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夢の世界を歩けるようになった。自分の夢の中だけじゃない、私の半径百メートル以内の人の夢の中なら入ろうと思えばできるようになった。理由は全くわからない。これといった趣味もない私は、軽い気持ちで他人の夢を散歩するようになっていた。
*
そんなある日、私は会社の上司と二人きりで地方へ出張に出かけることになった。四十代半ばで能力というより人柄で仕事しているひと。少しおっちょこちょいだけれど憎めない性格で、会社人としてみれば二流かもしれないけれど、私は密かに好意を抱いている。
慌てて飛び乗った最終の新幹線。隣り合わせで座る。駅の階段を駆け上がったせいで、二月というのに彼の額には球の汗が浮かんでいた。私がハンカチを差し出すと、手で制する仕草をした彼は、スラックスのポケットに手を差し入れ、コートのポケットも確認し苦笑いをこぼした。その笑顔に胸が甘い痛みを訴える。私はそれに気づかないふりをした。
「冷えたら風邪をひいてしまいます。私はもう一枚持っていますので、どうぞ」
重ねて言うと、彼はようやく私のハンカチを受け取ってくれた。私のものが今彼の手の中にある。それだけでドキドキしてしまう。いけないことかもしれないけれど、頭の中でだけなら罪にはならないよね。
「悪いね、今井さん。本当なら泊まりでも良かったのに、無理やり日帰りにしちゃって」
「気にしないでください。お子さん、昨日生まれたんですよね」
「そうなんだ。長いこと不妊治療した末の最初の子だからね」
と、彼が額にハンカチを押し当てた。ハンカチの生地に彼の汗が染みる瞬間を想像して、私は充足感を覚える。
「お子さんもきっと、パパが来てくれるのを待っていますよ。今日帰れば、明日は朝から病院に行けますものね」
「うん、子供がこんなに可愛いとは。授かるまで思ってもみなかったよ」
彼が私に見せたスマホには、まだ生まれたてで真っ赤な肌の、猿みたいにしわしわな顔で目をつむる赤ちゃんが写っていた。耳の横に握られた拳が小さくたよりない。その写真に奥さんが写っていないことにホッとした。彼が幸せなのは嬉しいけれど、奥さんの幸せそうな顔を見るのは辛いから。
「二週間後退院してうちに来るのが待ち遠しいよ。ミルクの作り方とか、おむつの変え方とかね。練習しているんだ」
話しているうちに彼の瞼が下がり、かくんと頭が私の方にかしぐ。ハッと目を開けて座り直す彼に、私は言った。
「出張を、早く終わらせるために始発に飛び乗って、一泊二日のはずだった日程を、無理やり日帰りで終わらせたんです。疲れて当然です。どうぞ寝てください。私たちが降りる駅までまだ一時間以上ありますし、近くなったら起こします」
私の言葉に安心したのか、疲れがピークに達していたのか、上司はすぐ眠りに落ちた。車窓側の壁に頭を押し付けるようにして目を閉じる彼の顔を見る。つられたのか私もまぶたが重くなってきた……。
*
気づくと私は夢の世界にいた。
これは私の夢? それとも……。
私は大きな建物の中にいるようだ。天井のシャンデリアは蝋燭の火が明明と灯っている。壁も床も白い石造りでローマ遺跡のような雰囲気を漂わせていた。大理石の広間を抜けてテラスに出ると、眼下には噴水のある池と薔薇の花壇が左右対称に配置されていた。甘い香りを漂わせる薔薇の上の夜空には青白く光る半月があった。
私がテラスに出たのは、人声が聞こえたからだった。
ボソボソと聞こえてくるそれに耳を澄ます。
どうやら噴水前にある薔薇のアーチの影に人がいるようだ。聞こえてくる声が上司に似ている気がして、アーチの影に立つ人物が見える位置に移動する。
薔薇のアーチの向こうに男女が立っている。
月明かりの下で抱きあう二人が見えた。幸せそうに見つめ合う恋人。なんて美しい光景だろう!
その男女の顔が差し込んできた月明かりではっきり見えた。私は思わず、
「あっ!」
と、声をあげていた。
男の方は、まさに今隣で眠りこけているはずの上司。そして女は、私だった。
彼が呆然とこちらを見る。私と目が合うと彼は顔色を変え、抱きしめていたはずの、私の顔をしている女からパッと離れた。
*
新幹線の微かな揺れを感じながら私は目を開いた。
いつのまにか上司の肩にもたれて寝てしまっていた。そっと座席に座り直す。彼のまぶたはまだ閉じたままだ。
酷く疲れていた。口に手を当て大きく息をつく。
彼の夢かどうかは問題じゃない。私が声をあげた時、(見られた!)と感じた彼は、私から離れた。
それが答え……。
私は膝に乗せていた両手をギュッと握りしめた。
彼の涙を吸ったハンカチは、駅に着いたら捨ててしまおう。
〈了〉
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