プロローグ 潔癖症

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プロローグ 潔癖症

 『潔癖症』  不潔なものや不正なことを極度に嫌う傾向・性癖。  「―で、何度も手を洗う」  「―のため、人と手を触れ合えない」  真木悠樹(まきゆうき)は、横須賀市にある自宅から、最寄の駅である安針駅に向かって歩いていた。  現在、朝の登校時間である。歩道には、登校中の小学生や中学生の姿が散見された。  この周辺は、静かな住宅街であるため、元々人通りも少なく、人や車の行き来も最小限の場所だ。この調子なら、問題なく列車の到着に間に合うだろう。   しばらく歩き、やがて駅へと到着した悠樹は、定期券を使って改札を通った。それから、ホームへと立つ。  朝のホームは、制服姿の学生や、スーツを着た会社員などの大勢の人間で混雑していた。休日の商店街がちょうどこんな雰囲気だ。  悠樹は、ホームでスマートフォンを弄りながら、列車を待つ。頭上からは、初夏の朝日が、燦々と照りつけている。ホームの喧騒もあるが、のどかでのんびりとした時間だ。  やがて数分が経ち、滑るようにして、赤い色をした列車がホームに入ってくる。悠樹は他の乗客に混ざって、開いたドアから内部へ乗り込んだ。  中はすでに満員状態である。座席に座る余地などなかった。  悠樹は、可能な限り、周りの人間との接触が少なくて済むよう、空いている場所を探し、そこに陣取った。  列車は発進し、大勢の乗客を乗せて、車体が揺れ始める。しかし、悠樹は、つり革や手すりを掴んでいなかった。完全なフリーハンド状態である。そのため、揺れる車体に対し、サーフィンでもしているかのように、足と体の重心だけで、バランスを取らなければならなかった。  結構大変なのだが、ほぼ毎日の通学時に行っている行為なので、随分慣れてしまった。サーフィンをやったら、初めてでも上手くこなせそうな気さえしてくる。  しばらくの間、バランスゲームは続く。周囲の人間は、特に悠樹に対し、奇異の目を向けていなかった。地味目の外見のせいか、ちょっとした妙な行動でも、特に衆目を集めないのが自分の特徴である。メリットと言えるのだろうか、空気のような存在なのだ。  落ち着いたので、悠樹は着ているブレザーの胸元を緩め、通学鞄から文庫本を取り出した。本のタイトルは『五匹の子豚』。アガサクリスティ著の推理小説。灰色の脳細胞を持つ小男のおっさんの物語。  『エルキュール・ポアロ』シリーズは、趣味らしい趣味のない悠樹の、数少ない興味の対象である。  悠樹は踏ん張ったまま、しおりを挟んだページを広げ、続きを読み始める。ストーリーは『五匹の子豚』こと、五人の容疑者の面談を終えるところだった。ポアロは五人の容疑者を集め、推理を披露し始める。物語も佳境に差し掛かっていた。  しばらく読み進めているうちに、列車は隣の横浜市にある京急田浦駅に到着する。ここで降りなければならなかった。良いところだったが、また続きは学校に着いてからにしよう。  悠樹は、文庫本を通学鞄にしまい、列車が完全に停止するのを待った。そして、開かれた扉に向かう。複数の乗客も扉になだれ込むようにして突き進んでいた。悠樹は、他の乗客に触らなくていいよう、サッカーのオフェンスを思わせる動作で、乗客を避けながら、扉からホームへと出た。  それから、そのまま改札を通り、外へ出る。  駅前にある小さな広場には、悠樹と同じ紺色のブレザー型制服を着た学生も多かった。皆朝日を浴びながら、月曜日の気だるい登校を行っているのだ。  悠樹も彼らに混ざって、通学路を歩き始めた。