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魔が差したんだ。
仕事を抜けてしまった。
「聴診器?」
「地球さん、風邪?」
「僕、葛根湯、うちに買い置きある」
あの人はもう、何処か別の遊びを見つけに行ったと思ったのに。
公園のベンチは臆病で外灯が一本ポッチリ立ってるだけだ。
ポケットに着信がある、そりゃそうだ。仲間が怒ってるだろう。でも、戻らない、少なくとも今夜は。
「いい、月夜(つきよる)ですね」
声音は響く相棒もないまま、一人で鳴った。
年齢が判然としないが、そういう人っているさと、僕は自分を鼓舞する。
スコットランド兵みたいなスカートを履いて、無地の長袖Tシャツを肌寒い夜に袖まくりしていても、いいんだ。
水道管の漏水調査の仕事は、音を聴く仕事。路面音聴調査という、漢字ばっかりでどこぞのコアバンドの和訳タイトルを想起させても、星の心音を聴いているわけじゃない。
耳を澄まし過ぎたせいか。
音を探し過ぎたせいか。
網を見て跳ぶバッタじゃあるまいに。
僕の耳は、頭の収音機を外しても音の的になったみたいに、月でウサギが餅をつく音だって、きっと聴こえている。
だから、ってこと。
「え? ええ、いい月夜(つきよ)ですね」
妙に皴のない顔だと思った。その人は、僕の返事に喜んでいた。微笑みをグラムに乗せて、言う。
「ありがとう」
ん、僕は目を擦る。母親に口酸っぱく言われていたことだけど、目を擦っちゃいけないって。でも、そう。「眠い目も?」って訊いたら、「それは許そう」って、言ってもらったから。眠いことにする。
その人は子供になってる。五月に柱に傷付けて背を測りそうなサイズの子供。袖は丁度になって、スカートは歩きにくそうだけど。
掌に何か、大事そうに持ってる。
「それ……」
ベンチの前、子供は月を見上げて、僕を見て、糸で繋ぐように誘った。
秋の肌寒い夜だ。月は色気を感じるほど、周囲の雲を淡く黄色に溶かしてパレット然としている。
「お釣りの『る』たくさん溜まったよ」
「お釣り握ってつっかけ履いたら、怖いものなんか何にもなくなるからね」
お釣りの『る』を掌に大事して、子供は歩き出す。
僕は慌てて、ベンチに仕事に使う機械と、ポケットのスマートフォンを置き去りに、追いかけた。音を探す耳に、月のウィンクが聴こえた。
深夜、車の往来がない道路の真ん中に、自動販売機がある。
子供は横向きなスキップという奇妙なステップで喜びも最高潮。近づいた僕の手を握った。
変な横向きのスキップが連結して、自動販売をグルグル囲む。
一体、何を売る、販売機なのだろう。
中身を確認しようとすると、グイ。横向きのスキップに景色が混ぜ返される。
チャリン。チャリン。
ビー。
ガチャン。
「穴の開いた『る』2枚で一本。夢色サイダー、お兄さんに貰った『る』穴開きでした」
子供はそう言い残すと、身に着けていた衣服を一枚一枚道路に脱ぎ捨てて、最後には裸のお尻を振りながら、ずっとずっと肉体を脱いで脱いで、消えてしまった。
音を探す僕の耳にはその子の喉を通る夢色サイダーの気泡が音になって跳ねていた。
振り向くと勿論、自動販売機も消えていて、僕は公園のベンチに走った。ベンチにはちゃんと仕事に使う機械とスマートフォンが置かれていて、メールにはなぜか優しい言葉で「明日、来てくれればいいから、誰も怒っていないから」と書かれていた。
僕の音を探す耳に、スマートフォンの奥から彼女の声がする。
「仕事中じゃないの?」
「そっちこそ、睡眠中じゃないの?」
「寝てたわよ、起きたの」
「ごめん」
「どうしたの? 事件?」
「かもね、ところで」
お釣りの『る』僕も欲しくて、言葉を探した。月夜(つきよる)のお釣りはあの子のだから。
っと、風が僕の前髪を触った。
「ベランダ、出てみない?」
「は? 火事?」
「ふふ」
「待ってよ、出るけど、待ってよ」
「うん」
「出るけど、UFO?」
「ふふ」
「出ました、なに?」
「夜風(よるかぜ)が気持ちいいよ」
「…………」
じっと、待った。
「待ってよ」
「うん」
「あ、吹いた、はい、気持ちいいね、夜風(よかぜ)」
「ありがとう」
電話を切った。僕の掌にお釣りの『る』
横向きのスキップで公園を抜けて道路に出たら、真ん中にジュークボックスが立ってた。
月夜(つきよ)に夜風(よかぜ)を感じたまま、僕は掌の『る』に穴が開いていないことを確認する。
お釣りの『る』一枚で星の心音を聴きたい。
チャリン。
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