拝啓、まだ見ぬあなた様へ

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 ざあざあと雨が降り続いております。空はどんよりと暗く濁り、まるで今のわたくしの心を映し取ったかのようです。今日ばかりは、自由に空をゆく鳶の姿もございません。きっと今頃、ねぐらで羽を休めているのでしょう。  背後の店からは、わいわいと賑やかな声が漏れ聞こえてまいります。  今日は店の最終日です。朝から続々とお集まりになった常連の方々が、重ねてきた思い出を語りながら永遠(とわ)の別れを惜しんでおられるのです。この地に店を出して百五十年。こんなに愛されて、茂三も、そのまた先祖も感無量でございましょう。  それにしても、とても楽しそうでございますね。いつものことではございますが、少々寂しゅうございます。それでもこの丸い耳を澄ませずにおられないのは、もはや染み付いた習性でございましょうか。  狸はどうするの、というお客様の声の後に、人形供養の寺か神社に持って行こか思うてますねん、などという茂三の声が聞こえます。  冗談じゃありません。こちとら百五十年も孤高な狸を気取っているのでございますよ。皆様に一方的な愛を振りまいてはおりますが、同族とのこみゅにけぇしょんには慣れておりません。西からやってきた垢抜けない古びた狸として揶揄(からか)われるのがオチでございます。  ねぇ、茂三。わたくし、雨の日も風の日も店先に立ち続けていたのでございますよ。これまでのご褒美として、このままこの地でヒトの営みを見守り続けていきたいと願っても罰は当たらないと思いませんか。  ですが、わたくしの願いは決して叶わないでしょう。なぜなら、わたくしは信楽焼の狸。自己主張する唇も声も持ち合わせてはおりませんもの。  ――ああ、この景色も見納めなのでございますね。  茂三の先祖が店を構えた頃、ここは木造りの長屋が立ち並ぶ宿場町でございました。文明開化が追い風になったのでしょう。お華族様から町人の皆様方までひっきりなしにこの地を訪れ、大層賑わっておりました。それが静かな住宅街に変わった今でも、当時の姿をありありと思い出すことができます。  この百五十年、本当に様々なことがございました。五体満足で明治から令和まで駆け抜けてこられたこと、万感の思いでございますよ。その中でも特に歴代店主たちと過ごした日々は、わたくしのつるんとした胸の中にしっかりと刻み込まれております。  初代店主は少し向こうみずなところがございましたから、意気揚々と開店したのはいいものの、東西の味の違いで閑古鳥が鳴き、共に頭を抱えたこともございましたね。  二代目の店主は心優しい性分で、雪の降る夜に一晩中傘を差しかけてくれました。悲しくも早世してしまいましたが、その温かい眼差しを一日たりとも忘れたことはございません。  三代目の店主――茂三の父親が兵隊に取られて周りが焼け野原になってしまった時は、作り物の目から涙があふれそうになったものです。茂三の母親が店を守り続けてくれなかったら、今のわたくしは存在していなかったかもしれません。  そして茂三。あなたはまだ十八歳という若いみそらで亡き父親と母親の遺志を継ぎ、今日に至るまで店を盛り立ててくれましたね。朝から晩まで働いてどんなに疲れきった日も、最愛の伴侶との悲しい別れの日も、決して欠かさず、わたくしを磨き上げてくれました。わたくし、あなたの無骨な手がとても大好きでございましたよ。  しかし、時代は移り変わっていくもの。名残惜しくはございますが、わたくしがいなくなった後も、穏やかな日常が続いていくことを祈ってやみません。 「ご馳走様。長い間、本当にありがとうね」  悲しそうな笑顔を浮かべたパパさんが、いつものように引き戸を開けて暖簾をくぐります。その隣には黄色いれいんこうとを着たお嬢ちゃんが、深く被ったふうどの下から赤いほっぺを覗かせておりました。 「お客さん、傘忘れてはるよ!」 「あっ、しまった。美季、ちょっと待っててな。