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Case1 女子高生失踪事件その1
真木悠樹はハンカチを持ったまま、硬直した。手洗いを済ませ、冷静になったところで、直前まで自分が取っていた行動の危険さを理解したのだ。
少し離れた位置で、自分を凝視している鏡宮愛莉の姿を見て、悠樹は悟る。自分は謀られたのだと。
先ほど廊下で愛莉とぶつかったのは、彼女の故意だ。わざとポーチを落とさせて、自ら拾うために。
理由は単純明快。悠樹の手に触れる必然性を作るためだ。何のことはない。彼女は今朝、悠樹が自身の手と接触したあと、嫌悪の表情を浮かべ、手を洗った一件に対し、強い猜疑心を抱いていたのだ。
そして、もう一度、悠樹の手に触れることで、確信を得ようとした。それにまんまと引っかかり、悠樹は潔癖の行動をとってしまったのだ。
どうして、本来眼中にないはずの悠樹に対し、学年一の人気者である愛莉がそこまで執着したのかはわからない。しかし、愛莉の企みの結果が、彼女にとって気に食わないものであることが、明確に伝わってきた。
愛莉はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。無表情から一転して、険しい顔付きだ。一緒のクラスになって、はじめて目にする表情。普段みせるものよりも、なぜか迫真があった。
「ねえ、どうして私に触れたあと、手を洗うの?」
愛莉は、悠樹の眼前まで迫ると、詰め寄って質問する。芸術作品のような綺麗な眉根が、吊り上っていた。
「えっと……」
悠樹は口ごもる。どう釈明すればいいのだろう。彼女は、悠樹が潔癖症を患っていることまでは察知していないらしい。おそらく、自身のみを対象に、拒否感を示したのだと、そう思っている節があった。
かといって、自身の潔癖症のことを素直に伝えるつもりはなかった。悠樹の潔癖症が広まった場合、良からぬ真似をする輩が必ず現れるためだ。
人の嫌がることを、率先して行う者が一定数いるということである。からかい目的で、意図的に、悠樹へと触ってくる不埒な人間が確実に出てくる。それは、悠樹の存在感が薄いことや、影のような存在であることとは無関係の、人間社会の根底に流れる業病のような性質なのだ。避けることは叶わない。
ゆえに、他者に、悠樹の潔癖症が知られてはならないのだ。
こうなったら、取るべき手段は一つのみ。
「ごめん。ちょっと用事があって……」
悠樹は、顔を逸らし、歩き出そうとする。
三十六計逃げるに如かず。面倒なことに発展する前に(もう充分面倒事かもしれないが)、とっととこの場所を離れたほうが得策だと悠樹は判断した。
しかし――。
「待ちなさい!」
愛莉が目の目に立ち塞がり、悠樹の腕を掴もうとする。だが、腕を振って、それを避けた。無意識下の、いわゆる反射的な行動だった。
さらに不快な表情を示す愛莉。彼女だけではなく、周囲にいる生徒の反応も気になった。皆、何事かとじろじろと好奇な視線を投げかけている。学年一の美少女の珍しい行動が、関心を誘うのだろう。
悠樹は羞恥を覚えた。同時に、危機感も覚える。このまま衆目の中、愛莉と一緒にいたら、面倒事が増すだろう。
「鏡宮さん、ちょっとこっちに……」
悠樹は愛莉を手招きし、階段へと向かった。愛莉は憮然とした表情だが、無視することなくついてくる。
階段に差し掛かると、愛莉を連れたって登った。どこの誰かもわからない影の薄い男子生徒と、アイドル的美少女。二人の奇妙な組み合わせに、やはり、何人かの生徒が注目してくる。
しかし、幸いにも、後をつけようとする者まではいなかった。
