1人が本棚に入れています
本棚に追加
女子高生失踪事件その3
「おいおい。こんな所に呼び出して、一体何のつもりだ?」
放課後、二年二組の教室に集められた者の中から、的野が不愉快そうに怒鳴った。
彼は、悠樹が愛莉に頼んで連れてきて貰った『五匹の豚』の内の一人だった。愛莉からの誘いだからと、一も二もなく快諾したら、自分以外の生徒も呼び出されていた、とあっては、怒るのも無理はないだろう。
それは、他の者も同様だった。遠坂喜一郎とその友達である高城昴ともう一人の男子生徒も、不安そうな面持ちで、教卓の近くに陣取っている。
極め付けは、穂高亜美だ。小柄で三つ編み姿の彼女は、状況が上手く飲み込めず、困惑している様が、はっきりと見て取れた。
「どうして私が呼ばれるの?」
風紀委員である彼女は、生意気そうに吊り上った目を、さらに鋭くさせ、小さく呟いている。
よくわからないまま集められた五人の生徒たち。女子高生失踪事件のパズルのピースとなる『五匹の豚』だった。
教室内には、五人の他に、悠樹と愛莉のみしかいない。放課後、人がはけるのを待って、呼び寄せたためだ、クラスメイトたちは下校したか部活動中だろう。
この『五匹の豚』たちも帰宅ないしは、部活などの用事があったはずだ。意味不明な理由の召集を受けることなど、本来応じるものではなかっただろう。だが、そこは学年一の美少女の依頼。美人局に引っかかるようにして、招き寄せられたのだ。女子である穂高も例外ではなく、愛莉の素性を信頼して、やってきたものと思われた。
なのに、呼び出し先で待っていたのは、どこの馬の骨かわからない、地味で大人しそうな男子生徒。怪訝に思うなと言うほうが無理がある状況である。
「一体、あんた誰なのよ?」
穂高は悠樹を睨みつける。悠樹がこの『集会』を開催した主だということを悟っているらしく、憎悪が向けられていた。
穂高亜美は風紀委員だと聞いていたが、こうも険がある人物だと、委員活動に支障が出るのではと訝ってしまう。それとも、強面刑事のように、多少は凶暴なほうが、風紀を治めるのに好都合なのか。
いずれにしろ、まずは彼女から話を訊く必要がある。今集まっている全員の前でだ。
「穂高亜美さん。最初にあなたに質問があります」
悠樹がそう言うと、穂高は眉間に皺を寄せた。
「はあ? 話?」
悠樹は頷く。
「はい。あなたは少し前、楢崎奈保さんとトラブルがありましたよね。その時の話を聞かせてもらえませんか?」
「なんでそんな……」
声を荒げようとしたのだろう、穂高は口を開くが、教室の中にいる全員が注目していることに気が付き、口を噤んだ。さすがに、複数人が見守る中、怒鳴り散らすほどの勇気は持ち合わせていないらしい。
穂高は、もじもじとスカートの端をいじると、答えてくれる。
「トラブルっていうか、ちょっと注意しただけよ」
「どんな内容で注意を?」
穂高は、気を伺うように的野のほうをちらりと見たあと、教えてくれる。
「勉強に関係ない物を持ってきてたから」
「勉強に関係ない物?」
悠樹ではなく、悠樹の隣で話を訊いていた愛莉が、首を傾げながら質問した。
「ええ。偶然、廊下で目撃したの。正確な中身はわからないけど、多分、ゲーム用のカードだと思うわ。それを別の生徒から受け取ってたの。それで、教室に戻ったところで、注意をしたってわけ」
「ゲーム用のカードってどんなもの?」
愛莉は訊いた。
「トランプかUNOみたいな外観の小さな箱だったわ」
「誰から受け取っていたの?」
穂高は、気まずそうに的野を見る。穂高の話を全て聞いていた的野は、目を逸らした。
「えっと、そこにいる男の人」
穂高から指を差された的野は、火が点いたように怒鳴った。
「知らねーよ!」
的野の口から、唾が放物線を描いて飛んだのを悠樹は見る。的野の顔は、怒りで赤くなっていた。
明らかに過剰な反応を的野は示した。これでは、何かあると告白しているも同然だ。
あまりの変貌振りに、穂高と愛莉は目を丸くしている。
