拝啓、まだ見ぬあなた様へ

2/4
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 わたくし、今日も相変わらず店先から外を眺めております。空は雲ひとつない青空。気持ちのいい秋晴れでございます。時折、思い出したようにぴーひょろろと鳴く(とんび)が、くるくると頭上を旋回していきます。  鳥は自由でいいなあ、などと陳腐なことは申しません。身動きすらままならないこの身を厭わしく思う日もございましたが、百五十年も経つと一周回って「まあ、いいか」と思えてくるものです。  本物の狸ならいざ知らず、陶器の体では化けることもできませんものね。叶わない夢を抱き続けられるほど、わたくしはもう若くはございません。かの八百八狸(はっぴゃくやたぬき)様のお力をもってしても、信楽焼の狸に妖力が芽生えるとは思いませんし。  それにわたくし、こうして街を行き交うヒトびとを見るのがとても好きなのでございます。  ここにいると、きゃっきゃと楽しそうに声をあげて駆けていく子供たちや、初々しく頬を染めて並んで歩く恋人たち、果ては幸せそうにお孫様と散歩するご老人まで、千差万別の人生を垣間見ることができます。  ヒトとは、なんと素晴らしい生き物なのでしょうね。しなやかな体躯からすらりと伸びた両手足を見るだけで、とても眩しく感じてしまいます。おつむの出来もわたくしとは比べ物にならないくらい良いのでしょう。ヒトの手から生み出される品々は、まるで魔法のようにわたくしの心を捉えて離しません。さらには子孫まで作ってしまうのですもの。わたくし、驚嘆することしかりです。  そしてヒトは皆、蕎麦作りに励み続ける茂三のように、時に悲しみつつも精一杯生きて笑って、各々の本分を全うしていきます。中には電信柱の影で始終何やらぶつぶつと呟いている方もいらっしゃいますが、わたくしも彼らに倣って、これからも縁起物らしく、この店と共にヒトの営みを見守っていく所存でございます。 「ご馳走様。今日も美味しかったよ」  からり、と乾いた音を立てて引き戸が開き、店の中からパパさんが出ていらっしゃいました。お嬢ちゃんは一緒じゃありません。暖簾をくぐった時、お友達の家に遊びに行ったとおっしゃっているのが聞こえました。また頭を撫でてもらえると思っていただけに、少しがっかりした気持ちになります。 「親父さん、この店畳むって本当? こんなに美味しいのに……。無くしちゃうのはもったいないよ。なんとか続ける方法はないの?」  ――え?  今、パパさんはなんとおっしゃったのでしょう。わたくしの聞き間違いでなければ、店を畳むと聞こえたのですけれど。 「嬉しいこと言うてくれはりますなぁ。常連さんにそない惜しんでもらえるなんて、職人冥利に尽きますわ」  戸惑うわたくしを尻目に、茂三は嬉しそうに目を細めました。 「でも、うちには後継ぎがおりませんのや。人に譲ることも考えたんやけど、ご先祖様が大切にしてきた味が変わってまうのもな……。だから体がまだ動くうちに、あと仕舞いせんとあかん思うたんですわ」 「そっか……。じゃあ、この狸も見納めになるのかな。美季……娘も寂しがるよ」  わたくしを見るパパさんの目には、深い悲しみと哀れみがこもっておりました。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!