がした。
すると、揺蕩う光るクラゲが一斉に弾け飛んで、夜の海へ散り散りに放り出されたのである。
ふらふらの
「近江くん!!!船の中にもどり!!
これはまずい!」
真島さんが何が言っているが、脳は言葉の理解ができるほど思考の余白がない。
この超常現象はまさしく『想像の外側からやってきた悪夢』であり、僕はこういう時、動くことができない人間だと言うことに初めて気づけた。
ぼちゃんと海に落ちた光るクラゲ達は、巨大な魚影を映し出した…
僕は見た。あれは…鮫だ。
4~5メートルはあるであろう巨大なホホジロザメ。僕にはそう見えた。いや、そうに違いない…
見たところ2匹はいる。海洋生物とはこいつらのことだったのか!まるで海の王のようにゆったりと船の周りを回遊している…
「綺麗な鮫だ。」
バチン。刺すような痛みと共にだんだんと左の頬が熱くなってきて、やっとビンタされたことがわかった。
「はよせぇゆうとるやろ!中入って!!!」
気迫におされ、船内に押し込まれた。
・
しばらくして、やっとふらふらの恍惚状態の自分が、
休憩室に押し込まれたことがわかってなんだか少し恥ずかしくなった。
下戸のぼくがまさか‘現実酔い’するとは。いや、ただの乗り物酔いか。わからない。全てが意味不明に時間が過ぎていく。
「真島さん…」
「大丈夫。全部大丈夫やから。とにかく落ち着いて」
「ほんと…やばい、何なんだよこれ。全ての奇跡が同時に起きているとでも…」
「違う。全ての偶然が同時に起きているだけよ。」
本当にわからない。
何が起こっているのか、何を言っているのか、
そしてこの女性が冷静にぼくを見つめている訳が。
…いや、待てよ。
彼女をよく見てみると小刻みに震えていて、瞳孔は猫のように開いている。
落ち着いていると思ったのは、僕の思い込みだ。
そう気づくと少し頭が冷えてきて、視界のぼやけというか、霧散した輪郭が、段々とはっきりしてくる。
『客観的に自分と他者をよく観察する』
そうだそうだ、僕がエッセイを書く上でとても大事にしていることだった…
まずは、この危険な海難船から脱出しないといけない。
「…真島さん、ごめん少し錯乱してた。
ありがとう。少し落ち着いたよ」
「よかった。…しばらく安静にしといたほうがええよ。
休憩室でおって。私もっかい甲板の状況みてくる」
「いや、それは…」
「確かにおかしな事がたくさん起きてたから私も混乱してるけど、状況を把握しないのは逆に危険。
近江くんはここで待ってて。すぐ戻るから」
すごいなぁと思った。頼れるというか勇気のあるというか。「この船からすぐ逃げよう」と言いたかったが、気圧されたセリフが口から逃げ出した。
ガララとドアを閉めて出ていく。その背中を目で追うことしかできない。
でも、いいのか。真島さんの…他人の言葉に甘えて、行動に移さない自分を、自分は愛せるだろうか。
僕は彼女をこの船から脱出させたいと思ってる。なら、そうすべきだ。人間1人にできることを最大限すべきだ。
確か救命ボートとか、救難信号機とか、いろいろやれることがあるはずだ…
僕はそう思考している最中で、走り出していた。
・
・
休憩室から出て甲板に繋がる廊下を走っていると、まだ渦潮海域を出ていないのが、床のぐらつきからわかった。
まだ、僕の脚もふらついている。動揺か、恐怖か…
構うものか。そんなものは海に捨てて、
はやく彼女のもとへ向かわなくては。
甲板への鉄扉を開けると、小雨が降り、さっきよりも波は高く荒れていた。
光るクラゲのような物体は先ほどより数を減らしたが、未だ何匹かは健在で、海中を照らしている。
だが、そんなものが目に留まったのは一瞬で、僕はありえない光景を見た。
さっきまで甲板にいた人々が、何かを引き留めている。
人間…飛び降りようとしている人間だ!
大の大人が何人も腕を掴んで引きずり戻そうとしている…
まさか。
「真島さん!!!」
手すりの向こう側の、今にも飛び降りようとしている真島さんを見た時、僕はさっきよりも強く駆け出していた。
「来ないで」
小さな声、でもはっきりとそう言って
すごい力で引き留める手を振り解いた彼女は、ゆるやかに光る海へ落ちていった。
わからなかった。
何故そんなことをしたのか。
だけど、さっきまでの混乱と錯乱が錯綜した僕じゃない。
何をすればいいかわからなかった。でも、今は何故彼女がそんなことをするのかがわからないだけだ。
何をすべきかはわかる。
何故か軽やかな脚で、助走をつけてひゅっと跳べば、
簡単に体は海へ放り出された。
叫ぶ男達の声は歓声に聞こえる。
光る海が迫ってくる景色に、爽快さと懐かしさを覚えて、僕は微笑んで海へ落下した。
僕は海中で目が開けられる人間らしい。
ほのかに明るい暗黒の中で、地響きにも似た渦潮の低音が響いている。これが瀬戸内海の音か。
やることは一つ。真島さんを急いで見つけて、船に引き上げなければならない。鮫に喰われる前に。
周りを見たところ真島さんも鮫もいない。どこだ。どこだ。どこだ…
いた。
絶望したのは、ぐったりとした彼女の周りを2匹の鮫が廻っていたことじゃない。彼女が浮こうとせずゆっくり沈んでいっていることにだ!
