月の恋人

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 三日月の夜に夢を見た。  それは家の庭にある植物の蔓がどんどん伸びてゆく夢で、とうとう空の月にまで届いてしまう夢だった。  弓なりになった月にひょいと引っ掛かって安定感も抜群で、まるで私にのぼってくださいとでも言わんばかりの有り様だった。  庭の植物がやたらと伸び放題だったのは現実でもそうだったのでこんな夢を見たのかもしれない。  私はこれはたぶん夢だと夢の中で認識したまま、その蔓をのぼり始めた。これが夢ならもし落ちてしまってもさして困ることにもならないだろう、という考えからの大胆さである。  落ちても構わない、とさえ、思っている。  それになぜだか行かなくてはいけない気もしたから。切っても切っても伸びる蔓は、もしかしたら私をどこかへ案内したがっているのかもしれない。  何の植物なのかも、いつの間にその種が芽吹いていたのかも、そういえば、わからない。調べてみても名前もわからないままの蔓の植物。  蔓は一本だけが伸びているのではなく、幾本もが複雑に絡み合っていた。しかもそれらは結構な太さがあって頑丈で、最初は梯子程度のものだったのが次第に普通の階段のようになっていった。  その頃にはもう空はだいぶ近く、三日月の先っぽもずいぶんそばまで迫っていた。  バナナのように黄色い、だけどとても大きい私たちの衛星に近づいてみれば、扉がついているのが見えた。  強く、戸を叩く。急くような気持ちで叩いていた。 「誰だ」  飛んでくるのは厳しい誰何の声。怖いけれど聞き覚えのあるような。  中にいたのは一人の男性だった。褐色の肌に白いシャツを着ている。美青年、といって差し支えない美貌を持っているのに、その顔にも腕にも傷がいくつもついていて痛々しい。しかもその腕は、光の輪のようなもので拘束されていた。捕らわれの美青年だ。 「どうしてこんなところに!」  とその人は言う。こんなところ? という疑問は口に出さずとも相手は読み取ってくれた。さすが夢。 「ここは月の牢獄だ。ここへ来てはいけないと言っていたのに」  そう言ってから、シャツの胸ポケットに穴が開いていることに気づいた。小さな種のようなものがその穴からこぼれ落ちている。 「これか……」  牢獄の床に落ちては芽吹かせ花を咲かせ、すぐに枯れるその植物は、私の庭で育っていたあの蔓だ。 「地上の土とよほど相性が良かったのだな」  皮肉げに言って悲しく顔を伏せるその人が可哀そうになって、私はその人の手首を取った。戒めとなっている光の輪を引きちぎる。こんな芸当ができるなんて。  次いで、私の意志や思考とは無関係に、口が開いて言葉を紡ぎ出していた。 「もうあれから、どれほどの月日が流れたでしょう。あなたを失ったまま地上で生きることに何の意味も見出せません」  月で大罪を犯した私の臣下。その罪だって私をかばって負ったに過ぎないというのに、月はこの人に数百年もの罰を与えた。  慣れた仕草で手を伸べる。さぁ手を取りなさい、と、かつてそうだったように、この人にエスコートをされるのが当然という滑らかな動き。 「さぁ――行きましょう」 「いけません。あなたが私を忘れ、月とは異なる世界で只人として幾度も生まれ変わり過ごしていく様をこの牢獄から見続けるのが私に課せられた罰。私はあなたに関われないのだと、関わってはいけないのだと自らに言い聞かせなければなりません。それを破るわけにはいかないのです」 「月は――」  地上から見えていた嘘みたいに綺麗な月を想う。 「月はもう滅びましたよ」  虚であるからあんなに白く、死後の世界のように眩しく遠い。月の端、この牢獄だけが取り残された。 「月は皆の死で終わったのです。捕らえたもののことなど忘れて繫栄し、衰え、滅びた」  そう言うと、青年は目を見開いて自分のいる牢獄を見渡した。