駅からなら、十分ほどで学校へと到着する。この時間が、孤独が待ち受ける高校生活一日の始まりであり、大きな憂鬱の一つであった。  通学路である船越町の交差点をいくつか渡り過ぎると、ちょっとした丘のようなものが見えてくる。その丘は、城壁のごとく法面が作られており、それに沿うようにしてアスファルトの坂道が整備されていた。  その坂道を登りきれば、悠樹の通う高校へと到着する。  春日稜高校であった。近くには海上自衛隊の基地も見え、また海も見下ろす位置にあるため、風向きによっては、濃い潮の匂いが鼻腔をつく場所だ。  悠樹は校門を通り、玄関から校舎内へと足を踏み入れる。そのまま下駄箱へ直行した。  悠樹は下駄箱の蓋に手を触れ、中を開いて上履きに履き替える。この部分は『自分のもの』であるため、ガードも必要なく、直接手で触れることができた。  悠樹は他の生徒とすれ違いながら、廊下を進み、階段を上がる。そしてちょっと歩くと、二年二組の教室へ辿り着いた。   悠樹は教室の引き戸の前に立ち、ちらりと周囲をうかがう。廊下には悠樹の他に、登校してきた生徒が数名いるだけで、誰も悠樹のほうに注目していなかった。元々自分は幽霊のような存在。他者からの視線は屈折レンズのごとく、自然に避けていくのだ。  悠樹はポケットからハンカチを取り出し、そのハンカチ越しに、引き戸の取っ手に手を触れた。そして引き戸を開ける。  教室内に入ると同時に、すでに登校を終えていたクラスメイトたちの視線が一斉に突き刺さった。だが、入ってきたのが悠樹だとわかると、誰もがすぐに興味を失ったかのように、目を逸らし、それぞれ朝のお喋りに戻っていった。普段通りの光景である。  悠樹がハンカチを使って、引き戸を開けた『奇行』については、やはり誰も気づいていないようだ。これも、いつものことである。皆、悠樹の行動など興味すらないのだ。お陰で、変人扱いされることだけは今のところなかったが。  悠樹は後ろ手で引き戸を閉め、ハンカチをポケットの戻しながら、自分の席へ向かう。位置は窓際の中ほど。近くの人間とは喋ったことすらない。  自分の席に着いた悠樹は、通学鞄をフックに掛け、椅子に座った。そして、列車で読みかけだった文庫本を取り出し、再び読み始める。  しばらく時間が流れる。次第に、クラスメイトたちが登校してきて、人が増えていく。青春真っ只中の、不安定で力強い喧騒が教室内に響いていた。  悠樹は、それらに一切気を取られることなく、『エルキュール・ポアロ』を読み耽った。当然、こちらに話しかけてくる生徒など一人もいない。   悠樹がページを捲った時、教室の前方から一際明るい声が聞こえてきた。  悠樹はそこではじめて、本から目を離し、前方を確認する。  視線の先には、登校してきた鏡宮愛莉(かがみみやあいり)鏡宮愛莉の姿があった。  愛莉は小鹿を思わせる可憐な顔をほころばせ、近くのクラスメイトの女子に挨拶を行っていた。  教室中の生徒が、愛莉に視線を注いでる。男子などは特に顕著で、色めき立っている様子だ。  それもそのはず。鏡宮愛莉は学年一だと称されるほどの美少女なのだ。下手をすると学校一かもしれない。  優れているのは、美貌だけではなかった。成績は常に学年上位、スポーツ大会でも大活躍するなど、運動神経も優れている。ようするに、絵に描いたような才色兼備の少女であった。  愛莉は、前方にある自身の席に座ったあと、取り巻きのごとく、周りに集まった生徒たちと会話を始める。時折、微笑みながら、色白の華奢な手で、自身のミディアムストレートの髪をかき上げていた。  