肺の中の空気がないのかもしれない。これは非常にまずい。
「ぶはぁっ!…ハァ…ハァ…真島さーん!!おぉーい!!!!」
海面に顔を出して叫びながら、下手くそなクロールでかの方向へ向かう。
どうか、暗黒の海に血が流れないように…
ドン!!っと後ろから衝撃が加わり、振り返る。波の隙間から見えるのは大きな背ビレ…鮫だ。どうやら体で体当たりされたようだ。
一匹が僕の下まで回りこんでいたらしい。心臓が高鳴り氷の縄で縛られたように冷たく跳ねている。
僕は死と対面してこう思っていた…「理想の死に方だ」と。
でも、彼女は助けたい。恋人でもない…ただの少し気になる同僚。そんな人を命懸けで助けられたら…海に消えられたら…なんだかドラマチックじゃないか。
ボシャンと音がする方を見ると、救命浮き輪が投げられていた。こいつに真島さんの体をくくりつけたら僕の目的は達成される。
海中にぼちゃんと顔をつけ見渡すとと、斜め後ろから鮫が迫ってきている。
くそっ。あと少しなのに!
目がグルンと白目になっている。ここで殺すつもりか。
やっとのところで真島さんを掴んで、ぐいと背面に回す。
下を睨めば歯を見せながら嗤う鮫が昇ってくる!
ボゴゴッ!!
来てみろ!!と叫ぶと、鮫は僕らを丸呑みしようと口を開けて迫って…
さいごに見た景色はその鮫だった。
・
・
・
「うぅ…あれ……?」
「あっ!!!」
ここはどこだ。海の底じゃない…?
バッと僕の体に抱きつく人がいる…
真島さんだ。生きていた。髪が乾いているってことは引き揚げられてから少し経つのか…?
「ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
「何のこと…?いや、でも生きてて本当によかった」
いや、それより。
「あ、いや、それよか、鮫は!?
あの光るクラゲとか怪獣の声とか…みんな狂ったように踊ってたのとか…
色んなわけのわからないことが起きてて…」
「えっと…その…なんというか…近江くんに説明するためには…まず言わんといけんことがあって…」
「え、説明…?知ってるってこと…?」
「近江くんのことが、好きです。」
訳がわからない。
また混乱と錯乱の交差点に戻ってきた。
「えーと、ごめん、全くわからない…いや、嬉しいんだけど…鮫の説明の為に、その、僕のことを好きって言わないといけないってこと?」
「そうやんね…
色んなことが起こって訳がわからないと思う。
順を追って説明するね。
…フラッシュモブって知ってる?」
・
・
事の顛末はこうだ。
この臨時便は、いわゆる普通の定期便とは違って、
サプライズプランという旅行会社が用意したものだったようだ。
今海外では、フラッシュモブというものが流行っているらしく、赤の他人が一斉に同じダンスを踊り出したり、急に色とりどりの電飾を光らせて、非日常のめでたい空間を瞬時に作り上げるというサプライズが人気らしい。
そしてそれを計画し、実行しようとした人物こそが真島さんであり、好意のベクトルはなんと僕に向いていたということである。
ただ、もうひとつサプライズがあった。
それは、鮫の存在である。
これは真島さんの計画にない、神のサプライズだ。
鮫が船底に激突し、エンジンが停止したのは本当らしい。そこで船長は中止を考えていた。
ただ、僕にそのプランを聞かれるのはまずいと思った船長はアナウンスを飛ばしたが、当然意図が伝わることはなく、計画はトラブルを抱えたまま歪に進むことになったのである。
その結果、渦潮で傾いた船体の予備電源が暴走し、サプライズ用の架空ワイヤーが高音を出しながら巻き取られ、
括り付けられたカラフルな電飾が一斉に発光した。
切断されたワイヤーは海へと放り出され電飾はしばらく海を照らした。そのライトに惹かれて鮫がもう2匹やってきたのだと思う。
混乱した乗客(同僚ないしサクラ)が連携の取れぬままダンスを始め、めちゃくちゃになると予想した真島さんは混乱する僕を船内に押し込んだ。
そして、最悪の結果になったフラッシュモブサプライズに重い責任と羞恥を感じ海に飛び込もうとした。と、いうか飛び込んだ。
つまり、端的に言えば「真島さんがフラッシュモブのサプライズをしようとしたところ、色々なトラブルで失敗した。」
という事と、「混乱した僕が壮大な勘違いをした」という事だ。超常現象や、世界の外側から来た事象などではなかったということだ。
・
「個人的な思いで、こんな大勢の人を巻き込んで…本当に大変なことをしたって思ってる…
本当に、本当にごめんなさい…」
「いや、全然いいよ!それよりも、僕のことをこんな用意までするくらい好きだったということに、1番驚いているよ」
「うん…自分でも不思議なの。なんでこんな強い衝動が私にあったのか…でも、何故か好きなんです。近江くんのことが。」
「あ、僕が佐目鮫桜だから?」
「ううん、まぁそれも魅力的やけど、そんなんじゃなくて何か…わからない…」
「そう…僕もまだ…わからないことがある。
こんな単純なことを、何故こんな誤解をして狂ったいたのかということだ。
普通であればワイヤーの巻き取り音や電飾を、怪獣の声や光るクラゲと見間違うはずはないと思う。
それに関しては本当にわからないんだ。」
真島さんが微笑んだ。
そうか。
世界が見えないところで繋がっていると彼女は言った。
そういうことなのか。彼女が微笑んだことでやっと意味が理解できた。
おそらく…先の彼女の説明に鮫の件がないのも、同じ理由だろう。
僕は…僕らはかつて…
完
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