第三夜 冠を脱いだ者

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「十兵衛! 何を!」 天目屋が叫び、腕の中の篤実は苦悶の声を上げている。だが篤実は逃げ出すことも無く、むしろ十兵衛の腕を強く掴んで縋り付くでは無いか。 ――ならばいっそ此の儘、首を食い千切ってしまおうか。 「ぐるッ……ヴぅ……」 顎に籠めた力を緩め、弾力のある首筋から牙を抜くとまた熱い血の味が口の中に広がる。大きく幅広い舌をそこへ纏わり付かせると腕の中の彼が身体を震わせた。 「……べぇ、十兵衛! 雪政(ゆきまさ)を殺す気かこの馬鹿犬!」 ガンッと頭を強く殴られる。痛みに口を開くが、腕は緩めない。 「人殺しになる気か! おトキや儂の顔に、泥を塗る気か十兵衛! どこの馬の骨とも判らん陰間(かげま)を食い殺したなど…おトキが泣くぞ」 「ッ…然様…じゅう、べい」 抱き締めた若君の身体は、十兵衛と殆ど変わらないような熱を帯びていた。そして、じわりと小便のにおいをさせて、足を濡らしていた。 「……天目屋の、言うとおりだ。…今は、まだ……余は」 こくりと喉を鳴らし、篤実は唾を飲み込んだ。 「そなたに食い殺されるわけには…いか、ない。…まだ、ここで、は」 己の袖を掴む手が震えていた。後ろから肩を掴んだ爪の尖った手は天目屋の物だろう。 「…わかぎ…み…」 全身をぶるりと震わせ、漸く腕の力を緩めると途端に後ろから頭を思いっきり殴られた。振り返ると天目屋がもう一度十兵衛の顎を下から殴った。 「ッ……!」 「正気に戻ったか十兵衛」 「天目屋とやら、余は……問題ない。だからそれ以上は」 「お主に問題がなくとも儂らには大ありじゃ、雪政。いや雪女男」 十兵衛と篤実の前へと回り込み、散らばった何やらを拾い上げながら天目屋はどっかりと座り込んだ。十兵衛は口の中に渥美の血と自分自身の血を感じながら座り込み、溜め息をついた。 「竜比古兄、この方は……」 「――……」 言い淀んだところで十兵衛は腕の中の若君の気配を探る。何処まで言うか悩んだところで、『さる高貴なお方の子息』であることだけ伝えた。 「……さる高貴なお方のう」 「じゃから、儂らのような田舎者が手を出して良いお方じゃあない」 「おいおい、その高貴な御子息の首を食い千切ろうとした馬鹿犬は何処の何奴じゃ」 ぐぅ……、と十兵衛は黙らせられた。すると篤実が十兵衛に縋りながら身を起こし、顔を天目屋へ向ける。 「……よい、十兵衛。……聞いておったのだな、余が天目屋に……子種を、せがむのを」 篤実に言われ、十兵衛は頷くような、ただ俯くような仕草でう゛……と喉を鳴らした。 「先に言うとくが、儂らがしとったんは二つ巴ぞ。十兵衛。昼寝して何ぞ、妙な心地がして目を覚ましたら、この雪女男に逸物を口でしゃぶられておった」 天目屋の言葉に十兵衛は目を(みは)る思いだった。肩を強張らせる一方で、篤実も息を詰まらせた。 「ッ! …………そう、だ。……余が…先に」 「……自分の口で言わんか、雪女男」 「…それは…尤も、だ…な」 しかし篤実は中々続く言葉を口に出来なかった。何度も言いかけて吐息を震わせるのだがそればかりである。しかも先刻小便を漏らしたにおいもまだ篤実の身体に残っている。 「……先に、若君はお召し物を変えた方が良い。その…血で汚れちまっただろう」 天目屋はやや納得がいかないようだったが、結局十兵衛の言葉に頷き、篤実が立ち上がるのを手伝った。 態々、庵の裏へと篤実が出て行くのを見送った後、十兵衛は迷いながら天目屋に問い掛ける。 「さっきから竜比古兄は若君を雪女男と言うが、それは何じゃ」 「はぁ、結局儂に説明させるか。貧乏くじを引いたのう」 「……すまねえ」 天目屋は昼寝前に散らかした薬の材料を片付けながら、篤実が戻ってくるまでの間に宿場町に出た雪女男という陰間の噂について掻い摘まんで十兵衛へ説明した。 「都の近くでは聞かんかったが、大体富恵湖から北で噂になっとった。十兵衛、お前があの雪女男を何故(なにゆえ)庇っているかは知らんが……」 「そのふしだらな陰間が、若君と決まったわけじゃねえ」 「ほぉん」 天目屋は面白くなさそうな声を上げる。 「おうおういい男はつらいのう。なら儂は、十兵衛のことを思って股ぐらを濡らすほど燻った若君に、初対面で逸物をしゃぶられたか。ッか〰〰参った参った。儂の魅力も此処まで来たか。危うく抱くところじゃったが、すんでの所で二つ巴で焦らしたのが却って功を奏したわ、まったく――」 「十兵衛、天目屋」 止まらない天目屋の台詞を、着替えから戻った若君の声が遮った。彼は二人の間へと進んで、筵に膝を突く。 「……天目屋は…悪くない」 「――……」 十兵衛は鼻先を向け、僅かな音で唸った。 「余は……若と呼ばれるに相応しくない」 俯いているのだろう、篤実の声は普段の凜々しさが無かった。 「(おれ)は…他の男に…抱かれないと耐えられぬ、恥知らずの…気狂いだ」 「…泣くほど嫌か、雪政」 「嫌だ。情けない。皆を失望させ、母上を死に追いやってしまった。なのに…なのに……――どうにも…ならないほど う、あっ」 「若君?」 十兵衛は、また篤実が妙なにおいをさせていることに気が付いた。着替えてきて、一度は消えたはずなのに、また篤実からにおいがし始めた。しかもそれが、ただのにおいではない。発情期、獣の雌が己の存在を雄に示すように縄張りに尿で示すようなたちのに似ている。 「また……や…うあぁ」 「どうした、篤実殿」 「十兵衛、座っとれ」 何故か天目屋が十兵衛を制す。 「すまぬ……十兵衛、また……汚して、しまった。すまない……すまない」 声を震わせ、身体を丸めている篤実から、雌のにおいが強くなる。 「…お主に、抱かれたいと……思う度に、粗相……して、しまう……」 篤実の告白に、天目屋は溜め息をつき十兵衛は息をすることを忘れた。
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