見張りもとうに来なくなっていたことにようやく気づいたのだろう。 「迎えに来るのが遅くなってごめんなさい」  夢の中の私は心から悔いて、改めて青年の手を握った。  月から伸びる階段を、二人で降りる。地上へと、夢の(きざはし)を歩み進む。  次第に細くなる蔓を落ちないように慎重に、互いの手を取り無事を確かめ合って。  そうして辿りついた私の家の庭で、一緒にかつての王国を見上げた。  青年の褐色の肌に月の光が差して、私はその美しさと懐かしさに深い愛しさを覚える。  ――そこで夢は、終わり。  目が冷めると私は自分の部屋のベッドにいた。  朝の健やかな光がカーテンの隙間から差し込んでくる。お隣さんからはラジオ体操の音声まで聞こえてきている。 「ずいぶん壮大な夢を見ちゃったなぁ」  今は潰えた月の世界、私はそこのお姫様。恋をした臣下は罪に問われて永劫の罰をうけることとなった。私は未開の地上に落とされ、愛を忘れたまま何度も生まれ変わる。 「……ぜんぶ夢」  夢がもたらす感情は、いつも胸を締め付ける。その悲しみや愛しさばかりがやけにリアルだ。  コーヒーでも飲もう。  平日は会社に行って、休日はだらだらと過ごすような私が実はお姫様だったなんて、その上大切に想ってくれる恋人がいるだなんて、あるわけない。少女趣味な夢を見てしまって恥ずかしい。  部屋をのそのそと歩きながらパジャマのボタンを外す。このまま洗濯機に放り込んで洗おう。シーツも枕カバーも洗って夢の残り香を消して、会社から持ち帰った仕事を片付けなくては。  音を立てて勢いよくカーテンを開けると、そこには天に向けて長く伸びる植物の蔓があった。 「……ん?」  視力の悪い裸眼で何かを見間違えているのだろうか。メガネをかけて窓を開け、目を眇めてまじまじと見てみる。――が、やっぱり植物は伸びている。その蔓は梯子になっていて、上に行くにつれて階段状になっていて――。 「あ、――姫」  少しの戸惑いを含んだ艶やかな声は、同時に愛しさを込めた色で私の耳に届いた。男の人の声だ。  その声を発した主は白いシャツを身に纏った褐色の肌の男性で、私の姿を見るなり慌てて顔を逸らして目を背けた。 「おはようございます。……その、上に何か着たほうがよろしいかと」  ぽかんと呆けた私は、自分の今の格好を思い出す。ボタンをすべて外した、脱げかけのパジャマ。そのみっともない姿に頭から水蒸気が出てきそうなほど恥ずかしくなって慌てて前を隠してその場でくるりと背を向けた。  いや、ていうか、それよりも。 「あ、あなた!」  この人は夢で逢った、捕らわれの。  いったい、どういうことなんだろう。あれは夢のはずなのに。……なのに、どうしてなんだろう。胸が締め付けられるように苦しい。  背中を向けた向こう側から、ふっと零れる笑みの声。 「やっと再び会えたのです。どうかまた名前で呼んではくれませんか」  どっと溢れるように押し寄せて来たのは、月の世界での日々と、それを忘れて地上で過ごしてきた幾百年もの月日の記憶。  白く輝く月に意味も分からず涙を流したこともある。時折感じていた月への不安、監視の目。静かに滅んだ月の文明。  空から落ちた種が芽吹いて、私を(いざな)う。  蔓に掴まり、空へとのぼれ――と。  そこに手に入れるべきものが待っている。  現実と夢の境を越えて、過去と今を繋いで、ようやくここに――あなたがそばに。  窓枠をするりと越えて伸びてきた腕が私の体をとらえる。  明るい朝日の差すこの地上で、月はもう私たちを咎めない。  胸に秘めていた懐かしい恋心に、今また新たな愛しさが満ちていく。    私は振り返って力いっぱい抱き着くと、恋しい人の名前を口にした。
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