2人が本棚に入れています
本棚に追加
「月が綺麗ですね」と、素敵な王子様に言われるのが夢だった。四国の小さな町で育った私の青春は本とともにあった。2歳で平仮名を覚えて童話を読み漁った。
一番好きな物語はアンデルセンの『人魚姫』で、次に夢中になったのはメーテルリンクの『青い鳥』だった。10歳の誕生日プレゼントには夏目漱石全集を両親にねだった。
夢見る私は物語に出てくるような素敵な王子様を探していた。私と同じくらいに文学が好きな人。ストレートな言葉でなくて、昔ながらの奥ゆかしい愛情表現をしてくれる人。単純な言葉だけのやりとりでは、もしも悪い魔女に声を奪われてしまったら、その恋はきっと悲しい結末を迎えてしまうから。だから、もっと魂の奥底でつながるような恋がしたかった。
理想の王子様は、「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した夏目漱石のような人。その人のためなら死んでもいいと思えるような王子様と結ばれたかった。
かの有名な二葉亭四迷は「I love you」を「あたし、死んでもいいわ」と訳したらしい。満月の海辺で素敵な王子様に愛をささやかれたら、私はそう返事する。そんな未来にあこがれていた。
でも、もう叶わない。社会人になって最初の夏、私は事故で失明した。極悪な魔女は私に何も与えることなく、私から文字を奪った。
「ねえ、ミズキ。ハヤトくんからお見舞いが届いてるの」
絶望に暮れる入院生活の中、母に伝えられた。ハヤトは幼馴染だ。幼稚園に入る前から大学までずっと一緒だったけれど、上京して大手商社に勤めている。花形部署に入って、一年目からさっそく海外出張に行っていると、つい最近ハヤトのお母さんが自慢していた。
家が近所で両親が親友同士でなかったら、きっと交わることの無かった人生。ハヤトは休み時間は校庭でサッカーやドッジボールをしているタイプの人間で、きっと学生時代に図書室に入ったことなんてない。漫画ですらほとんど読んだことがないハヤトと私がどうして社会人になった今も親交があるのか不思議でならない。
ハヤトが私の趣味やささやかな夢を否定しなかったからというのは大きいと思う。漱石と鴎外の区別もきっとついていないだろうけれど、私が本を読んでいると「面白そう」と言ってくれた。
だから、何度か本を貸したこともある。ただ、やっぱり活字は苦手みたいで「さんずいに目でなんて読むの?」とか「白砂青松ってどういう意味?」とか質問を繰り返された後、結局登場人物の名前が覚えられなくて挫折していた。
母からずっしりと重量のあるものを受け取る。分厚くて大きな本だった。こんなものもらったって意味がない。どうせ読めないのだから。もう自分の目で活字を追うことはできないのだという焦燥に襲われた。
「いらない! 返しといてよ!」
本を突き返す。母が何か言おうとしていたけれど、聞く気にはなれず病室から追い出した。誰にも会いたくなかった。家族にも、もちろんハヤトにも。
ハヤトが悪いんだ。目の見えなくなった私に本なんて送りつけてくるから。これだから、ガサツで無神経な男の人は嫌になる。心の全部がぐちゃぐちゃになって、ただただ泣いた。
やがて西日が病室の窓から差し込んでくる熱を感じた。たぶん夕方になったのだろう。こうして夜が来て、朝が来て、を何度繰り返しても私の目に光が戻ることはない。すべてが嫌になった。もう全部どうでもよくなった。
それは突発的な衝動だった。ここではないどこかに逃げ出したかった。現実からは逃げられないのに。スマートフォンの音声認識操作を駆使して、タクシーを呼んだ。ようやく少しは慣れ始めた白杖を使って、病院の表通りまで何とかたどり着き、タクシーに乗り込む。
「桂浜まで」
誰もが知る月の名所。でも、今日の月がどんな形をしているか私はもう見ることはできない。
「つきましたよ」
しばらく車に揺られて、目的地にたどりつく。ドアを開ければ潮風の香りがした。少し肌寒い、もう夜なのかもしれない。
自宅から電車で四駅、通っていた高校から徒歩十分のこの場所には昔からよく来ていた。それなのに、ここがまるで知らない場所のように感じる。
白杖を頼りにおぼつかない足取りで波打ち際まで行き、何をするでもなくしゃがんでぼーっとしていた。
死のうと思った。海の藻屑になろうと思った。なのに、足がすくんで結局死ねなかった。この先の人生に希望なんて残されていないのに、それでも死ぬのはとてつもなく恐ろしかった。死に損なった私は、座り込んだまま空っぽの人生に執着していた。
「ミズキ」
突然後ろから声をかけられた。聞き間違えるはずがない。この声は……。
「ハヤト……なんでいるの?」
誰にも言わずにここに来た。ハヤトに私の行き先がわかるはずがないのに。そもそも、ハヤトは今アメリカに出張しているはずなのに。
「うーん、なんとなく? ミズキはここに来てるんじゃないかなーって。それで出張切り上げて日本帰ってきた。なんつーか、野性の勘?」
おどけた口調でハヤトが答える。昔からハヤトはいつもヘラヘラしていた。
「てかさー、入院長かったんなら体なまってない? 運動しようぜ、運動。っていっても、いきなり走るのも危ないからまずはウォーキングから」
