02.少しずつこの街に根を

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02.少しずつこの街に根を

「店の名前の由来……。聞きそびれてしまったな」  アルバイトからの帰り道で、晴人は店の名前の由来など、今まで一度もマスターに聞いたことがないことに気づいた。  夜はすっかり更け、住宅街はすっかり眠り込んでしまったみたいに静か。近くに晴人の通う大学のあるから、このあたりは学生の住むマンションやアパートも建ち並ぶ。  晴人の進む方とは逆方向にある大通り沿いのコンビニやガススタンド、牛丼店やファミレスは、まだ煌々と明かりを灯している。  けれど、その大通りから一本奥に入り込んだこのあたりは、昔からの住民も住んでいる住宅街なので、夜は静かだ。規則正しい距離で立ち並ぶ古びた街灯からの弱々しい光がどこかしら非現実的に思えるほどに。  ここは人口五十万人ほどの地方都市。晴人は生まれ育った街からいくぶんか離れたこの都市へ、大学進学とともにやってきた。ひとり暮らしを始めて二年と少し。この街の街並みもすっかり晴人に馴染んだ。少なくとも晴人の育った大都市よりも居心地はずっと良い。  この街で就職するのもひとつの手かもしれない。最近、晴人はそう思うようになってきた。はじめは自分の生まれ育った街や家族がいやで、遠くの街でひとりで暮らせることだけを願ってこの街へとやってきた。いわば逃げ場としてだけの街だった。  でも今では単なる逃げ場というだけではない。大学に通いながらアルバイトをして、そしていくらかの友人と呼べそうな存在もできた。その数は少ないながらも。少しずつこの街に根を下ろしている。そんな実感が晴人の胸に生まれていた。生まれ育った街と違って。 「明日の講義は二時限からだから、少しは遅くまで寝られるな」  そんなことを考えながら、晴人が自転車をゆっくり漕いでいると、やがて小さな公園にさしかかる。その瞬間、公園のベンチに誰かがひとり腰掛けているのが、晴人の視界に飛び込んできた。 「ビニール紐?」  ベンチに座る誰かの手には、白いビニール紐が握られている。公園の照明に照らされて、氷のように冷たく輝く白いビニール紐が目に見えた瞬間、晴人の呼吸も鼓動も一瞬だけ凍りつく。その誰かはビニール紐以外には何も持っていない。  自殺するつもりだ。晴人はそう直感した。自分の経験から。
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