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1.これは人生最大の過ちです
「よお、竹光ちゃん。おはよう」
今朝あんなことがあったというのに、どうしてこんなにも能天気に声をかけてこれるんだろうか、この男(ヒト)は……。
私はパソコンに視線を向けたまま完全無視を決め込んだ。
お願いだから察して欲しかった。顔をみれないくらい気まずいという私の乙女心。
今日くらいそっとしておいてくれませんかね!
「あれ、聞こえなかった? もしかして相当お疲れ? まあ、そうだよな。だって朝から二回もーー」
「あの!」
その言葉を遮るように座っていた椅子から思い切り立ち上がった。
「ち、ちょっといいですか、安西先生!」
いいながら私は先生の腕を掴んでナースステーションから廊下へ引きずり出す。
ここは都内にある総合病院の外科病棟。私は看護師として働いている竹光絢香。
これから朝の申し送りが始まろうとしているというのに、わざわざ余計な話を持ち掛けて私の気を引こうとしてきたのは外科医の安西正臣先生だ。
周りに誰もいないことを確かめると百八十五センチある長身の彼を見上げた。少し垂れたやさしげな目。それを誤魔化すかのように生やした不精ひげ。
私が看護師として働くこの外科病棟には院内の人気を二分すると言われているイケメン医師が二人いるのだけれど、目の前にいる安西先生もイケメンの部類に入ると思う。
三十五歳独身。外科医としての腕もいいし、気さくで患者さんからもスタッフからも信頼されている。
でも、どこかつかみどころのないゆるっとした性格で合コン好き。特定の彼女を作らないいわゆる遊び人としても有名だ。来るもの拒まず去る者追わずという精神らしい。
「あの、……て、どうしてそんなにうれしそうなんですか?」
私に引っ張り出されてなぜかにやけているその顔をあきれ顔で見上げる。
「ようやく絢香が俺のこと見たなと思ってさ」
「それは……ん? なんで名前で」
さっきの挨拶では、普段通りに竹光ちゃんと呼んでいたはず。
「だって昨日の夜、『二人の時は絢香って呼んで』っていったろ?」
にやり、と微笑まれ私は昨夜の言動を思い返す。
ベッドの中で『竹光』と名字で呼ばれたことに距離を感じて、私からそう言ったんだった。
低音の先生の声が私の名前を呼ぶ度、鼓膜がくすぐられて頭がぼうっとしたのは忘れたくても忘れられない。
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