狛犬

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狛犬

金曜日の宵、歓楽街のまばらな酔客たちを他所に会社からの家路につく。もう何十年も前のバブル景気の頃にはこの辺りも行き交う人が肩をぶつけ合う程の賑わいであったが不景気になり閉めた店も多くあの頃の人波も賑わいもここにはもうない。あの頃は良かった。それはちょうどバブル期に大学を出て社会人になった我々世代の悪い口癖だろうか。どの業種も好景気に湧き金が右から左へと飛び交ったものだ。それが今はどうだ。景気のいい業種など聞いたことがない。ご多分にもれず私も不景気の煽りを受けながらもあの当時の生活レベルを下げることもできずにサラ金通いをしながらしがないサラリーマンを続けている。傍からは見るからに疲れた中年サラリーマンそのものに映るであろう。ショウウインドウに映るやたら腹だけ出た自分を見てそう思った。こんなダメな大人になるつもりはなかったのだが。子供の頃に思い描いていた自分が大人になった姿とは似ても似つかない姿や暮らしぶりがそこあった。これが現実なのだ。やがて少し歩くと居酒屋が立ち並ぶあたりで先を歩く人やすれ違う人が何かを避けたり振り向いたりしながら通るのがわかった。ボクは今さっきコンビニのATMを使いサラ金から金を借り入れそこの弁当の袋をぶら下げ歩いていた。ちょうどそのあたりに行き着くと人が小さくうめき声をあげ倒れている。あまり身なりのよくない小柄な初老の男。なんのブランド物でもないであろう日焼けをし色褪せた紺色の野球帽が目立って見える。たしかに通行人が避けて通るような、言っては悪いが小汚い身なりである。ボクはとっさに弁当の入っているコンビニのその袋を投げ出し、道に倒れた男を抱き起こした。痩せているように見えるがその男の重さは思いのほか重かった。 「どうした大丈夫か?」 紺色の野球帽の老人は痩せて浅黒く日焼けした顔色が繁華街の灯りの下でも簡単に見てとれた。 「転んじゃったよ」 どこか痛そうに顔をクシャッとしかめてあちこち歯が抜け落ちたその老人は静かに言った。軽く手足などを触って確かめると幸い骨折したようなところは見受けられなかった。しかしこのコンクリートやアスファルトに転んだのでは老人ともなればたまったもんじゃないのはわかっている。野球帽からは僅かに酒の匂いがした。一杯やって千鳥足でつまづきでもしたのだろう。 「立てる?大丈夫?」 そう言って肩を貸し野球帽を立たせた。 「すまねえなお兄ちゃん」 野球帽は肘や膝を自ら摩りながらまだ痛そうな顔でボクに言った。この人からすれば40代などお兄ちゃんだろうがもう精根尽き果てた老人のようなもの だ。実際ボクは疲れていた。バブルのあとの不景気も関係し仕事を転々としながら薄給の今の職場にようやく辿り着いた。しかし人がひとり暮らせるような給料でもなくついサラ金に手を出し貧乏に輪をかけてしまった。全ては身から出た錆。自分の尻は自分で拭わねばならないのだが到底返せる筈もなかった。金があるならそもそもそんなところから借りたりしないのだし以前のように上場企業勤めであれば日々の暮らしに困ることもなかったのだがそれを辞めたのも自己責任というもの。誰のせいでもない。ようやく野球帽も落ち着いたのか体のあちこちを摩るのをやめたようだ。 「家は近いの?送るよ」 野球帽は少し痛みの和らいだ様子の顔で言った。 「あすこの居酒屋に行きたいんだ」 目と鼻の先の居酒屋に野球帽のつばを向けた。 「だいぶ酔っているだろう?もうよしなよ、遠いならタクシーを拾ってあげるからさ」 財布には今しがたそのサラ金で借りた金がいくらかある。そう遠くでもあるまいタクシー代を払ってやるつもりでいたのだが 「もう1軒あすこに寄ってから帰る」 野球帽はそう言って聞かなかった。 「じゃあそこまで肩を貸すよ、早く帰りなよ」 そう言ってわずか数十メートルであろう距離を野球帽に肩を貸して歩いた。身長はボクよりだいぶ小さく痩せているわりにやはり不思議とずっしりとまるで石の塊のような妙な重みを感じていた。1歩進むたび野球帽は、すまねえ、ありがとうと繰り返した。行き交う人はみなボクらに目を止め振り返りしていた。野球帽は色あせたグレーかそういった系統の色のよれたポロシャツに少し膝に穴のあいたような作業ズボンを履いていた。おそらくもう仕事などしていない年齢であろう。大概にこの田舎町の爺さん連中は普段着が作業服なのだ。言っては悪いがたいして金もないのだろうに年金でももらった日なのか飲みに出かけたのだろう。 「お金はある?大丈夫?」 ボクは悪気なく聞いた。