彼女の周りだけ、春風のような明るい雰囲気が漂っているように見えた。悠樹の周りの淀んだ空気とは正反対だ。  彼女の元に集まった生徒には、オタクのような外見の者や、悠樹に劣らず地味な容貌の者もいた。しかし、愛莉はその誰とも分け隔てなく、晴れやかに接していた。愛莉は他者に対して、対応の差をつけない、人当たりの良い性格の持ち主なのだ。  とはいえ、二学年に上がり、はじめて愛莉と同じクラスになったものの、悠樹はいまだ愛莉と会話をしたことがなかった。いくら彼女が誰とでも対等に接する女子だろうと、影のような存在の悠樹では、認識すらしていないのかもしれない。  悠樹は愛莉から目を逸らし、文庫本に目を落とした。そして、続きを読み始める。  再び、空想の世界に没頭しかけた時だった。突然、右肩に軽い衝撃が走った。  顔を上げて確認してみると、悠樹のそばを男子生徒が通り過ぎて行く最中だった。どうやら、その男子生徒が悠樹の真横を通過する際、手が偶然悠樹の右肩に接触したらしい。その男子生徒は気づいていないらしく、何のアクションもせず、近くの友人に声をかけていた。  悠樹はそのまま読書を続けようと思った。しかし、男子生徒と接触した右肩が、気になって仕方がなかった。ただ触れただけなので、痛くも痒くもない。しかし、まるで熱を持ったかのように、じんじんと疼く。どうしようもなく、不快だ。  悠樹は席から立つと、教室の戸口へ向かった。再度、ハンカチを使い、戸口を開けた後、廊下に出る。それから、人が増えた廊下を歩き出す。  悠樹が辿り着いたのは、男子トイレだった。朝のためか、利用者は少ない。近くの教室とも距離があるので、周囲に人影すら見えず、ここだけ取り残されたように静かだった。  悠樹は男子トイレの中へと入る。内部が無人であることを確認し、洗面台の前に立った。  悠樹は、ブレザーの内ポケットからポケットティッシュを取り出すと、水道で軽く濡らす。それから、先ほどクラスメイトの男子から触れられた肩の一部分を、丁寧に拭き始めた。  別段、汚れが付着したわけではない。触ってきた相手が不潔というわけでもない。ただただ単純に、人が触れた部分を払拭しないと気が済まないのだ。  いつ頃からだろう。悠樹は人と触れ合うことに強い拒否感を覚えるようになったのは。手と手が触れ合うことはおろか、他人が触ったドアノブや、つり革などもアウトであった。  いわゆる潔癖症というやつである。  そのせいで、日に何度も手を洗い、他者が接触した箇所を拭く行為を取らなければならなかった。手間と暇が煩わしく、極めてQOLが下がる性質である。  自分でもどうにかしたいという願望があるが、それでも難しいのが潔癖症、ひいては強迫症の特徴なのだ。  幸いと言うべきか、悠樹のそういった特性を知るものはいない。元々友達はおらず、彼女すら出来たことがないため、身近で気付く者はいなかった。親とも離れて暮らしており、また、親元に居た時も、同居している家族に対しては潔癖症は発症しなかったので、親すら悠樹の潔癖症を把握していなかった。  悠樹は男子生徒に触られた肩の払拭が満足いくと、ティッシュをゴミ箱に捨てた。そして、トイレを出る。幾分か、気分は晴れていた。  同時に、チャイムが鳴る。朝のホームルームの時間だ。  「というわけで皆さん、くれぐれも注意してください」  二年二組の担任教諭である楠教諭の注意が飛び、ホームルームは終わりを告げた。内容は、近頃校内で煙草を吸っている奴がいるとか何とかの話だ。ヤニには興味がなく、特に友人もいない悠樹にとっては、関係のない話である。  やがて、一時限目の授業である現代国語の教諭が入ってくる。