やがて、屋上へと続く踊り場に、二人は到達する。悠樹はそこで振り返り。愛莉を正面から見た。愛莉は不愉快そうに眉根を寄せている。
二人は、無言のまま、お互い向き合う。これから決闘でもするかのような、ぴりぴりとした雰囲気を感じた。
その状態で、少しばかり、時間が過ぎる。
階下から、教室や廊下の喧騒が耳をついた。踊り場が静寂に包まれているため、より際立って聞こえるのだ。明るくて力強い、高校生たちの声が。この踊り場の雰囲気とは、随分とかけ離れていた。
やがて愛莉が口火を切る。
「ねえ、さっきの質問に答えて。なんで私と触れ合うのを嫌がるの?」
やはり普段とはまるで違う、刺すようなきつい口調。よほど、気に食わないらしい。
「……別に嫌がっていないよ。その、恥ずかしくて、適当に演技しただけ」
悠樹は、精一杯の嘘をつく。しかし、愛莉は誤魔化されなかったようだ。
「嘘でしょ。あんたの嫌がった顔、とても演技には見えなかったわ。本気で嫌悪してた。手を洗う行動も。ねえ、どうして?」
悠樹は答えに窮する。同時に、心の底にわだかまっている『ある疑問』が、喉元までせり上がってくるのを抑えられなかった。
ここは、聞いておいたほうがいいだろう。
悠樹は、質問を質問で返した。
「その前に一つ教えてくれ。なんでそこまで俺にこだわる? 俺なんかから触られるのを嫌がられても、鏡宮さんにとってはどうでもいい事実だろ?」
悠樹が断言した言い方をすると、愛莉は目を鋭くさせた。
「やっぱり、本気で嫌がってたんだ」
愛莉は頬を膨らませる。とても可愛らしい仕草だが、目は本気であり、強く憤慨している様が伝わってきた。
「……で、質問に答えてくれ」
悠樹は怯みながらも、再度訊く。愛莉の本心を把握しないと、会話の先行きが不安だった。
愛莉は一瞬上目遣いになった後、納得したのか頷いた。悠樹の事情を聞く前に、まずは自分から答えたほうが手っ取り早い、とそう判断したのだろう。
愛莉は口を開く。
「私を拒否する人間がこの学校にいてはいけないから」
「はあ?」
思いもかけない答えに、悠樹は耳を疑う。何を言っているんだ? この女は。
口火を切ったのを皮切りに、愛莉は説明を始める。教室ではまず見せない、熱がこもった口調で。
それは、悠樹にとって、理解しがたい『思想』だった。
「私はこの学校で一番、人気がある女子でしょ? 誰からも好かれ、求められ、認められる存在」
「それが私にとっての誇りなの。皆が私から触られることを喜びはすれ、嫌悪する人間などいてはならないのよ」
愛莉はそのあとも語り続ける。自身のアイディンティティについて。熱心に、布教を行う宣教師のごとく。
話自体はついていけなかったが、内容は概ね理解できた。要約すると、つまりこういうなのだろう。
愛莉は万人に愛される自分の姿こそが、真実で、それに反する者は決して許さないと言っているのだ。ナンバーワンのヒロインとして君臨し続ける自分を否定する輩など。
才色兼備、温良貞淑、絵に描いたような完璧な美少女に秘められた狂気を、悠樹は垣間見た気がした。
愛莉に対して抱いていた羨望の気持ちが、急速に萎んでいくのを自覚する。
「お前、そんな奴だったのか」
悠樹が呆れた声を発すると、愛莉はあっさりと首肯した。
「そうよ。悪い? だから……」
愛莉は言葉を区切り、唐突に腕をこちらに伸ばした。そして、悠樹の手を掴もうとする。
悠樹はとっさに手を引き、愛莉の手をかわす。傍から見れば、ハエか何かを避ける仕草に映ったことだろう。
「もう!」
愛莉は悲痛な声をあげた。それから、気を取り直したのか、こちらを睨みつけてくる。強い敵愾心を感じた。
愛莉は、質問を行う。