手持ちもないならば思う度に禍々しいのだが先程借りた金を渡してやろうと思ったのだ。普段ボクはたいして優しい人間でもなく寧ろ冷たく薄情な方だと自認している。それが何故この野球帽を助け起こしたのか自分でもよくわからなかった。そうこう考えるうちに野球帽が入りたいと言って聞かなかった居酒屋の前まで辿り着いた。ずいぶんと時間がかかったように思えたのと一緒に野球帽がボクの肩から離れるとボクのその左肩はとてつもなく軽く感じられてならなかった。野球帽は作業ズボンの後ろポケットをゴソゴソとしたと思ったら札束を取り出した。数枚、いや数十枚それも全て万札のようであった。 「ありがとう助かった、これは少ないけれど」 そう言ってその札束から1枚ボクに差し出したのはやはり紛いのない1万円札であった。 「いやそんなつもりはないし受け取れないよ」 野球帽は無理やりにその少しくたびれたような1万円札をボクの右手に握らせると足早に店の暖簾を潜り振り返り 「本当にありがとうよ、お兄ちゃん必ず人は幸せなときがくるから腐るなよ、じゃあ、本当にありがとうよ」 そう言って店の中へと消えた。 いらっしゃいませ、おひとり様ご案内 閉まりかけの扉から、そう元気の良い若い女性の声が響いた。 なぜ野球帽はボクが今あまり幸せでないことを見抜いたのだろうか。やはり冴えないサラリーマンとひと目でわかったのか。あらためてボクは家路を急いだ。誰が待つわけでもない安アパートへと。転職を繰り返し収入が不安定になると妻の方から離婚を切り出されたのは数年前。仕方のないことだ。ボクは離婚届に印鑑を押した。ちょうど景気のいい時期に夫婦ふたりで頑張って短期の借り入れで建てた家もちょうどよくローンが終わっていた。高校生の娘を残しボクはちょっぴりのお金とほんの少しだけの身の回り品だけを持ち家を出た。育った環境も複雑で実家に身を寄せることもできなかったが幸い今の安アパートを借りることができた。しかしその暮らしというのは今までとはまるで勝手が違うものばかりであった。複雑、複雑とはいえ実家にまだいた頃は何ひとつ不自由なく好きなように暮らしていた。それは所帯を持ち家を建て親子3人で暮らしていたつい最近までそうだった。安アパートというところはおかしな連中の巣窟で物音ひとつさせぬよう神経を使わざるを得ない暮らしにも疲れていた。この暑くも寒くもないちょうどよい気候の時期でも夜がふけた今の頃は少し肌寒かった。途中神社の前を通る。毎朝毎晩ここを通るのだがこの辺は街頭もほとんどなく真っ暗で月明かりだけが頼りの寂しい道であった。その月明かりの中でちらっと何気なしに見た神社の鳥居の先に左右揃ってあられる筈の狛犬がひとつに見えた。見間違えたのだろうか。しかし引き返して確認するほどのこともない。左右二体あるはずだ。まさか夜な夜な歓楽街へ飲みに出かけるはずもなし。あまり帰りたくもない部屋へとそのまま急いだ。そういえば野球帽のおかげでせっかく買ったコンビニの弁当を放り出してきたのを思い出したがやはり引き返すことはしなかった。こういうところが今となっては貧乏人のくせに昔の金を湯水のように無駄に遣っていた頃の癖が抜けていないのだ。 翌朝ボクはかなり早く目が覚めた。正確には下の部屋の気違いの爺さんがうるさくて起こされたのだが。とにかく環境が悪いのだ。早々に越したいと思っているのだがなかなかそれにも費用がかかる。今は手持ちどころか借金まみれでそんな金はない。仕方なしにここに住んでいるだけだ。いつもより小一時間も早くにネクタイをしめ土曜出勤へと部屋を出た。頭の中では夕べの野球帽のこと、うまくいかない仕事のこと、増える一方のサラ金のことが次から次へと堂々巡りをしていた。 神社の前に通りかかるとなんだか狛犬の様子が気になりボクは鳥居をくぐった。向かって左の狛犬が鎮座する台のような石のあたりに大量の1万円札が散らばっていた。おそらく20枚や30枚はあるように思えた。ボクはそれを1枚残らず拾って全てを賽銭箱へとねじ込んだ。こんな朝早くに交番にこの大金を持ち込んだところで逆に面倒事になるような気がしたのだ。それと同時にあれは夕べの野球帽の、いやあの狛犬さんの1万円札の束だったのではないかと直ぐに察したからだ。 狛犬さんの脇には1万円札に埋もれた、ゆうべボクが野球帽を助けあげる時放り出したはずのコンビニ弁当が袋に入りそのままそこにあった。ボクはそれを手に鳥居の前で一礼をし神社を後にした。 お兄ちゃんありがとうよ 風の空耳だろうか 澄んだ空からそう聞こえたような気がした
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