田鍋誠とかいう背の低い、気弱そうな男だ。  田鍋教諭は、鬱病患者のようなテンションの低い声を発し、本日はじめての授業を開始させた。  現代国語は好きな科目であるため、悠樹は真剣に授業を聞く。クラスメイトの中には、早々と居眠りを始めている者もいた。  しばらく授業が進み、休日で止まっていた時間が動き出し、月曜日の気だるい時間が過ぎていく。  やがて真面目に授業を聞いていた祐真の意識が、睡魔の触手に捕まりかけた頃。現代国語の田鍋誠担当教諭が声を張り上げた。  「えーでは、これより抜き打ちテストを行います」  突然訪れた試練に、一気にざわめく教室内。寝ている生徒も起き出した。  「なんだよ急に」  「聞いてないよ」  「なんで授業の最後に……」  非難轟々だが、教諭はそ知らぬ顔。というよりも、してやったと言わんばかりの風情だ。自身の授業を真面目に聞かない生徒に対する一種の意趣返しなのだろう。  やがて始まる抜き打ちテスト。内容はちょうど今授業でやっている中島敦の『山月記』についてだ。  悠樹は授業を真面目に聞いていたため、難なく解くことができた。しかし、一部のクラスメイトはそうはいかなかったようだ。国語の時間を仮眠の時間だと決めている連中が、頭を抱えていた。  悠樹は、自然と視界に入る鏡宮愛莉の背中を見つめる。彼女はすでに答案用紙を伏せており、夏休みの宿題を片手間で終わらせた時のような、余裕のある雰囲気を纏っていた。  愛莉もちゃんと、授業を聞く生徒の一人だったようだ。  やがて紛糾を呼び起こした抜き打ちテストは終了を迎え、答案用紙がそれぞれ最後尾の席から回収される。  悠樹も後ろから回ってきた答案用紙を受け取り、自分の分を乗せて前に渡す。前の席は樫塚とかいう女子だ。  そこで再び起こる嫌な現象。悠樹が樫塚に答案用紙の束を渡す時、偶然にも、相手の手と自分の手が触れ合ってしまった。  くそ、またか。  悠樹は思わず、しかめっ面をしてしまう。明確な嫌悪の表情だった。もしも、相手がこの表情を見ていたら、不快に感じる場合もあるだろう。しかし、肝心の樫塚は、その表情に気が付かなかったようだ。そのまま答案用紙を前へと渡していた。  空気のような存在の悠樹の行動など、全く眼中にないのだろう。手が触れ合ったことも、おそらく意識の埒外に違いない。  しかし、悠樹のほうは気になってしょうがなかった。  チャイムが鳴った後、悠樹はすぐに教室を出る。そして廊下の端にある洗面所へ向かった。  勢いよく水を出し、悠樹は手を洗う。樫塚が触れた箇所は特に入念に。一応、教室のほうを振り返り、樫塚が見ていないか確認するが、心配ないようだ。自身が触れた相手が、執拗に手を洗う光景を目撃したら、気分を害する恐れがあった。  もっとも、悠樹のような目立たない存在の人間ならば、いくら直後に手を洗おうとも、視線を注ぐ者などそうそういないだろうが。  時間をかけて手洗いを行い、満足いったところで、悠樹は水を止めた。ハンカチで手を拭きつつ、教室へと引き返す。もちろん、廊下を歩く他の生徒と接触しないよう、注意を払いながら。  誰とも触れ合うことなく、無事、教室に到着すると、悠樹はハンカチ越しに取っ手を持つ。それから、扉を開けようとした。  その時だった。  ほぼ同時に扉が開かれる。自動ドアのようなこの現象は、偶然、向こう側から誰かが同じタイミングで扉を開けたことが原因だ。  悠樹は突然のことに驚き、手に持っていたハンカチを落としてしまう。その直後、白い手がすっと伸び、落としたハンカチを拾った。  正面に顔を向ける。扉を開けた人物は、鏡宮愛莉だった。  「ごめんなさい。