「人違いだ。そんなもん!」
「でも……」
穂高は怯みつつも、反論しようとする。それを、的野は被せるようにして制した。
「つうか、なんなんだよ? わざわざ呼び出して、何のつもりだお前」
的野は、矛先を変えた。恨みがこもった目を悠樹に向けてくる。よほど、触れられたくない部分らしい。
的野のこの反応も、全て予想済みだ。あとは、皆の前で、推理を披露するだけ。
しかし、皆の視線が自身に集まっている現状、どうしても緊張してしまう。人前での発表はとても苦手なのだ。ただでさえ、友達がおらず、会話も上手くできないのに。
悠樹が、二の足を踏んでいると、隣から視線を感じた。顔を上げ、向けてみる。愛莉が、気を遣うような眼差しをこちらに注いでいた。
瞳の奥に、励ましの感情が込められていることに気がつく。悠樹の感情を察し、応援しているのだろう。
悠樹は、愛莉に対し、頷く。それから、覚悟を決め、小さく息を吸った。準備は万端。あとは流れに任せればいい。
悠樹は、発言する。
「今日、皆さんに集まってもらったのは、ある事件の解決のためです」
悠樹の静かな声が、教室に響き渡る。語尾が若干震えているのは、やはり緊張のためだ。
「ある事件?」
的野と穂高が同時に、怪訝な表情をみせる。しかし遠坂は真顔だ。おそらく、召集の理由をある程度推察していたのだろう。
「はい。楢崎奈保さんが失踪した事件について」
「ちょっと待って。楢崎さんがいなくなったのって、事件なの? 家出とかじゃなくて。そもそも、なんであなたが関ってくるのよ」
今回の『捜査』において、新参者である穂高は、まだ完全に状況を理解できていないらしく、困惑気味だ。
「俺は鏡宮さんの頼みで捜査をしていたんです。それで、今現在、楢崎さんが一体どこにいるのか、判明したんです」
その場にいた全員が、驚いた反応をみせた。それは愛莉も同様だった。彼女にも、悠樹が事件の真相を解明した事実を話していなかった。
「それ本当? 楢崎さんどこにいるの?」
愛莉が目を丸くしたまま、間抜けな感じで訊いてくる。
悠樹は愛莉の質問に答えず、的野のほうへ視線を向けた。
「的野さん。ちょっと確認してもらいたい物があるんです」
「はあ? 何なんだよ。そんなことより、早く楢崎の居場所を教えろよ」
的野は、短髪の髪をがりがりと掻くと、不快そうに唇を歪めた。それから、自身の左腕を擦る。どこか落ち着かない様子だ。
「それを伝える前に、必要な確認があるんです」
悠樹がそう言うと、的野は渋々といった感じで、納得したように腕を組んだ。先を話せ、という意思表示なのだろう。彼がこうしてある程度素直に従っているのも、最初に召集を頼んだのが愛莉だからに違いない。もしも、悠樹単独なら、彼はとっくに帰っているはずだ。
悠樹は、自身の制服の内ポケットから、ある物を取り出した。それは小さなパケ袋だった。中には、小さな白いチョークのような細長い物体が入っている。
「的野さん。これに見覚えは?」
悠樹がパケ袋を掲げて見せる。的野は目を凝らし、確認を行う動作を取った。眉間に皺が寄っているので、ただでさえ人相の悪い彼の顔が、さらに悪相になる。
やがて、的野ははっとした表情を浮かべた。
悠樹は頷いた。
「そうです。これは吸い終わったタバコのフィルターです」
その場にいた的野を除く全員が、それがどうしたと言わんばかりに、不思議そうな面持ちになる。
「それがどうしたの? ただの吸殻じゃん」
穂高が代表して発言した。
「ただの吸殻ではないんです」
悠樹は、パケ袋を小さく振った。
「どういうこと?」
「このフィルターは、実習棟の三階で見つけました。男子トイレの最奥の個室です」
「それが?」
「持ち主もわかっています。ちょっと前から、学校側の注意喚起で、タバコを吸っている生徒がいると指摘されていましたよね? その犯人が彼です」
悠樹が、的野を見ると、的野は面倒臭そうに視線を逸らした。
「そうなの? でも、それが楢崎さん失踪と何の繋がりがあるの?」