「次は私の質問の番よね? なんで私を拒否するのか、答えなさい!」
愛莉は、凛とした口調で言った。悠樹は当惑する。やはりきたか。なんて答えよう。もういっそ、潔癖症のことを伝えたほうが手っ取り早いかもしれない。そう思った。
彼女の本心を聞いた限り、むしろ潔癖症といった正当な理由があったほうが、納得してくれそうだ。
悠樹は覚悟を決めて、伝えることにする。
「俺は潔癖症なんだ」
「潔癖症?」
愛莉の眉根がピクリと動く。
「そう。だから鏡宮さんだけを嫌がっているわけではなくて、相手が誰だろうと触りたくないんだよ」
真実の吐露。思えば、はじめて自身の潔癖症について人に話した気がする。
悠樹の説明に、愛莉は腕を組み、悩む仕草をした。制服越しに、胸が強調されるものの、愛莉の本性を知ってしまったがため、大して魅力を感じなかった。
少しだけ間があり、やがて愛莉は口を開く。どこか決心したような顔付きだ。
「わかったわ。そういうことなら、私が協力してあげる」
「協力?」
愛莉の思惑が読めず、悠樹は訝しげに返す。どういう意味だろう。
愛莉は頷くと、説明した。
「私があなたの『潔癖症』を治してあげるわ」
「はあ? 治す?」
理解できず、悠樹は混乱する。一体、何を言っているのか。
愛莉は、少し照れたような仕草で自身の髪の毛をかき上げると、再度繰り返す。
「だから、私があなたの潔癖症を治療してあげる」
愛莉の提案をようやく理解した悠樹は、あんぐりと口を開けた。おそらく、間抜け面になってることだろう。
「治療するって、どうやって?」
医者でもなんでもないのに。第一、愛莉は現時点でこちらの名前すら知らないはずだ。今の今まで、悠樹の存在など認識していなかったのだから。
そんな相手の疾患を、どうやって治すというのだろう。この女子高生は。
「うーん、方法は今のところわからないけど、任せて。必ずあなたの潔癖症を治して、私から触れられて、喜ぶようにしてみせるから。私のために!」
愛莉は真剣な面持ちで宣告する。決してふざけているわけでも、からかっているわけでもないことが、はっきりと伝わってきた。
怒涛の展開についていけず、悠樹は頭を抱えそうになった。
それから数日が経過した。愛莉は予告どおり、悠樹の潔癖症を『治療』するための行動を起こしていた。
具体的には、悠樹に付き纏うようになったのだ。厳密に言うと、人前であからさまにコミュニケーションを取ってくるわけではなく、人目につかない瞬間や場所を狙って、悠樹に『接触』してくるようになった。
『接触』とは比喩でも誇張でもない。文字通り、悠樹の体に触れるアクションを取ってきているのだ。隙があれば、露出している悠樹の手や首筋に触れようとしたり、すれ違う際、わざと手を当ててきたり。まるでセクハラのよう真似を行っていた。
人前でないなら、直接悠樹とコンタクトを取ってきた。友人に話しかけるように、雑談や日常会話を行ってくる。その際も、さりげなく、手にタッチしようとしたり、肩に触れてきたりした。
悠樹は愛莉の行動をすでに読んでいたため、今のところ、それら全てを回避することに成功していた。しかし、その度に、愛莉は不機嫌そうに顔を歪めていた。
彼女が行う『セクハラ』同然の行為も、全て、悠樹の潔癖症に対する『治療』のつもりなのだろう。すなわち、彼女自身の『思想』のためである。
押し付けがましいショック療法であり、悠樹にとって迷惑極まりない行為である。
そろそろ限界が近づいていたため、今度、強く拒否をしようと思う。そうすれば、いい加減あきらめるだろう。
悠樹が計画を立てた頃であった。悠樹の耳にある『情報』が飛び込んできた。
「女子生徒が行方不明?」