驚かせたみたいで」  愛莉は聖母のようにお淑やかに微笑むと、拾った悠樹のハンカチをこちらに差し出した。  「あ、ああ……」  ハンカチに手を伸ばしながら、悠樹は動揺を隠せないでいた。学年一の美少女との邂逅である。本来、悠樹のような下賎な存在は、近付くことすら無礼な相手であった。一国の王女と奴隷くらいの関係だ。  それなのに、ハンカチまで拾って貰えるなど、感動を通り越して、おこがましい行為と言えた。  「あ、ありがとう」  悠樹は礼を言いながら、ハンカチを受け取る。愛莉は、天使のような笑顔をこちらに向けた。  それと同時だった。ハンカチを受け取った瞬間、愛莉の手と悠樹の手が触れ合った。反射的だった。悠樹は思わず、顔をしかめてしまう。  愛莉の眼前だった。悠樹の反応に対し、彼女の綺麗に整えられた眉が、僅かばかり動くのを悠樹は見た。  悠樹は受け取ったハンカチをポケットにしまうと、そそくさと立ち上がる。そして、そのまま入ろうとしていた教室ではなく、元いた廊下へと踵を返した。それから、洗面台へと向かう。  洗面台へと辿り着き、ちらりと教室のほうをうかがった。愛莉はどこかに行ったのか、姿が消えていた。つまり、こちらを見ていないのだ。  悠樹は蛇口を捻って、愛莉に触れられた部分を洗い始める。石鹸を使い、入念に行う。  愛莉が汚いわけではない。頭ではわかっているが、生理的にどうしようもなかった。彼女が悠樹の手に触れる直前、ゴミを触っていたら? もしも、彼女がトイレに行った後、手を洗っていなかったら? 不安は行く筋にも展開する。  それだけではない。何かの研究論文で読んだことがあるが、人間は日に三度ほど、間接的に誰かの『性器』に触れているらしいのだ。ようするに、トイレをしたのに、手を洗わず、その手で電灯のスイッチやドアノブに触れる者がいるせいで、他者が間接的に性器に触れる結果を招いているのである。  それを知ってから、悠樹はなおさら不特定多数が触れる可能性のある物体を触ることができなくなってしまった。ドアノブや吊り革などは最早、天敵といった類の存在である。  それらを愛莉が触っていないと断言できない以上、いくら相手が美少女だろうと、洗浄しないと気が済まないのだ。  悠樹は時間をかけて手を洗い続け、やがて、気分が落ち着いたところで、蛇口を捻り、流水を止めた。それから、ようやく教室へ戻るために歩き出す。   そこで悠樹は、歩みを止めた。はっとする。やや離れた位置から、愛莉がじっとこちらを見つめている姿が目に入ったのだ。  迂闊だったと後悔する。手を洗っているところを目撃されたのだ。失礼に当たる行為に対し、彼女はどう思うだろう。あくまで愛莉は無表情。しかし、目は冷たさを帯びているように感じた、  愛莉はすぐにアクションを取った。彼女は、悠樹と目が合った直後、背を向けてその場から離れたのだ。悠樹は、遠ざかる愛莉の細い背中を、ただ見送るだけしかできなかった。  不快にさせたのかもしれない。悠樹は不安に駆られる。下手をすると、トラブルが発生しかねない状況だ。  同時に、たかだが悠樹ごときの行動に、アイドル的女子生徒が反応するのかとの疑問が生じた。彼女にとって、悠樹は虫か石ころと変わらない存在であるはずなのだ。  最右翼は後者である。つまり、鏡宮愛莉は自身に手を触れたあと、すぐに手を洗った悠樹のことなど、微塵も気にしていないのだ。ようするに、彼女を不快にさせた懸念は杞憂に過ぎない。  悠樹は希望的観測を抱いた。  鏡宮愛莉は廊下をずんずんと進みながら、小さなショックを受けていた。  何なのあいつ! 私と触れ合った手をあんなにごしごし洗うなんて!  