風紀委員の穂高が、当然の疑問をぶつける。彼女にとっては、風紀を乱す不倶戴天の敵を発見できたも同然だが、今の状況では、雲を掴むような話に聞こえるだろう。
風が吹けば、桶屋が儲かる。タバコのフィルターと楢崎奈保失踪の件は、そのような繋がりに感じるはずだ。
「大事なところは、これがただのタバコではないということです」
黙って聞いていた愛莉が、口を挟む。
「さっきも言ってたよね。それに、私と一緒に発見した時も教えてくれなかったけど、一体、それはなんなの?」
悠樹は、愛莉を一瞥したのち、的野に視線を注いだ。的野は、挑戦を受け入れる格闘家のように、正面からこちらを見据える。
悠樹は言った。
「これは大麻のタバコです。フィルターにメーカーのロゴやマークが印されていないのは、手巻きタバコで自作したためです」
悠樹ははっきりと断言した。
一瞬だけ、教室に嫌な沈黙が流れる。冗談のような雰囲気と、いまだに意味が飲み込めない気配が混在し、渾身のジョークを滑らせたような冷たい空気に包まれた。
口火を切ったのは、遠坂の友人である高城だった。
「……大麻? なんだそれ」
「違法薬物です。正確には、違法の植物を乾燥させた麻薬です」
「いや、それは知っているけど、なんでそんなものがこの高校にあるんだよ」
悠樹は、再び的野に目を向けた。
「彼が吸っていたんですよ」
悠樹が説明すると、高城は眉根を寄せた。
「それって犯罪だよな?」
「もちろん」
高城は、ようやく事態の深刻さを察したのか、汚物を見るような眼差しを的野へ注ぐ。
的野は、自身に集中した視線を振り払うようにして、体を揺らした。
「だから、俺は何も知らねえって言ってんだろ。殺すぞお前」
的野は野生動物のように吠える。強く動揺している様が伝わってきた。
「このフィルターを警察へ渡せば、きっとあなたの唾液が検出されるでしょうから、証拠になりますよ」
悠樹がそう発言した途端、的野はこちらに詰め寄ってきた。威圧するような形相。おそらく、暴力に訴えて、こちらの言論を封殺する考えなのだろう。
しかし、それも予想済みだ。保険のために『五匹の豚』を揃えたのだから。
まずは、ボディガードのように、愛莉が悠樹の眼前に立ちふさがる。的野の行動を察し、庇う姿勢を取ったのだろう。
「待ってください。話を聞いて」
的野が愛莉を押しのけて、こちらへ向かおうとする。悠樹は少しだけ恐怖を感じた。しかし、それは暴力による恐怖ではない。
もしも彼が、悠樹に接近した場合、殴るか胸倉を掴んでくるはずだ。つまり、他人から触られてしまうということ。それが、何よりもいやだった。暴力ではなく、不潔に対する忌避。潔癖症がゆえの恐怖だった。
愛莉の横を的野が通過した時、高城ともう一人の遠坂の友人が押し留めた。
「待てって。落ち着けよ」
的野はなおも止まろうとはせず、歩き出そうとする。だが、二人から行く手を阻まれていては、さすがに身動きが取れないらしかった。
二人は、悠樹の身を案じて的野を止めたというより、愛莉に良いところをみせようとして、アクションを起こした節がある。やはり愛莉の魅力は男を奮い立たせるのだ。
高城が的野を押し留めたまま、こちらに目配せしてくる。
「で、それと楢崎さんが行方不明になった件について、なんの関係があるんだ? ここまで言い切った以上、冗談では済まされないぞ」
高城の警句に、悠樹は首肯した。何の問題もない。必ず解決できる自信があった。
「的野さんが犯人なの?」
愛莉が訊く。悠樹は首を振った。
「いや違う」
「じゃあ、誰が?」
穂高が首を捻りながら質問する。
「順を追って説明します」
悠樹は、手に持ったタバコのフィルターをひらひらと振った。
「こういった大麻はなどの麻薬は、いわゆるゲートウェイドラッグと呼ばれています」
大麻は、他の違法薬物と比べると犯罪としての罪が軽い傾向にある。それは、依存性や体への悪影響を勘案したものであるからだ。しかし、大麻は依存性が軽いがゆえ、他のより依存性の高い薬物へシフトする『入口』になる恐れがある麻薬だった。
