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「……た、確かにいった。言いましたね」
「うむ。とにかくだ、いきなり無視はないぜ」
「無視なんてしてません」
「じゃあさっきの態度はなんなんだ?」
先生は私を真っ直ぐに見つめながらジリジリと距離を詰めてくる。
「あれは、その……」
「その?」
「さっきまで同じベッドにいた人と職場で顔を合わせて戸惑ってしまっただけです。無視してすみませんでした」
私は早口でそう伝えた。
本当はいいたくなかった。できれば察してほしかったのだけれど、この人にはそういう乙女心を理解するなんて到底ムリだろう。
「あ、そう。なるほどね。てっきりヤリ逃げするつもりかと思ったぜ」
「ヤリ逃げ!?」
そういういのは普通、男が女にするものじゃないの?少なくとも私の認識ではそうだ。世の中には、男性をもてあそぶような女性もいるのかもしれないけれど。
先生の言葉に面食らいつつ、私は慌てて首を横に振る。
「私はそんな女じゃありません!」
私がそう言い切ると、先生はしたり顔でこう言った。
「そかそか、そうだよな。今の言葉忘れんなよ」
「……え。ちょ、それってどういう意味ですか?」
「さて、今日も仕事頑張ろうな、絢香」
先生はくるりと踵を返す。そしてひらひらと手を振ってエレベーターホールの方へ歩いて行ってしまった。
「やだ、なんで答えないで行っちゃうの?」
追いかけて、問いただそうかと思った。けれどもう始業時刻になる。仕方なくナースステーションへと戻すとすでに朝のも仕送りが始まっていた。
「絢香! こっち」
すると同期の及川日菜が私を見つけて手招きする。
「今日来てないのかと思った。どこ行ってたの?」
「ちょっとトイレにね」
「そう。もしかして体調でも悪いの?」
眉間にしわを寄せ本気で心配してくる日菜は、同じ女である私から見てもとてもかわいい。少し頼りないところがあるけれど、何に対しても一生懸命でそこがまた男心をくすぐるのだろう。
「日菜はかわいいね」
「どうしたのいきなり? やっぱり絢香、今日変じゃない?」
「そんなことないよ。元気元気。さて、今日も張り切って仕事しましょう」
とはいったものの、二日酔いと安西先生との出来事が尾を引いてあまり仕事が手につかなかった。
……今日は速攻で帰って寝よ。
仕事が終わると私はパソコンをログアウトしてそそくさとナースステーションを出た。
新人の頃は先輩が帰るまで居残っていたけれど、三年目の今は仕事が終わったらすぐに帰ることにしている。
もちろん、忙しい時は残業もする。でも自分の生活を犠牲にしてまでサービス残業を続けるべきではないと思う。それを美徳とする人もいるにはいるけれど、私には合わない考え方だ。
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