愛莉は先ほど、名前すら知らない男子生徒のハンカチを拾った光景を思い出していた。  あいつはハンカチを渡す際にも、顔をしかめていた。その表情は本気で嫌悪感に溢れていた。つまり、あの男は、心の底から鏡宮愛莉との接触を拒んでいたのだ。  そんな人間、今まで出会ったことなどなかった。これまで自分は生まれ持った美貌で多くの男を虜にしてきたし、この高校でも学年一、下手をすると学校一と言っていいほどアイドルとしての地位をを築いている。そんな自分を拒否する男が居るなんて、信じられなかった。  その逆は頻繁にあった。いわゆるセクハラというやつである。さりげなく腕や脚を触られることは序の口で、胸やお尻なども狙ってくる不埒な輩もいた。男子生徒だけではなく、男性教諭も、ひいては女子生徒にすらそんな奴がいた。  愛莉は、そういったセクハラ行為に対し、強い反発心を決して見せなかった。見せたら最後、下手をすると、離れていく人物もいるかもしれないからだ。  自分は万人に愛される人間。それこそが私のアイディンティティであり、誇りなのだ。だからこそ、降りかかるセクハラは全て、鏡宮愛莉の可愛さ、優れたルックスの影響により、発生している副産物だと考えることで、愛莉は自分を納得させた。  私は誰よりも魅力的な女子。触れたくなるのは当然のことなのだと。  それゆえに、許せない。認めるわけにはいかないのだ。私から触れられて、嫌悪感を覚える男の存在など。  愛莉は戸口を開け、教室に入る。すぐに何人かのクラスメイトが晴れやかな顔で話しかけてくる。羨望の眼差し。優れた者に向ける敬愛の表情。少しの間、教室から離れていただけで、この対応だ。  そう。これが当たり前。皆から愛される存在が私なのだ。  愛莉は取り巻きのクラスメイトに囲まれながら、自身の席に座った。自分よりも成績の悪い連中との会話はつまらないが、とびっきりの笑顔で接する。  鏡宮愛莉は、誰に対しても分け隔てなく接する純粋な美少女。それが自分に対して設定されているキャラクターであり、遵守するべき事柄だ。高級ラウンジのホステスのごとく、作り笑いは必須であった。  クラスメイトたちの談笑に対し、時折笑い声を上げながら、愛莉は頭の隅で考える。  あの男についてだ。  こうして他者と会話をしているうちに、心境の変化が訪れていた。もしかするとあの時、あいつがみせた嫌悪の感情は、こちらの勘違いではないのかと。  ハンカチを渡した際に歪めた表情は、単に照れているだけ。それだけの単純な理由。なにせ、ハンカチを拾った相手は、学年一の美少女なのだから。  これまで女子と話をしたことがなさそうな男だったので、動揺と感動のあまり、つい顔を歪めてしまっただけに過ぎない。ようするに、大波のような感情がうねり、制御できなかっただけの話だ。  そういった方向で考えると、納得できる部分があった。愛莉の手に触れたあと、即刻手洗い場に駆け込んだのも同様だ。単純に別の理由で手を洗いたかったか、もしくは、本当は嬉しいくせに、好きな子に反発する悪ガキのごとく、本心とは逆の行動を取ってだけのことである。  おおかた、そういった下らない事実が背後にそびえているものなのだ。現実は。  だって、ほら。今もクラスメイトは私を敬愛している。才色兼備、眉目秀麗の素敵な女子生徒なのだと、彼らは無意識に示しているのだ。  そんな私を嫌悪する者――特に男子――がいるはずがなかった。愛莉はそう確信する。  だからこそ、だ。だからこそ、今一度だけ確かめてみようと思う。タイミングを見計らい、あの男の手に触れるのだ。  その後の反応で、全てが判明する。