三時限目が終わった直後の休み時間。ちょうどエルキュール・ポアロの『五匹の豚』を読み終えた時だ。
近くの席にいた二人の男子の会話が、偶然耳に入ってきた。普段はあまり他人の言葉など気にも留めないのだが、二人の声が大きかったので、思わず耳を傾けてしまった。
「ああ。四組の女子が一昨日から家に帰っていないらしいよ」
「帰ってないって家出かなんかか?」
「それがわからないんだって。家出の可能性もあるし、事件に巻き込まれた可能性もあるんだって」
「連絡はつかないの?」
「つかないから、行方不明なんだよ。捜索願も出されたとか」
読み終えた文庫本を鞄にしまいながら、悠樹はなんとはなしに二人の聞く。
しかし、その後すぐに、二人は別の会話に移った。昨日のテレビ番組がどうとか、他愛もない話題だ。興味がないため、自然に会話を脳がシャットアウトしてしまう。『逆』カクテルパーティ効果というべき現象だ。
鞄から教科書を取り出した時には、すでに二人の雑談は無音も同然だった。だが、なぜか、二人が話していた『行方不明の女子』という言葉が、ずっと悠樹の脳裏に灯火のごとく揺らめいていた。
昼休みに入り、普段通りに一人の昼食済ませた悠樹は、きちんと歯を磨いたあと、図書室へと赴いた。
ハンカチを使い、戸口を開け、中へと入る。すぐに、古びた古紙のような匂いが鼻腔をついた。
昼休みの図書室は、閑散としている。司書の職員がいるだけで、利用者はほとんど見当たらなかった。
悠樹は手に持った文庫本を小脇に抱え、カウンターへと向かう。そこで、暇を持て余していた職員に『五匹の豚』を返却した。そしてその足で、今度は、隅の方に備えられている『洋書』コーナーを目指す。
『洋書』コーナーには、エルキュール・ポアロシリーズの本が全巻揃っていた。悠樹はそこから、何冊かピックアップし、手に持った。
その時だ。横から白い手が伸び、悠樹が取ったばかりの本――アクロイド殺し――を奪い取る。
驚くと同時に、悠樹は相手を睨みつけた。
「悠樹君、こんな本が好きなんだ」
愛莉が、いつの間にか横に立っていた。
「鏡宮さん」
悠樹はうんざりしながら、愛莉の苗字を呼ぶ。
「返してくれよ」
悠樹は愛莉のほうへ手を差し出した。悠樹としては、本を受け取るために手の平を上に向けたのだが、愛莉はそこへ本を乗せず、『お手』のように自身の手を置こうとした。
悠樹はとっさに手を引っ込める。愛莉の手が、空中を空しく掠った。
「もう。いい加減慣れなさい」
愛莉はリスのように、膨れっ面をする。
「どんなにやっても慣れるものじゃないよ」
悠樹はクールに返した。実際、自分の感覚でも、この潔癖症は如何ともしがたいのだ。どんな方法だろうと、解消する気がしない。
「だから、私が協力して『治療』してあげようとしているのに」
「必要ない」
悠樹はぴしゃりと言い放った。それから再び手を差し出し、本を渡すよう催促する。
そこで、悠樹はふとある事実に気がつく。
愛莉は、悠樹が図書室に到着するなり、すぐに姿を現した。つまり、彼女は教室を出た悠樹のあとを、すぐに追ったということだ。つまり、ずっと悠樹の様子を伺っていたことになる。
わざわざ潔癖症を治療する目的で。
それに愛莉は、常日頃から人に囲まれて過ごしていた。この昼休みも、友人やクラスメイトたちと一緒にいたはずだ。なのに、一人で悠樹の元を訪れたということは、その者たちを放置してきたことになるだろう。
愛莉の執念に舌を巻いた。同時に、今朝、耳にしたある会話が、唐突に脳裏へと蘇った。
特に気にする内容ではなかったはずだが、交友関係の広い愛莉を前に、つい質問をしていた。
「鏡宮さん。四組の女子が失踪した話、知ってる?」
