オニキス

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黒猫がブロックをよじのぼる。 満月の夜だった。 猫の左足には放り投げられていた黒いレースが絡まり行先を阻む。それは蜘蛛の巣の如く、その柔らかな脚を包囲しているのである。 横目に警戒した私は一つ二つ足を進めて行き止まりに差し掛かった路地を入ると、黒いドアのアンティークショップに辿り着いた。 見上げるほどの高さもないそのコンクリート造りの建物に近付き、私はうねりを帯びたドアノブを回した。 辺り一面広がる品物の数々。 ゴールドのチェーンネックレス、クロスモチーフのリング、ファーの施されたハンドバッグ。手狭ではあるが、びっしりと商品が敷き詰められ、甘く厳かなルームフレグランスの香りが充満する。 どこかスピリチュアルな印象さえ受けるのは、無音の店内を彩る暖色系の照明が感覚を鈍らせるせいだろうか。蜃気楼でも見ているような気分になり、私は一つ瞬きをした。 視線で撫でるようにして商品を見ていると煌びやかな箱が目に入り、あまりに美しい箱だったので吸い込まれるようにしてそっと手を伸ばしたのだが、さらに中を見てみたい気持ちになって鍵穴の部分に手を触れた時、「触らないで!」と勢いよく紙を破り割いたような牽制の声がしたのを合図に弾かれるようにしてそこから離れた。  後ずさると店員らしき男と目が合い、小さくお辞儀をすると男は微笑んだ。   「大きな声を出して失礼致しました。そちらの商品はこちらでブレンドする仕様ですので、扱いが難解なものでして。」 「オーダーメイドなんですか?」 「ええ、まあ……そうですね。」 男は多少の間を置いて肯定を此方に返すと、「……ごゆっくり」と呟いて裏へと戻っていった。それ以上触れてほしくないとでも言いたげな表情で。 もう一度店内のアクセサリーや何かを再び指先でなぞりながら選んでは、ピアスを耳元に当ててみたりネックレスを首元に合わせてみたりと様々試したものの、やはり先程の箱が気になって仕方がない。ピアノの黒鍵のようなグロスブラックに、ゴールドの鎖が巻き付けられている。鍵の部分には大きなクラウン型のモチーフが飾られていて、その絢爛なビジュアルに私は心惹かれ、堪らず店員を呼び寄せるチャイムを鳴らした。 「御用でしょうか」 「あの、この箱のオーダー、お願いしたいんですけど」 「……承りました」 そう告げるなり店員は小さな鍵をポケットから出して、鍵穴へと挿した。刹那、ゴトン、と音を立てて密閉されていたらしい箱は開錠され、さらに店員が少し力を込めると勢いよく開き、種類数多の宝石たちが目を覚ました。 そこだけが世界中の美しさを集塵したような、煌めきが欠伸をしたような。それらの石たちは此方にむけて睨みを聞かせているようにも見えたし、ここから逃げるべく訴えているようにも見えた。   アメシスト、ルビーやエメラルド。私の拙い知識だけで分かる宝石に加えて、目にした経験もないような歪な形、色を纏ったそれもある。 「お好みの物を一つお選び下さい」 そう告げた後に石を触っても良いと赦しの言葉を続けたので、おもむろに一つ一つの石をつまみ上げると店内の照明の光を屈折させて見事に輝きを放った。煌めきを放つ者は、一粒であろうと耀きが止むことは無い。丸みを帯びるもの、尖りを持つもの。数多放り込まれた宝石の中で私は一粒の石をつまみ上げた。 「オニキスですね。」 たったひとつ。新月を思わせる如き煌めきを隠した黒い塊。艶めかしさで此方を仕留めるような、鋭い一粒の新月は光を当てると満月に変わった。ガラスの靴を手にしたシンデレラのように、私というピースに嵌るようにしてこの一欠片が選ばれた。 「こちらで宜しいでしょうか?」 問いかけに私は頷き、男の掌に乗せた。 男は乗せられた掌を小指から親指まではらりと握り締め、刹那、それをカウンターに置くなりどこからか取りだしたハンマーを振り上げ、私がたった今渡した石へと一目散に叩きつけたのである。