愛莉の確信が、真実へと昇華される瞬間だ。彼は嬉しさと恥ずかしさを綯い交ぜにした様子で、俯くだろう。決して嫌悪の表情などみせず、手も洗いに行かない。  だが、もしも、愛莉の予想に反し、拒否の感情をみせたら、その時は……。  愛莉は、クラスメイトの会話に、お淑やかに微笑みながら、心の中で『あること』を誓った。  昼休みになり、悠樹は自分の席で弁当箱を広げていた。中身は高校生の弁当としては、オーソドックスな食材で彩られている。  卵焼きにウィンナー、そしてミートボールにちょっとした野菜。  この弁当は、自身で作ったものだ。潔癖症である悠樹にとって、他人が作った料理など到底口にできるものではなかった。そのため、完全自炊、および、弁当持参は必至である。  祐真は箸を持ち、食事を始める。いつもどおり、一人だ。他のクラスメイトたちは、それぞれ仲の良い友人同士で固まり、席を囲んで弁当を広げている。単独で昼食をとっているのは、悠樹くらいだろう。  悠樹はウィンナーを口に入れる。ウィンナーは程よく焼けており、香ばしい味が口内に広がった。次はミートボール。こちらも肉汁が舌の上で染み渡る。  自作の弁当を楽しみながら、悠樹は前方に視線を向けた。  前方の席では、鏡宮愛莉が、友人たちと一緒に会話をしながら、弁当を食べている最中だった。  愛莉は、例のハンカチの一件の記憶などすでに忘却の彼方らしく、普段と変わらない様子で友人たちと接していた。表情も明るい。  やはり、悠樹が予想したとおり、愛莉は悠樹の反応など露ほども気にしていないようだった。当然である。彼女にとって、虫と変わらない悠樹の行動など、認識するのも憚れるだろう。  とりあえず、一件落着である。トラブルにはならず、また自分の潔癖症が露呈する危険性も消え去ったのだ。  悠樹は胸を撫で下ろしつつ、次は卵焼きを口へ運んだ。  昼食を済ませ、悠樹は廊下の洗面所で歯を磨いた。時折、洗面台を使いにくる他生徒たちもいたが、皆悠樹が透明人間であるかのように、一切、目もくれなかった。ここまでくれば、むしろ一種の才能かもしれない。  歯を磨きながら、ふと、もしかすると自分はスパイや探偵に向いているのでは、と思った。誰からも注目されない性質は、突き抜ければ、進入工作のスペシャリストとなる。透明人間も同然ならば、ジェームズ・ボンドも真っ青の成果をあげることが可能だろう。  悠樹は歯磨きを終え、歯ブラシを手の平ほどの黒いコンパクトポーチに入れた。これは歯ブラシがセットになったトラベルグッズの一種で、悠樹が歯磨きをする際に、携帯しているものだ。  悠樹はポーチを手に、廊下を歩く。昼食のピークが過ぎたせいか、結構な数の生徒が廊下でたむろしていた。演劇の公演前のような喧騒が耳に響く。  悠樹は、生徒たちに接触しないよう、上手くかわしつつ、教室を目指した。  教室に近づいた頃、悠樹は前方を確認し、眉をひそめた。  ある人物が、正面からこちらに向かって、廊下をゆっくりと進んでくる姿を捉えたからだ。  その人物は愛莉だった。なぜ、悠樹が眉をひそめたのかというと、どういうわけか、悠樹を見ているような気がしたのだ(多分、気のせいだろう)。  愛莉は、優雅な雰囲気を纏いつつ、艶のあるミディアムストレートの髪を揺らしながら歩いている。漫画や映画から抜け出てきたお嬢様、といった風情であった。  たったそれだけで、絵になる有様だ。周囲の生徒たちも、自然に視線が吸い寄せられているようで、魅入られたように目を向けていた。マリリン・モンローのごとく、彼女は衆目を集める才能があるのだろう。  そこで、悠樹は不思議に思う。いつも誰かと行動している彼女が、今は一人だ。