すぐ戻るから、遠くに行っちゃ駄目だよ」  慌てた様子のパパさんがお嬢ちゃんの手を離して、店の中に引き返していきました。一人になったお嬢ちゃんは手持ち無沙汰にぶらぶらと歩きながら、地面の水たまりを覗き込んでいます。  もう、お嬢ちゃんに頭を撫でてもらえることもないのでしょうね。  しんみりした気持ちでお嬢ちゃんを見守っていると、向かいの電信柱の影から男がゆらりと現れたのが見えました。いつも何やらぶつぶつと呟いていらっしゃるお方です。その目はひどく(うつろ)で、手には金属ばっとを携えておりました。  それに気づいた瞬間、ぶわっとしっぽが膨らんだ気がいたしました。からっぽの頭の中には半鐘の音が鳴り響き、事態の重大さをうるさいほど伝えてきます。必死にお嬢ちゃんに目を向けるも、彼女は水たまりに映る自分に夢中で男の存在には気づいておりません。  ――逃げて! 逃げてくださいお嬢ちゃん! その男から離れて!  どんなに叫んでも、作り物の口からは一欠片の音も飛び出してはくれません。台座に置かれた体も、一寸たりとも動かすことはできないのです。わたくしにできることは目の前の状況をなすすべもなく眺め、全力で祈ることだけでした。  しかし、わたくしの祈りも虚しく、男がばっとを大きく振りかぶります。  ――ああ、八百万の神々よ! かの誇り高き八百八狸様よ! どうかわたくしにお力をお授けください! お嬢ちゃんを守る力を!  気づけば、わたくしは地面に四つん這いになっておりました。  顔を青ざめ、へたり込むお嬢ちゃんの体の両脇に、すらりと伸びた両手足が見えます。少し筋張った手の甲と、にょきっと生える五本の指。足だってきっちり二本あります。見間違うはずもありません。ヒトです。わたくしはヒトになっているのです。  それを理解した途端、年甲斐もなく、全身が高揚するような心地がいたしました。  ええ、そうです。  わたくし、ずっとヒトに化けたかったのでございます。 「何やってんだお前!」 「警察を呼べ! 救急車もだ!」  怒声と不明瞭な喚き声が遠ざかっていきます。騒ぎを聞きつけた方々が、わたくしたちから男を引き剥がしてくださったのでしょう。これでもう安心です。「美季!」と叫ぶ声を背中で聞きながら、目の前の艶やかな黒髪に手を伸ばします。 「――いい子、いい子」  頭を撫でるたびに、お嬢ちゃんの顔が歪んでいきます。泣かないでくださいまし、と言いたくとも、ひび割れた唇では上手く喋ることができません。  代わりに笑みを浮かべようとしましたが、まるで嘲笑うかのように、ぱらぱら、ぱらぱら、と陶器の破片が落ちてゆきます。ヒトに化けたとはいえ、この身は所詮信楽焼の狸なのだということでしょう。  ですが、わたくしは満足でございました。縁起物として身に降りかかる災難を退け、皆様に福をもたらすこと。それこそが、わたくしの本分でございますから。 「何しとんねんボケェ! ワシの店先でお嬢ちゃんを襲いやがって! うちの狸をどっかにやったんもお前か!」  店先にわたくしがいないことに気づいたのでしょう。男にくってかかる茂三の怒声が聞こえます。ここにおりますと言いたいところではございますが、今はヒトに化けた身。茂三には少し目を瞑っていてもらいましょう。 「はよ返せ! どこにやったんや? まさか壊してないやろうな!」  怒声に微かな涙声が混じり出します。おやおや、男泣きとは茂三らしくありませんね。わたくしはひと足さきに極楽にまいることになりますが、あなたはこれからも続く人生を逞しく生きていかねばならないのですよ。くれぐれも言っておきますが、慌てて追いかけてきたら許しませんからね。 「狸……さん?」  震えるお嬢ちゃんの声にハッと我に返ります。ああ、体が徐々に元の形に戻ってまいりました。もうお別れのようでございます。わたくしは十分に生きました。ここは潔く、穏やかな眠りに身を委ねましょう。  徐々に霞んでいく視界に最後まで映っていたのは、美しい涙でありました。
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