割り砕かれた石は煌めきを分散した星となり、カウンターを彩った。 あまりに驚き、そしてあまりに綺麗なもので、唖然と私は選んだばかりの宝石の残骸を見つめるしか無かった。なぜそんなことをするのか、そんな廉価な質問、出来るはずもなかった。 言葉も見つからぬままの私に配慮することもなく、男は続けて商品の棚に並べられていたグラスへと液体を注いだ。仄かに香るのは推察するにお茶のような芳醇な香りで、ルームフレグランスと混ざって嫋やかに鼻腔を擽る。 畳み掛けるようにして男は散らばった宝石を集めてグラスへと入れると、魔法のようにそれらは溶けていった。馬鹿な。触って私は確かめたのだ。ゼラチンや何かの物質ではなく、あれは確固たる石だったのに、それはサラリと砂糖のように溶け落ちた。 「お待たせ致しました。」    凛とした表情で男はグラスを此方へ差し出し、片方の唇の端を上げた表情で受け取るように促した。おもむろに受け取ったグラスを光に翳すと、ある角度からは黒く光り、ある角度からは紫色のようにも見える表情で透けた。美しい液体は俄な気泡を作り出し、それがたった今出来上がったばかりの代物である証拠であった。   疑いを晴らせぬままそれを恐る恐る口内へと流し込むと、ベリーのような酸味、華やかで青さの残る瑞々しく抉みを残した香り。 「……え、美味しい」 譫言のように呟くと、男はシルバーの髪の隙間から瞳を微かに細めた。よく見ると堪らぬ美形だ。  「オニキスはカシスの風味に近いかと思いますが、如何でしょうか。」 カシスリキュール。初めて口にしたが、妖艶で爽やかな風味に私は虜になった。刹那、男が口を開いた言葉に驚愕する。 「この宝石全てはこの世の誰かが売り捌いた記憶の欠片なのです。人間、生きていれば一つや二つ、忘れ去りたい記憶の粗大ゴミくらいあるでしょう。」 「それ、飲んで大丈夫なんですか?……その、」 味に魅せられたとはいえ、誰かの棄てたかった記憶、そんなのどんな代償が伴うか分からない。私は急に怖くなって声を発したが、あまり直接的な言葉で訊ねるのも失礼な気がして言葉に詰まる。 「その記憶が貴方様の毒となることは御座いませんよ。そのために私はそれを壊したのですから。中古のゲームソフトだってリセットすれば消えて頭から始まる。そこにあるネックレスや指輪なんかもそうでしょう?何かしらの理由があって誰かが売って、再び市場へと出たものです。記憶だって誰かの安らぎ程度に飲み干されて生まれ変われれば本望だと思いませんか?」 言葉に詰まった私の言わんとする言葉を読んでか、男はすらすらと説いた。誰かの不要物、いわゆる二度と想起したくはない記憶を彼は壊し、渾身の一杯を注ぎ、差し出す。もしかしたらこの男は、この世の生産性を促す王子様なのかもしれない。誰もが持ちうる奇しき不要物を美しい宝物に変えることが出来るのだから。記憶そのものの人生だと考えてもこの術は合理的だろう。誰かの記憶と私が合致した時、シンデレラみたいに、私は目まぐるしく愛しさに駆られた。 「また、来てもいいですか?」   「勿論でございます。……しかし、当店は満月の夜のみの営業となっておりますのでご注意下さいませ。生憎、別日は買い付けが御座いまして。」 この店にはおよそ一ヶ月後まで来られないのだと思うと、これまで一度も来たことのない店だというのに物足りなささえ感じて、いたく不可思議な現象のようにに思えた。 「あ、そうだ、お客様」 私が退店を試みてドアノブに手をかけると、男が呼びかけたので振り返る。少し開いたドアの隙間から冷たく乾いた風が吹き抜け、黒いレースのカーテンが揺れた。いつのまにか先程の箱は閉まっている。 「大切なことをお伝えし忘れておりました。もし、店付近で黒猫に居合わせても瞳を合わせない方が良いかもしれません。夜道は危険ですからね。それでは、ご来店ありがとうございました。気をつけてお帰り下さいませ。」
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