『アクロイド殺し』を手にしたまま、膨れっ面をしていた愛莉は、きょとんとした顔になった。
「四組? 女子?」
まさか悠樹から質問をされるとは思っていなかったのだろう、愛莉は一瞬意味を理解できなかったようだ。
「うん。四組の女子が行方不明って話。鏡宮さんなら何か知っているんじゃないかって思って訊いたんだ」
愛莉は、我に返ったような表情になる。それから、手にしていた本を顎に付けると、思案した面持ちをみせた。
どうやら、心当たりがあるようだ。
「聞いたことあるよ。確か楢崎奈保っていう名前の女子だったと思う」
「楢崎奈保……」
交友関係が希薄な悠樹にとって、当然知らない生徒である。
「鏡宮さん、その女子生徒と面識あるの?」
「ううん。ないよ」
愛莉は首を振った。うなじまで伸びているミディアムストレートの髪が、シルクのように揺れる。
「ただ顔くらいは知っているかなってくらい」
その程度の相手なのに、失踪した一件を知っているのなら、結構な数の生徒に広まっているのかもしれない。悠樹が把握したのも、男子生徒たちの雑談からだった。
悠樹の耳に今まで入らなかったのは、悠樹に友人らしい友人がいないせいだ。つくづく、自身の孤独を再認識させられる。
「悠樹君、その子のことが気になるんだ? 私をこんなに拒否しているくせに」
愛莉は恨みがましく上目遣いで、悠樹を睨む。子猫のように丸い目が印象的だ。
悠樹は目を逸らしながら、答える。
「行方不明だと聞いたから気になっただけだよ。別に他意はないさ」
そして悠樹は、愛莉の手から本を奪い返した。早く教室に帰って、読みたい。
悠樹は愛莉から奪還した本を、ハンカチで拭きながら、他の本と一緒に小脇に抱えた。
やはり人が触れた物は、一度拭かないと気が済まない。本を借りる際にカウンターの司書も触れるだろうから、その時も清拭しよう。
悠樹の一連の行動を見ていた愛莉が、不満げに唇を尖らせる。
「やっぱりそれ、めっちゃむかつくんですけど」
愛莉の叱責を無視し、悠樹はその場を離れた。眼前でこれほど拒絶する行為を示せば、さすがに愛莉も嫌気が差してあきらめるだろうと思う。先ほどの行為は、牽制も含めていたのだ。
現に、愛莉は悠樹を追ってはこなかった。槍のような鋭い視線を、背中に感じるのみ。
ようやく、愛莉も身を引いてくれるらしい。結構なことである。潔癖症である自分にとって、悪魔のような相手だからだ。
悠樹はほっとしながら、本をカウンターへと持っていった。
悠樹の目算は、誤りだったとすぐに証明された。
放課後、帰宅しようと教室を出た悠樹の背中に、声が掛かったのだ。
「悠樹君。ちょっといい?」
振り返らなくても、声の主はわかる。昼休みと同様、無視して立ち去ろうと考えたが、あまり冷遇しすぎると、こちらの立場が悪くなる懸念があった。相手は学校一の人気者なのだ。
悠樹はちらりと背後に視線を向けた。愛莉が、笑みを浮かべて背後に立っていた。
「なに? 鏡宮さん」
言いながら、人前で話しかけてくるのは珍しいなとちらりと思う。よほど伝えたいことがあるのかもしれない。
「あの一件のこと、詳しく聞いてきたよ」
「あの一件?」
「うん。楢崎奈保さんについて」
近くを通った他生徒が、悠樹たちを不思議そうに見ていく。悠樹は察した。今、物凄く注目を受けやすい嫌な状況なのだと。
無理はなかった。愛莉と悠樹。本来なら、会話を交わす組み合わせではないのだ。
「その前に、ちょっと場所を移そうか」
裸を見られているような居心地の悪さを感じ、悠樹は提案を行う。俺は目立つことが嫌いだ。
「う、うん」
愛莉はおずおずと頷く。人目よりも、伝えたい気持ちが優先していることが感じ取れた。それほど、楢崎奈保について、重要な情報を得たのだろうか。そして、それは、わざわざ悠樹のために取得してきたことになる。
