拝啓、まだ見ぬあなた様へ

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 拝啓、まだ見ぬあなた様へ。わたくし信楽焼の狸でございます。  生国は近江、現在の滋賀県甲賀市で――あっ、ちょっとちょっと、行かないでくださいまし。まだほんの導入部分なんですから――ああ、なんてせっかちな。  全くもう。ヒト……いえ、わたくしは狸でございますけれども、相手の話は最後まで聞くものでございますよ。  まあ、でも、仕方ありませんね。最近はゆうちゅうぶなるものも早送りで観る時代。忙しい現代人にとっては、店先に置かれた狸の話なんて退屈なのかもしれません。 「ご馳走様。やっぱり親父さんの蕎麦は美味しいね。近いうちにまた来るよ」 「へぇ、おおきに。いつでもお待ちしております」  笑顔で引き戸を開けたお客様に、店主の茂三が愛想の良い笑みを返します。齢八十になりましたがまだまだピンシャンしているようで、代々受け継がれてきたわたくしとしては、腹鼓の一つでも打ちたくなるというものです。 「おじいちゃん。この狸さん、なあに? なんでお店の前に置いてるの?」  お客様――改めパパさんに手を引かれた愛らしいお嬢ちゃんがいい質問をしてくださいました。さあ、言ってやってください茂三。わたくしがいかに素晴らしい存在なのかを! 「この狸さんはね。とても縁起のいい物なんだよ。お店の前に置くことで、お客様がたくさん来ますようにってお願いしてるんだ」  おっと、答えたのはパパさんでしたが悪くない返しです。さあさあ、茂三。ビシッと続きを言ってやってくださいまし。 「そんな大したもんやあらへん。ご先祖様が気まぐれで()うた安物ですわ」  渋面を浮かべたいのはやまやまでございますが、残念ながらわたくしの艶やかな顔面はぴくりとも動きません。しかし、茂三の言葉もあながち間違っておりませんのが痛いところでございます。  明治の初め、わたくしは一人の窯元によって生み出され、八相縁起を兼ね揃えた縁起物という触れ込みで売りに出されました。  え? 八相縁起とは何かって?   大変失礼いたしました。お商売に携わっておられない方はご存知ないかもしれませんね。八相縁起とは、わたくしが持つ傘や徳利をはじめとした八つの縁起物のことでございます。  災難から身を守るための傘。人徳を表す徳利。信用の象徴である通い帳に、客商売には必須の笑顔。大きな目は気配りが効くようにとの願いが込められておりますし、ぽこんと張り出たお腹は冷静さと大胆さの象徴です。大きな声を出すのは少し憚られますが、オス特有の金袋は金運そのままの意味でございます。そして、太いしっぽには「終わりよければすべてよし」という格言が込められております。  つまりは、持っているだけで運気爆上げのありがたい置物として、お客様の購買意欲を掻き立てようとしたのでございますよ。  しかしまあ、とんと売れませんでした。理由は今でもわかりません。こんなにぷりてぃな見た目をしているのに……。  そう、わたくしは今でいう「わごん品」でございました。あまりの売れなさに窯元も匙を投げ、明日には割られるかもしれないと怯える日々。ですが、なんの酔狂か、東京へ店出しを決めた茂三の先祖に見初められ、商売繁盛の縁起物として、こうして店先に飾られることになったのです。 「へぇ……。じゃあ、おじいちゃんの、そのまたひいおじいちゃんの時から、この狸さんはここにいるんだ。すごいね!」  身も蓋もない茂三の言葉にも関わらず、お嬢ちゃんは目を丸くしてわたくしに手を伸ばしました。  しかし、もう少しのところで届きません。木の台座の上に立つわたくしは、小さなお嬢ちゃんにとっては少々高い位置にあるのです。それでも精一杯背伸びをする姿を見かねたパパさんが、優しくお嬢ちゃんを抱え上げました。 「いいこ、いいこ」  小さくて、柔らかな感触がわたくしの頭を撫でていきます。まるで紅葉のようなその手は、とても温かいものでございました。
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