第一夜 平安の世に雪舞う

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 篤実の声に十兵衛は逸物をしまう事も忘れて振り返った。 「……」  見えなくともわかる。表情まではわからないが、視線を感じるのだ。十兵衛はあんぐりと獣の口を開けたまま、棒立ちで固まった。  果てたばかりの狼の身体からは湯気が立ち上っている。  痴態を見られていたのは、何時からだったのか。いや、流石に気配でわかると思いたかったが、自身が常の冷静さを欠いていることも、自覚があった。 「お主でも、その様にその――何、妻君が…恋しくなることも、あるのだろう」  十兵衛は、視線が逸らされたと肌で感じた。 「そなたが中々戻らぬので、様子を見に来たのだ。……主君がいる間ぐらいは、控えてもらいたいものだが……特別に許す。…………余は、寝直す」  漸く十兵衛は魂が戻ってきたかのようにびくりと肩を震わせ、そそくさと逸物を褌の中に仕舞う。そうして、庵へ戻ろうとする若君を呼び止めた。 「ゆ…雪」 「えっ」  若君が何故か、酷く動揺した声と共に立ち止まった。 「その…雪があるうちは、あまり裏を彷徨(うろつ)かねぇ方が良い、若君」 「…あ…ああ……ゆき…雪か」  雪に手を擦り付けて汚れを落とし、竹杖を手に篤実の元へと近寄る。 「変に雪を踏み抜いて、崖から落ちたりしたら事じゃ」  爪牙の鼻にはまだ青臭い精のにおいが残っているように感じるが、人である若君ならばわからぬだろうか。もう決定的なところを見られたのだが、どうか分からないでいて欲しかった。  心臓が、ただ自慰に耽る時よりも強く、早く、脈打っていた。 「……そうだな、十兵衛」  篤実の肯定に、かえって気まずさを感じた十兵衛はゔる…と低く喉を鳴らした。  ざく、と篤実が元来た道を歩み、庵の中へと先に戻っていく。十兵衛は竹杖で篤実の足を突くことが無いよう、少し間を開けて続いた。 「……嗚呼……――ない」  もったいない?  若君の掠れた声に十兵衛の耳がぴるっと震えたが、聞き返すよりも前に床に入られてしまい、結局意味を確かめる事無く、鶏が鳴くまで再び眠った。  腕の中に、寝たふりを続ける篤実を抱いて。
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