二人は、先日も訪れた屋上へと続く階段に向かった。以前、愛莉の『思想』を聞いた場所だ。
あの時までは、この学年一の美少女が、異常な価値観を持っているとは思わなかったし、自分に付き纏うようになるとは想像だにしなかった。
やがて辿り着いた踊り場で、悠樹は愛莉と向かい合う。
「それで、楢崎奈保さんがなんだって?」
悠樹が口火を切ると、愛莉は目を輝かせながら、乙女のように胸の前で手を組んだ。
「うん。悠樹君のために、私が色々情報を得てきたんだよ」
愛莉は、私という部分のイントネーションを高くした。
「なんのために?」
悠樹が訊くと、愛莉は頬に人差し指を当て、可憐な仕草で答えた。
「ほら、悠樹君、楢崎奈保さんが失踪した件について知りたがっていたでしょ?」
愛莉は当たり前のように言う。まるで彼氏の食の好みに精通し、作ってきた弁当を披露するかのような風情だ。
確かに、同級生たちの会話を聞いてから、多少引っかかる話題だったが、わざわざ突っ込んでまで調べるほど、興味を惹かれたわけではなかった。
おそらく、愛莉はこちらの気を引きたいがために、過剰に受け取ったのだろう。
「知りたがってはいたけど、別にそこまで興味があるわけではないよ」
悠樹の答えに、愛莉は信じられないという表情をみせた。
「せっかく、私が色んな人から話を聞いてきたのに!」
愛莉は威嚇する猫のように、目を吊り上げた。憤慨しているものの、元の美貌が損なわれない点は、さすが学校のアイドル、と、悠樹は場違いな感想を抱いた。
いずれにしろ、答えは変わらない。
「そう言われても……」
面倒くさいし、別にいいかな。悠樹がそう発言しようとした時、思わず口をつぐんだ。
以前にも危惧したことである。愛莉は春日稜高校の人気者。本人が語ったように、誰もが彼女を慕い、味方となりえる可能性がある。
反面、悠樹は教室のゴミ箱よりも認知度が劣る男子生徒である。
もしもそんな人間がアイドル的存在を蔑ろにし、敵意を買った場合、より面倒な状況に発展しかねなかった。学校中を敵に回す環境は、平穏無事な日々を過ごしたい悠樹にとって、望ましくない状態だ。
ここは大人しく、あまり興味がない話でも、愛莉の好意を受け取っておいたほうが無難だろうと判断する。
「わかったよ。それで、どんな内容?」
悠樹がため息混じりに訊くと、愛莉は顔をぱっと明るくさせた。
「そうこなくちゃ」
愛莉は、お嬢様のように指先を合わせる仕草をし、説明を始める。
「私ね、まず二年四組を尋ねたの」
二年四組は、行方不明になった楢崎奈保のクラスである。つまり、直接愛莉は対象の場所に乗り込んだのだ。
「それで、楢崎さんの友達とか、四組にも私の知り合いがいるから、その子たちから話を聞いたんだ」
愛莉は、学校中から『良い意味』で存在を認識されている。そのため、生徒たちから話を聞き出すことなど、トイレで用を足すよりも容易なのだろう。
愛莉が四組を訪れた際の光景が、幻想のように、悠樹の脳裏に浮かんだ。
学年一の美少女が目の前に現れた四組の生徒たちは、さぞや浮き足立ったことだろう。上目遣いで話を聞きたいと懇願されれば、男女問わず、一も二もなく了承したはずだ。しかも、内容は今一番ホットな話題である行方不明になったクラスメイトのことについて。
おそらく、生徒たちはダボハゼのように食い付いてきたに違いない。つまり、愛莉の元には相当な数の情報が集まったことになる。
無言のまま先を催促する悠樹を前に、愛莉は話を続けた。
「行方不明になったのは、一昨日の夕方。友達と学校を出たあと、通学路で別れてから行方がわからなくなったみたい」