いきなり腕を掴まれ、立つように促される。これだからスポーツ至上主義者は困る。強引さにあきれながらも、手を引かれて砂浜を歩く。
「夜の散歩ってのも粋なもんだな。今日、満月なんだよ」
無神経。思えばハヤトは昔からずっと無神経だった。
高校生の時、文芸部の部誌に出す小説のストーリーが思い浮かばないとき、私はいつもここに来ていた。
ハヤトはよそでやればいいのにいつもここで走り込みをしていた。私の目の前や後ろを何度も走りぬけられたら、集中力も何もあったものではなかった。おまけに、わざわざ近くで筋トレをしながら話しかけてきた。
「締め切り近いの? やばいじゃん」
私が返事をしようがしまいが、ずっとしゃべっていた。夜までずっとそんな調子だから、全然捗らなかった。
あの頃と同じように、私の気持ちなんてお構いなしにハヤトは軽い口調で続ける。
「そういえばさ、本届いた? もう読んだ?」
その瞬間、私の中で何かが切れた。
「いい加減にしてよ! 何がしたいの? 私には何も見えないの。月も、文字も、全部。もうやめてよ! 全部おしまいなの!」
私はハヤトの手を振り払う。そのままどこかに走って逃げようとしたが、すぐに腕を掴まれてしまう。
「いきなり走るなって。危ないから」
「離してよ! ハヤトなんて大嫌い!」
「気に入らなかったなら謝るから、暴れるのやめろって。悪かったよ。たださ、点字の本って普通の本より種類少なくてさ、ミズキがどんな本が好きかもわかんなくて。次はちゃんとミズキの好みに合わせて買ってくるから、許してな」
点字の本と聞いて、私は固まる。そういえば、母に手渡されたあの本は随分と分厚く大判で、表面に何かぶつぶつした感触があったような気がする。
私がおとなしくなると、ハヤトはまた私の手をひいて少しだけ歩いた。立ち止まると、ハヤトが私の手を木の幹に触れさせる。この感触はきっと松の木だ。
「世界は終わらないんだよ。たとえ見えなくたって、こうやって触れるんだよ。物語にも、白砂青松にも」
でも、そんなことを言われたって私には松も月の光も見えない。点字だって覚えていないから本だって読めない。
「でも、見えないの! みんなと同じものが見えないの!」
たとえ月が綺麗だと言われたって、私にはその月を見ることはできない。私に好きな人ができたって、同じ月を見ることは永遠にできないんだ。
ハヤトが深呼吸する音が聞こえる。人の息遣いに少しだけ敏感になった。
「夕月夜 さすや岡部の 松の葉の いつともわかぬ 恋もするかな」
緊張したような声でハヤトが言った。古今和歌集の有名な和歌。詠み人は猿丸太夫。夕方の月が松の葉を照らしている様子をいつもと変わらない恋をしている自分のようだとたとえた和歌。
千年もの時を超えて残り続けた歌は私の心にしみた。文学と無縁のハヤトが私を慰めるためにわざわざ調べて覚えてきてくれた。私のために点字の本を買ってくれて……。
なのに、私はハヤトに八つ当たりをした。ハヤトに当たったところで目が見えるようになるわけでもないのに。それでも、ハヤトは私に怒ることなくいつもと変わらず笑ってくれる。
「ごめんなさい……」
私は子供のように泣きじゃくった。
「えっ、泣くほど嫌だった?」
焦った声でハヤトが言う。
「八つ当たりしてごめんなさい……」
「あー、びっくりした。謝んなよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「いいって。謝られる方が傷つくっての」
「えっ、ごめん」
私の謝罪をさえぎるようにハヤトが私の唇に人差し指を押し当てる。
「ストップ、これ以上謝るの禁止。ちょっと静かにして、耳すましてみ」
ハヤトに言われた通り、黙って耳を澄ませる。波の音が聞こえた。
「波ってさ、月の引力で高さが変わるんだよ。今、聞こえてるのは満月の音」
波の音に身をゆだねる。それは今まで聞いた中で、一番心地いい音だった。もう見えなくなった瞼の裏に、大きな月が映ったような気がした。
「波の音が綺麗ですね」
ハヤトが私の手を握った。
月が好きだった。遠い日の夜を思い出す。
――締め切りがやばいって焦ってんのって、プロみたいだな。やばいじゃん。何かかっこいいな。
――なにそれ、どういうイメージよ。
――だって、漫画のあとがきとかでみんな締め切りの話してんじゃん。小説もそうなのかなって。ミズキもプロの仲間入りだな!
満月の夜、ふたりで歩いた帰り道。本当は分かっていた。夜遅くなると女の子一人だと危ないから、ハヤトが私を待っていてくれたこと。
小説はあくまで趣味で、書くよりも読む方が好きだったけれど、プロ扱いして褒められるのは悪い気はしなかった。
そんなハヤトと一緒に見上げた月はとても綺麗だった。私は、ハヤトと見上げる月が好きだった。
小さなころからずっと私のそばにいてくれた人。私の世界を肯定してくれた人。目が見えなくなった私に夢を見せてくれる人。月夜の王子様はこんなに近くにいた。
私は手探りでハヤトの顔に手を伸ばした。ハヤトの頬に指先が触れた。指と体温の気配と幼いころからの記憶を頼りに唇をハヤトの顔に寄せて、口づけを交わした。
見えなくても分かる。ハヤトは今驚いた顔をしているんでしょう?なんでキスしたのって思ってるんでしょう?だから、理由を教えてあげる。
「あなたとなら、泡になってもいいと思えたから」
fin
最初のコメントを投稿しよう!