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09 チョウツガイ (side SHINOBU)
目の前に七瀬が居る。
その現実を俺は、すぐに受け入れられなかった。
十年間も姿を消していた彼女。
それなのに見た目はほとんど変わっていない。
「久しぶり、しのぶくん」
「七瀬さん……」
「しのぶくんオジさんになったねー。十年前はまだ可愛かったのに」
「……十年経てば変わるだろ普通」
「そっか。そうだね」
七瀬の背後の室内に目をやる。
彩の姿は無い。
「彩を探してる?」
「あぁ。此処に来ている筈だ」
「うん。居るよ」
「会わせてくれ」
「会いたい?」
「当然だ」
「しのぶくん顔色悪い」
正直、立っているのも辛いくらいだ。
早く彩に会って抱き締めたい。
「もう少しかな」
「何が」
「しのぶくんが動けなくなるまで」
「……何を言ってる」
「しのぶくん身体が大きいし力もあるし。普通の状態じゃ負けちゃう」
「だから何の話をしている」
背後に人の気配があった。
振り向いた瞬間に右の頬を殴られる。
無様に床に倒れた俺に馬乗りになっていたのは、彩を攫った男だった。
奴は慣れた手つきで俺に手錠をかける。
「すまないね、紫信くん。君を拘束させて貰う」
「……どういうつもりだ。彩は。無事なんだろうな」
「生きているよ。今は、まだ」
リビングらしき空間に連れて行かれた俺の前に、木製の椅子に座った彩が居た。
目を閉じて俯き加減で。
……意識が無いのか?
椅子の横。床に置かれた透明な容器に溜まる赤い液体。
容器の上部から伸びるチューブは彩の右腕に繋がっていた。
血液を抜かれている。
このままでは彩が失血死してしまう。
俺は最後の力を振り絞って男に体当たりして、転びそうになりながら彩の元へ走った。
「彩……彩!目を覚ませ!」
手錠で繋がれ不自由な両手で彩の頬を叩く。
彩は薄く目を開けた。
「……しのぶさん?」
「……そうだ。俺だ。助けに来た。一緒に帰ろう」
「ごめんなさい……迷惑かけて……」
「謝らなくていい。今助けるから。待ってろ」
右腕に刺さる針を抜こうとする俺の手を彩が握る。
「しのぶさん……私……幸せでした……」
「……何を言っている」
「最期まで……ダメな娘で……ごめんなさい……」
「……諦めるな彩。頼むから!」
「……愛してくれて……ありがとう……」
淡く微笑んだまま、彩は目を閉じる。
零れた涙が柔らかな頬を伝い落ちた。
「彩……嘘だよな?」
こんな簡単に終わる訳が無い。
彩の人生は、これからだ。
「……そうだ。これから恋人になって夫婦になって。違う形で家族になるんだ。俺と彩は」
それは決まった未来だと思っていた。
俺は彩を愛して。
彩は俺を愛してくれて。
そんな穏やかな生活が待っている筈だったのに。
「……きれい」
動かなくなった彩の前で泣き崩れる俺の耳に聞こえた七瀬の声。
目の前で娘が死んだというのに、彼女は恍惚の表情で言う。
「とてもきれい」
「……七瀬。お前……どういうつもりだ!」
「きれいね。しのぶくんの絶望」
「……俺の……絶望?」
「忘れられなかったの。ずっと。初めて会った時にしのぶくんが纏っていた色が」
「まさか……それが見たくて彩を?」
「そう」
「……そんなことの為に娘を殺したのか?」
「彩はいい子だから。私の為に死んでくれたの」
俺の中で何かが切れた。
七瀬を床に押し倒し、両手で細い首を締め上げる。
それでも七瀬は笑っていた。
……壊れてる。
殺してしまいたかった。
俺から彩を奪った七瀬を。
だが彩にとっては大切な母親。
優しい彩は復讐なんて望まないかもしれない。
それなら俺が選ぶ道は一つしか無かった。
「……殺してくれ」
俺は泣きながら懇願していた。
目の前の七瀬に。
彩の居ない世界に未練は無い。
彼女は妖しく微笑んだ。
瞳に狂気を宿して。
「いいよ。殺してあげる。でも、その前に」
七瀬が耳元で囁く。
「最高の絶望を頂戴」
七瀬が立ち上がり祝詞を唱え始める。
俺の身体から抜け出た絶望の色が広い室内に渦巻いた。
……これが綺麗?
笑わせる。
まるで自我を持たず暴れ回る醜い化け物だ。
化け物は七瀬の小さな口に吸い込まれた。
彼女は大量の絶望を飲み干して行く。
おぞましい光景だった。
全て腹に収めた七瀬は満足気に唇を舐める。
手錠が外された。
奴が俺を始末してくれるらしい。
俺は無言で頭を下げる。
彩と一緒に逝けるなら本望だ。
異変は直後に起きた。
七瀬の目が大きく見開かれる。
彼女の身体の中で別の生き物が蠢いているようだった。
床に倒れ苦しそうにのたうち回る。
……何が起きている。
「紫信さん!」
聞こえたのは彩の声だった。
そして唇に触れる柔らかな感触。
目の前に彩の顔があった。
死んだ筈の彩が俺に口付けをしている。
信じられなかった。
でも現実だった。
身体に力が漲る。
抱擁の比ではない。
彩は俺から離れると、紅く色付いた唇で祝詞を唱えた。
七瀬の身体から引き出される色。
俺にもはっきりと見える。
部屋の出口を探して不気味に動き回っているようだ。
「逃がさない!」
彩が手にした瓶の蓋を開けた。
禍々しい色が吸い込まれて行く。
勢いに負け、よろめく彩の肩を抱いた。
力を得た彩の手の中の瓶が七色に光る。
初めて見る色だった。
彩の力が増しているのが分かる。
禍の色を封じ込めた瓶の蓋を彩が慎重に閉めた。
途端に身体から力が抜けたようで俺にもたれかかって来る。
この柔らかさ。甘い香り。
確かに彩だ。生きている。
唇は普段通りの淡い色に戻っていた。
思わずキスしようとすると、背後から咳払いが聞こえる。
……父親の前でする行為ではなかった。反省。
彩は床に倒れている七瀬に駆け寄って行った。
息はあるようだった。
一度は殺そうとした七瀬。
だが生きていてくれたことが嬉しかった。
◆
奴……蒼さんが七瀬を抱き上げゲストルームへ連れて行き、大きなベッドに寝かせる。
彩は心配だから付き添うと言って残った。
俺は蒼さんに連れられリビングに戻る。
蒼さんが温かいコーヒーを出してくれた。
二人でL字ソファに腰掛ける。
「殴って済まなかったね。大丈夫かい?」
「大丈夫です。手加減してくれましたよね。かなり」
警察官に本気で殴られたら歯の二、三本折れていたと思う。
「さて。どこから話せばいいかな」
「……七瀬さんが居なくなった辺りから」
「そうだね。十年前、七瀬は失踪した。君から捜索願いが出されたと知って私も皆に探させた。じきに七瀬は見つかった」
「何で俺に知らせてくれなかったんですか」
「その時、既に七瀬は病んでいたんだよ」
想墨師特有の精神疾患。
色に魅入られ、より刺激の強い色を求め彷徨う。
「七瀬も君たちのところへ帰りたがらなかった。一緒に居れば傷つけてしまうからと」
この十年間。
蒼さんは七瀬を匿い、騙し騙し適当な色を与えていた。
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