そのあたりの情報は、以前耳にした雑談の内容とさほど変わらなかった。新鮮な情報とは言えないようだ。
「それは知ってる。連絡が付かなくなったんだよね」
情報提供のつもりが肩透かしを食らったため、愛莉は悔しそうな顔になる。
「そ、そうだね。えっと、それから……」
愛莉は、ブレザーのポケットから、小さなメモ帳を取り出した。彼女は律儀にも、集めた情報をメモしていたらしい。
愛莉は、目を通しながら続ける。二重の目が、活字を追って、上下している様が見て取れた。
「楢崎さんは家庭環境も良好だったらしいわ。両親が医者で、門限とか厳しかったみたいだけど、家出する理由は見当たらないわね」
つまり、行方がわからなくなっている理由は、家出以外の『何か』ということなのだろうか。
とはいえ、思春期の少年少女など、いつ何時、どんな家庭環境だろうと家出しても不思議ではなかったが。
興味のない案件だったが、すぐに会話を打ち切るわけにもいかず、悠樹はとりあえず質問をしてみる。
「……友達との仲は?」
「それも問題ないみたい。特に仲が悪い生徒はいなかったようだし、嫌われていることもなかったみたい」
楢崎奈保は、およその人間関係において、他者と軋轢を生むような問題ある性格ではなかったらしい。
一事が万事、という慣用句が示すとおり、良好な人間関係を構築できる者は、通常の私生活でも、瑕疵がある行動を取らないのが常である。楢崎奈保は品行方正な女子生徒だと思われた。
悠樹がそう推察した直後、愛莉が再び口を開く。
「ただ……」
愛莉はどこか神妙だった。
「どうした?」
少し気になった悠樹は訊く。
「家族とか友人は問題ないんだけど」
愛莉は歯切れが悪かった。しかし、何かしら問題点があったようだ。
悠樹が無言で顔を見つめていると、愛莉は悠樹が催促していると思ったらしく、頷いて先を話し始める。
「楢崎さんには付き合っている彼氏がいて、その人がちょっとだけ問題がある人だって噂を聞いたんだ」
「彼氏?」
悠樹は虚を突かれた思いがした。考えれば、思春期の女子高生なのだ。彼氏がいてもおかしい話ではない。悠樹の人間関係が希薄だったため、恋人の有無を考慮に入れるメソッドに至らなかったのだ。
つまり、楢崎奈保の『家出』には人間関係の中でもより複雑化しそうな、『恋愛関係』の問題が背景にある可能性が示唆されたということである。
「その彼氏ってこの学校の人?」
愛莉は頷いた。
「一つ上の三年生らしいよ」
「そっちには話を聞かなかったの?」
「うん。三年生の教室には行きづらくて。悠樹君が一緒なら大丈夫だけど」
なぜ大丈夫なのかわからないが、愛莉はこちらと行動を共にしたい意図があるらしい。
悠樹は顎に手を当て、考える。
もしも、人間関係が原因の失踪なら、その男が最右翼になりそうだが、そう単純な話だろうか。推理小説ならば、速攻で没を食らう展開である。『エルキュール・ポアロ』においては、むしろそこからが複雑な推理の幕開けなのだ。
様子を伺うような愛莉の視線を感じる。自分の情報が、悠樹にとって有益になったのかどうか不安なのだろう。元々、こちらの気を引くために集めたものだからだ。
悠樹は思案する。大して興味がなかった一件だが、頭の隅にある自身の『灰白質細胞』が活動を始めた感覚がした。
あとちょっとだけ、踏み込んでもいいかもしれない。そう思った。
「わかった。その人に話を聞きに行きたいから、鏡宮さん、協力してくれる?」
悠樹が助力を請うと、愛莉は顔をほころばせた。
「もちろん!」
愛莉は元気に頷いた。
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