一、月夜にて

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一、月夜にて

「火の用心!」カチカチ。 『江戸市中夜回(えどしちゅうよまわ)り』の掛け声と拍子木(ひょうしぎ)の音が遠ざかる。遠くに聞こえる遠吠えひとつ。深山のような静寂の中、今は()(こく)(午後十時)あたり。 「今夜はちいと、冷えるな」  老人は、小袖(こそで)の上から銀鼠(ぎんねず)色の羽織に手を通す。上がり(かまち)に座し、脇には辛子色の巾着袋を置き雪駄(せった)を履く。 「あいや、親父殿(おやじどの)! このような時間に何を酔狂(すいきょう)な。夜這(よば)いですかな」  奥の作業間から娘のお(えい)の声。絵を描く作業の手を止め筆を置いてこちらを覗き込んでいる。 「ふざけんじゃねえ。きれいなお月さんが出てるじゃねえか。ちょっくら河原で月見だ」  杖を突きながら立ちあがる。 「中秋(ちゅうしゅう)の月明かりとは言え、川は(すみ)色だ。落っこちるんじゃないよ」  口の悪い娘だ。出戻(でもど)りも納得だ。まあ、俺の娘じゃ、しかたねえか……。老人は、ぶつぶつとつぶやきながら引き戸を開ける。 「なんだって? 出戻りがなんだって!」 「聞こえてやがる……。なんでもねえよ。それじゃあ行ってくらあ」  迎えの家の屋根の上に月が見えた。その神々(こうごう)しさに、自然と畏敬の念が湧く。月の輪郭が(なま)めかしくぼやけている。こいつぁいい、いい絵が描ける。老人はいそいそとその足を隅田川(すみだがわ)に向けた。  河原に来ると、なじみの夜鳴(よな)き蕎麦屋がある。(にな)い屋台の風鈴が(かす)かな風にチリンと鳴った。 「おや、万字(まんじ)旦那(だんな)。お久しゅうございます。今、お付けしやすぜ」  蕎麦屋の親父が、老人を見つけて蕎麦をゆでにかかる。老人は、この界隈では『万字』と名乗っている。齢七十(よわいしちじゅう)。 「おう、久しぶりだな。娘が出戻りやがって、ちょっと家がごたごたしてな。やっと落ち着いたんで、月見がてら出てきたってとこよ」 「さようで、そいつは難儀でございましたな。おつかれさんで。ゆっくりしていって、おくんなせえ。へい、お待ち」  蕎麦屋は、どんぶりを両手で持って万字に差し出す。 「今夜のお月さんは、いつもより明るいな」  そう言って、万字はどんぶりを持ち、足元を見ながら河原の斜面に腰を下ろした。  夜泣き蕎麦屋は、屋台を一人で(かつ)いで移動するため客が座る腰掛は持参していない。客は、地べたに座ったり、立ったままで蕎麦を食う。万字は出汁(だし)に浮かんだ月をすすった。その後、ズルズルと蕎麦を喉に流し込む。 「万字の旦那、なにやら町の方から呼子(よぶこ)(人を呼ぶ合図に吹く小さな笛)の音が聞こえますぜ」
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