「大麻をきっかけに、覚醒剤に手を出す者がいるということです」
悠樹は、的野を見つめながら言う。
「そして、その覚醒剤使用者は、一人の少女へ覚醒剤の受け渡しを行うようにもなりました」
妙だと思っていた。タイプがまるで違う楢崎奈保と的野真治の繋がり。点と線を繋ぐポイントが、そこにあったのだ。
きっかけはわからない。しかし、楢崎奈保は、ある時を境に覚醒剤に手を出し始めたのだ。
その覚醒剤を提供していたのが、的野だった。彼も覚醒剤のヘビーユーザーだった。おそらく、売人側がちょうど同じ学校に通っていた的野を仲介役として、紹介したのだろう。
穂高が目撃したのは、カードゲームではなく、覚醒剤の受け渡しの瞬間だったのだ。
「つまり、的野君は大麻だけじゃなく、覚醒剤も使ってるってこと?」
愛莉は、軽蔑するように的野を見る。
「そうだよ。覚醒剤常習犯なのさ彼は」
「何を根拠に言ってるの?」
「彼の挙動だよ。左腕をしきりに擦っていただろ。多分、注射器のあとがあるはずだ」
実際は、大麻のタバコも含め、ただの憶測に過ぎなかったが、的野の反応を見て、核心に変わった。
カマをかけ、彼のリアクションを引き出すことが、この会の目的だった。
「なんにせよ、彼の尿を検査すれば証拠は出るだろうね」
的野は、こちらを睨んだ。射殺すような圧力だ。
愛莉が訊く。
「そのせいで、的野君は楢崎さんをどうにかしちゃったってこと?」
悠樹はパケ袋をポケットにしまいながら、首を振った。
「言ったろ? 楢崎さんが行方不明になった件ついては、彼は関知していない」
悠樹は、なおも二人から進路を塞がれている的野を顎でしゃくった。的野はずっとこちらを睨みつけているが、強引に突破しようとはしなかった。暴れても逆効果だと悟ったのだろう。
「じゃあ誰の仕業なの?」
話を聞いていた穂高が、疑問を投げかける。
悠樹はある人物に、視線を向けた。その人物は、目を逸らす。
「あなたが楢崎奈保さんを誘拐して、今現在も監禁しているんですね」
悠樹はそう告げた。
告げられたのは遠坂喜一郎だった。遠坂は、悠樹に視線を戻すと、肩をすくめる。
「僕に言ってるのか? 何の話だ? そんなの言い掛かりだよ」
遠坂は、にべもなく突っぱねる。当たり前だが、すんなりと認めようとはしなかった。
「証拠でもあるのか?」
遠坂は、後ろにある椅子に座ると、身をのけぞるようにして訊いてくる。余裕綽々の風情だが、大きな態度を取ることにより、心の中の動揺を悟られないようにする心理が働いているのかもしれない。
そう思わせるものが、遠坂から感じ取れた。
「証拠ならありますよ」
悠樹は、ポケットからメモ帳を取り出した。愛莉が使っていたメモ帳だ。中身は綺麗な字で、几帳面に文字が書き綴られている。
「遠坂さん、あなたは楢崎さんが行方不明になった時、最後に会っていますよね? 一緒に下校したとか」
「……ああ、そうだけど、それがどうした? まさかそれだけで、誘拐犯扱いしてるんじゃないだろうな? 僕はちゃんと彼女とは通学路途中で別れたぞ」
遠坂は自身ありげに言う。愛莉のメモ帳にも、そう書かれてある。このメモは、当初愛愛莉が楢崎奈保のクラスメイトたちに聞き取り調査を行った際に、書かれたものだ。
「その際の目撃証言がありません」
おそらく、流布されている楢崎の帰宅の際の証言は、遠坂本人からもたらされたものだろう。
「知らないよ。そんなのいちいちチェックする奴いないだろ。疑うならそこにいる的野とかいう奴じゃないか? 薬物やってたんだろ」
「先ほども言いましたが、彼は犯人ではありません」
悠樹は質問を重ねる。
「失礼ですが、遠坂さん。両親はカメラマンですよね? 今どちらに?」
「……海外に取材に行ってるよ」
「二人とも?」
「ああ」