なにか急な用事できて、教室を出てきたのかもしれない。  愛莉は悠樹の眼前まで迫る。悠樹は自然と道を空ける動作を取った。貴族に道を譲る平民のように。  愛莉とすれ違いそうになる。そこで不思議なことが起こった。充分スペースがあるにもかかわらず、愛莉の体と、悠樹の体が接触したのだ。厳密に言うと、体同士がぶつかったのではなく、ポーチを持っている腕が、愛莉の体と接触してしまったのである。  何となく、愛莉がわざとぶつかってきたように感じるのは、思い過ごしか。  接触した拍子に、ポーチが弾き飛ばされ、廊下へと転がる。悠樹は、あっと声を上げ、背中を丸めながらポーチを拾おうとした。  そこですっと手が伸び、誰かが悠樹のポーチを掴んだ。その瞬間、悠樹の脳裏に、自身愛用のハンカチがイメージとしてはためいた。  映写機のように、デジャヴが展開される。  以前にも、似たような光景を経験した。確か、あの時、ハンカチを拾われた。ハンカチを拾ったのは……。  「ごめんなさい。ぼーっとしててぶつかってしまったわ」  歯磨きセットが入ったポーチを拾ったのは、衝突の張本人である愛莉だった。  愛莉は淑女のように、上品な仕草でスカートを押さえながら立ち上がる。そして、拾ったばかりのポーチを、笑顔でこちらへ差し出した。  「あ、ああ」  悠樹も手を伸ばす。同時に、困惑もしていた。今朝と全く同じシチュエーションなのだ。まるでコントのような展開に面食らう。  それだけではない。愛莉のポーチを拾う反応の速さにも舌を巻いていた。内野ゴロを取るピッチャーのように、機敏な動きだったのだ。  愛莉は運動神経も良いと聞いていたが、それを意味するのが、今の動作だったのだろうか。まるで読んでいたかのように。何か違和感があった。  悠樹は、唇を結びながら、愛莉からポーチを受け取った。ポーチを掴み、こちらに引き寄せようとする。  その時である。再び『それ』が起こった。愛莉の指と、悠樹の指が触れ合ったのだ。悠樹は身をすくめ、つい反射的にポーチを離そうとする。  そこで、さらに追加される不可思議な現象。  愛莉は、離そうとする悠樹の手を『握った』のだ。まるで凍える者の手を温めるかのごとく、両手を使い、覆うようにして。  愛莉はあくまで無表情。しかし悠樹は――。  悠樹は大きく顔を歪めた。どうしようもなかった。自分の意思では抑えられなかった。愛莉の行動に対する疑問などよりも先に、腹の底から自然と生まれてくる、強い嫌悪感。喜びや恥ずかしさはなく、潔癖症としての、純粋な忌避の感情のみが、心の中空に渦巻いていた。  「ご、ごめん。拾ってくれてありがとう」  悠樹は、愛莉の手を振り解き、踵を返す。そしてそのまま、歩き出す。つい先ほどまで、自分がいた洗面所へ向かって。  我慢できなかった。今すぐ手を洗いたかった。本当は愛莉の視線を避けるため、男子トイレに行くべきだったが、仕方がなかった。そもそも、あのような真似をする彼女が悪いのだ。愛莉の感情など知ったことではない。  愛莉の真意も気にならなかった。今はとにかく手を洗いたい。触られた部分が気になって気になって、どうしようもなかった。人からの接触はもう勘弁だ。  悠樹は洗面台に到達すると、蛇口を捻り、水を勢いよく出した。それから、石鹸を付けて、一心不乱に洗う。  洗浄を一通りこなし、満足したところで、悠樹は水を止めた。ハンカチで手を洗いながら、廊下に目を向ける。  愛莉がじっとこちらを凝視している姿が、視界に入った。
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