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聞きたいことは山ほどあった。
でも聞けなかった。
彼女が俺の口に猿轡をする。
「舌、噛んだら大変だから。ちょっと我慢してね」
……どうなるんだ俺。
不安すぎる。
彼女が神妙な面持ちで、怯える俺の前に立った。
「じゃ、始めます」
小さな手のひらに空の瓶を握り、彼女は目を瞑る。
ふっくらした唇が小さく動いていた。
微かに聞こえる言葉。
よく聞き取れないし意味も分からない。
日本語だとは思うが。
身体の奥。内臓が熱を持ち始めた。
そしてチリチリと焼けるような感覚。
痛みは……それほど無い。
でも叫びたくなるような衝動。
自分は我慢強い方だと思ってた。
だけど違った。
目の前の彼女が酷く憎く思えて椅子から立ち上がろうとする。
しっかり拘束されているからそれも叶わず、ただ叫び、もがいた。
部屋の中に充満する黒い煙。
元となっているのは……俺か?
悲しくも無いのに涙が止まらない。
いや……感じないようにしていただけだ。
本当は泣きたかった。
でも泣けなかった。
いい歳の男が号泣するなんて恥ずかしいだろ。
夢を奪われても、愛した人に捨てられても。
平然と受け止めなきゃいけない。
それが大人だ。
辛くても耐える。
心が壊れても。
「……ダメ」
耳元で彼女が囁く。
「我慢しないで。大丈夫だから」
そこから先は……記憶が無い。
気付いたら部屋の中の黒い煙が消えていて、代わりに彼女が手にしていた瓶の中に黒い液体が入ってた。
……何が起きた。
「終わったよ」
拘束は解かれたが、酷い疲労感に襲われ立ち上がることも出来ない。
彼女は動けない俺の脚の上に座ると、首に腕を回して抱き着いて来た。
「頑張ったね。しのぶくん」
元気な状態なら最高の状況なんだけどな。
「あ。託児所は少しだけ延長をお願いしたから、まだ時間ある。ご褒美あげるよ」
「……遠慮する」
今したら死ぬ。そんな気がした。
「そう?残念」
本当に残念がってるのか疑問だ。
「俺に何をした」
「説明するのめんどい」
「あのなぁ……」
「しのぶくんの中にヘドロみたいに溜まってた怨みの感情を私が引っ張り出して瓶に詰めました」
めちゃくちゃ早口で説明された文章を心の中で反芻する。
何回再生しても正確には理解出来なかった。
「私は想墨師の家系で。人の感情が色で見える。膨らみすぎて破裂しそうな心を解放して、抜き取った感情を瓶に封じ込めるの」
「……へー」
適当に返事をしたら彼女が不満気に唇を尖らせる。
「一ミリも理解出来てないね、しのぶくん」
「体育会系には無理だ」
「でも、封じ込めただけじゃ終わらなくて」
「まだ何かあんのか!?」
これ以上、キツい思いはしたくない。
小さい男だと思われてもいい。
「そんな怖がらなくて大丈夫だからー。お手紙書くだけ」
「……手紙?」
そういえば、この店って【手紙カフェ】だったよな。
「このインクを使って手紙を書くの。送る相手は自分でも他人でも神様でもいい。思いついたことを書く。その手紙を封筒に入れて、店のポストに入れる」
「その手紙は最終的にどうなる」
「郵便屋さんが取りに来ます」
「普通だな。宛先も無い手紙なんか向こうも困るだろ」
「郵便屋さんがお寺とかで供養してくれて、おしまい」
なるほど。そういうシステムか。
ようやく身体が動くようになったから個室を出て店に戻る。
カウンターの横に小さな文具コーナーがあった。
様々なサイズや色柄の便箋や筆記用具が並んでる。
「好きなの選んでいいよ」
好きなのと言われてもな。
手紙なんか子供の頃に学校の行事で母親に書いたくらいだ。
「私、ちょっと娘を迎えに行って来るから。ゆっくり選んで書いてて」
「……わかった」
普通に返事をして、少ししてから気付いた。
それって娘を連れて帰って来るってことだよな。
彼女の娘に嫌われたら再婚相手の候補にもなれない。
人懐っこい親戚の子供にも、そっぽ向かれる俺だ。
好かれる要素が無い。
「……どうする」
彼女が戻る前に逃げるか?
いや、でも店を留守にして売り上げとか盗まれたら困るよな。
手紙も書かないといけない。書かなければめっちゃ怒られる気がする。
「どうしたの?」
「うわぁ!?」
思わず声を上げてしまった。恥ずかしい。
「……早かったな」
「二軒向こうなの。託児所」
そんな近いのか。便利でいいな。
「彩。お兄ちゃんにご挨拶は?」
彼女の後ろに隠れるように居た女の子。
母親譲りの栗色の髪と愛らしい顔立ち。
俺と目が合うと、慌てて隠れてしまった。
……やっぱ好かれるわけ無いよな。
「珍しい」
「……何がだ?」
「この子、初対面の男の人の前だと殺される!みたいに大泣きするのに」
そんな重度の人見知りなのか?
「彩、しのぶくんのこと気に入ったみたい」
「まさか……」
隠れながら見上げて来る大きな瞳。
全て見透かされているようで怖くなる。
彼女の娘だから感情の色ってのが見えている可能性もある。
俺の下心は子供にどう見えているのか考えたら逃げ出したくなった。
「しのぶくん」
「……はい」
思わず敬語で返事をする。
「結婚しよう」
「……は?」
「しのぶくん彼女欲しいでしょ?」
「欲しいけど……」
「私は夫が欲しい。ちょうどいい」
ちょっと待て。
展開の速さについて行かれない。
大体、彼女と夫じゃカテゴリーが違うだろ。
「お願い!彩の為にも!」
「……父親が居ないと困るのか?」
「んー。まあ最近はシングルマザーも多いし。収入面も不自由はしてないけど」
「じゃあ要らないだろ」
「何て言うか。私が居なくなったら彩、ひとりぼっちになっちゃうんだよね」
彼女は天涯孤独の身。
死別した旦那さんの家族とも疎遠らしい。
「しのぶくんが一緒なら安心」
「自分が居なくなる前提みたいな話だな」
「え、そう?」
「まあ……考えとく」
俺の言葉に母と娘の瞳が輝いたように見えた。
◆
あれから三年。
籍を入れた直後に七瀬は失踪した。
当然、俺が真っ先に疑われた。
俺が取り調べを受けている間、彩は施設に預けられた。
彩の気持ちを考えると居ても立ってもいられなかった。
突然、母親が消えた上に知らない場所に連れて行かれて。
早く。早く迎えに行かなくては。
理不尽な聴取にキレそうになりながらも我慢した。
七瀬の行方は俺が一番知りたい。
その冬で一番寒い日だった。
自由の身になった俺は施設へ彩を迎えに行った。
本当は七瀬……母親に迎えに来て欲しかったと思う。
俺は戸籍上の父親というだけで、一緒に暮らしたことも無い赤の他人だ。
それなのに彩は何も言わず、俺の手を握った。
俺の方が泣きそうだった。
彩にとっては住み慣れたビルの家。
少しは安心して過ごせるだろう。
「……彩」
玄関で、俺は彩の前に座り視線の高さを合わせる。
「今日から俺もここで暮らす」
反応が怖かった。
拒絶されても仕方ないと思っていた。
なのに彩は小さく頷いて、微かに笑った。
守らなくては。
握った手の温かさを、この笑顔を。
誰にも壊されないように。
彩は俺の大切な家族だ。
【 続 】
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