少しずつ、確信に近づいていっていることを悟り始めたのか、遠坂の声が次第に上擦りだした。他の者は何のことかわからず、きょとんとしている。
「もう一つ質問ですが、現像室はどちらにありますか?」
悠樹がそこまで言った時だ。遠坂はおもむろに椅子から立ち上がった。そして、吐き捨てるように言う。
「馬鹿馬鹿しい。付き合っていられない。僕は帰らせてもらう」
それから教室を出て行ってしまう。誰も止めようとはしなかった。目の前の展開に付いていけないのだ。
教室に残された者の間に、嫌な空気が流れた。茶番劇に参加したような滑稽さを感じているようだ。
「悠樹君、どうするの?」
愛莉が、おずおずと尋ねる。悠樹は口を開いた。
「今すぐ彼を追おう。多分、自宅に向かったんだと思う。もうすぐ事件は解決だよ」
それから、ポカンとしている天城らに対し、遠坂の自宅がある場所を訊く。どうやら、横須賀市内らしい。
訊いたあとで、悠樹は二人に指示を出す。
「的野浩二のことは頼みます」
そして、穂高に伝える。
「君は楠先生に、このことを伝えて。警察を呼ぶようにと」
穂高は、戸惑いながらも頷く。
悠樹は愛莉に言った。
「それじゃあ、追いかけよう」
愛莉を促した。
通学路を小走りで家へと向かいながら、遠坂は強い動揺を覚えていた。
なんなんだあいつは。
見慣れた風景の中、遠坂は心の中で毒づく。
どこの誰かもわからない男。ぱっとしない風貌に、どんよりとした雰囲気を纏っていた。
おそらく、一切目立たない、影のような男子生徒なのだろう。にもかかわらず、なぜか、学年一の美少女と共に行動し、まるで助手のように扱っていた。
ひどく不気味な男だ。だがしかし、肝心なのは、その男が確信をもって、こちらの『犯行』を言い当てた点だ。見てきたかのように、ピンポイントで推理してみせた。
一体、何がなんだかわからない。エルキュール・ポアロみたいな探偵を相手にしている気分になるが、楽観視などできない。とてもまずい状況に陥ってるのは事実である。
対処しなければならなかった。現在、家に監禁している彼女を『保護』しなければ、自分も彼女も破滅してしまうだろう。せっかく、危険を犯して犯行を成功させたのに。
とにかく、もっと安全な場所に移すのだ。
遠坂は、吉倉にある自宅へと帰宅した。フォトスタジオも兼ねている住宅だ。地下一階に、二階建ての構造。現在は両親は出張で家におらず、一人息子の自分は、留守番の身だ。
遠坂は鍵を使い、玄関の扉を開ける。それから、現像室がある地下へと直行した。
地下の階段を下りると、現像室の前に立つ。眼前には、視聴覚室に設置されているような分厚いドアがあった。防音性と遮光性と兼ねたスチールドアだ。
遠坂は、スチールドアのレバーを捻り、奥へ押し開ける。
中は、コンクリート造りの殺風景な空間が広がっていた。ここが地下で、暗室であるため、明かり取りの窓など設置されておらず、圧迫感を感じる場所だ。
間取りは現像室にしてはやや広く、中央付近には、理科室の長机のような作業台が拵えてあった。その上には、引き伸ばし機や現像液などを入れるトレイが置かれてある。
部屋の壁際には、水場や乾燥ラックが設置されてあった。
子供の頃からの馴染み深い場所だ。幼い頃、無断で侵入し、怒られた記憶が蘇る。
現在、その慣れ親しんだ地下室が、少しばかり変化をみせていた。
奥のほうにちょとしたスペースがあり、通常は、現像液や定着液などのビンを入れたダンボールが積まれてある。だが、今はそのダンボール類は片付けられていた。
代わりに、床には、毛布や、飲料水のペットボトル、お菓子の袋などが散乱していた。
荒れた床の上に、一つの人影があった。トレーナーにジーパンというラフな姿。毛布の上に寝転んでいるため、眠っている犬のようにも見える。
人影の足首には、足枷が嵌められており、足枷から伸びた鎖は、壁から剥き出しになった配管へと繋がっていた。ダンボール類を片付けたことにより、露出した壁面だった。灰色の壁の一部分が、茶色く色褪せている。
遠坂は人影に近づいた。扉の開閉音で入室を察知しているはずだが、人影は毛布に寝転んだまま、顔を上げようとはしなかった。それもそのはず。彼女は今、とても苦しんでいるのだ。『怪物』と戦っているから。
毛布の上で、苦しそうに喘いでいる彼女に声をかけた。
「奈保、大丈夫?」
そこでようやく奈保は、顔を上げた。
落ち窪んだ目。ゾンビのように青白い顔色。やつれた頬。ひどい状態なのが一目でわかる。
奈保は遠坂の言葉に返答することなく、再び体を横たえた。動くことすら億劫なのだろう。
しかし、現在はそんな悠長な配慮をしている場合ではなかった。すぐにでも『邪魔者』がこの家に駆けつけてくる恐れがあるのだ。
一刻も早く逃げなければ。
遠坂は、奈保の手首に手錠をかけながら、今のこの状況に陥った経緯を思い出していた。
多分、ずっと前から好きだったと思う。幼馴染の縁だとか、友達だとか関係なく、純粋な恋する気持ちが芽生えていたと思った。
だが、遠坂は彼女に――奈保に――想いを告げられないでいた。元々、内気な性格であり、また、相手とは子供の時から家族のような間柄なのだ。告白することに対し、二の足を踏んでいた。
しかし、それでも良かった。幼馴染として、常日頃から接しているだけで、遠坂は満足だったのだ。彼女の笑顔をそばを見ていられるのなら、他には望まない。
遠坂はそう思っていた。
奈保の様子がおかしいと気がついたのは、少し前だった。新学年が始まり、クラスにも馴染み始めた頃。
一週間ぶりに会った奈保が、どこか痩せているように見えたのだ。正確には、『痩せている』は適切な表現ではなかった。『やつれている』が正しいかもしれない。
はじめは、クラスに馴染めていないせいなかと思った。だが、様子を見るに、どうも違うらしい。そもそも、奈保は人当たりが良く、他者から避けられるような人間ではない。俗に言う、いじめだとか、ハブられるだとかの不埒な扱いとは無縁の女の子なのだ。
では、原因はなんだろう。気になった遠坂は尋ねるが、適当にはぐらかされるだけだった。
変化自体は微小であるため、もしかすると自身の勘違いかもしれない、と遠坂は思うようにした。
それから一ヶ月ほどが経ち、夏の気配が感じ取れるようになってきた頃。
明確に、奈保の姿が変わってきていた。厳密にいうと、ちょっとした違いではあった。一緒に暮らしている家族には気付かれず、かと言って、友達では遠くてわからない、幼馴染だからこそ気付ける変化。
性格そのものは普段と変わっていない。だが、やつれ方と、時折みせる妙な仕草――落ち着きのなさや、汗のかきやすさ――が遠坂の目には、とても不自然に映った。
訝しがる遠坂。彼女に何かが起きている。しかも、とても悪いことが。
そう思った。
やがて、遠坂は奈保の周辺を調べ始める。
そして、見つかる疑惑の数々。
逢坂は知ってしまったのだ。奈保が『とんでもない所業』に手を染めていることを。
奈保は、覚醒剤を常用するようになっていたのだ。
思い悩む逢坂。警察に相談するべきか? いや、そうなったら彼女は逮捕されてしまうだろう。マスコミも嗅ぎつけ、奈保の人生は終わりも迎えてしまう。教師に相談しても同じだ。
ならば、親か? 双方か、あるいは、どちらかの。駄目だ。逢坂は首を振る。一般家庭の親では、到底解決できるものではないはずだ。薬物中毒の娘など。
逢坂が次第に思い詰めていく。そして、閃く妙案。コペルニクス的回転。
逢坂は、奈保を手元で守ることにしたのだ。自分の手で、彼女を救ってみせる。
逢坂は計画を練った。幸い、自身には『それ』が可能な環境が整っている。決行は、両親が長期出張する次の週。
準備を行い、迎える計画の日。
逢坂は、放課後、奈保を通学路で待ち伏せし、自宅へと誘う。奈保は幾度も自分の家に来たことがあるので、少しも疑う仕草はみせなかった。
そして、地下室へと赴き、力ずくで奈保を拘束、監禁を実行したのだ。
これが全ての始まりだった。
最初のコメントを投稿しよう!