黒い森のヒルダ

1/1
前へ
/7ページ
次へ

黒い森のヒルダ

 ――トントン  木製のドアにぶら下がる女性の左手(ファティマの手)を持ち上げて、2回ノックする。鈍い銀色に輝くドアノッカーは不気味で苦手だが、悪いものを退ける護符の役割があるのだという。 「お入り」  家の中から、しゃがれた声がする。あたしはそっとドアを押す。部屋の中央にあるテーブル越しに、深緑色のローブを着た老女が顔を上げた。テーブルには小瓶が幾つも並んでいる。先月の注文書に応じて、彼女が調合した薬が入っているのだ。 「こんにちは、ヒルダおばあちゃん」 「はいはい、よく来たね」 「これ、昨日咲いたの」  あたしは籠をテーブルに乗せて、魔女のシワシワの手にデイジーを渡した。 「可愛い花じゃ。お前さんみたいじゃねぇ」  彼女は空いた瓶に花を挿すと、明るい出窓に飾った。黒い魔女として人々から恐れられているけれど、あたしにはいつも優しいおばあちゃんでしかない。 「パイを焼いたでな、食べて行きんさい」 「わぁ、ありがとう!」  食料と薬、中身を入れ替えた籠を床に下ろすと、あたしは椅子に腰かける。ヒルダおばあちゃんが、こんがりキツネ色のパイとお茶を用意してくれた。 「最近、変わったことはあったかね」 「そうねぇ……リクワードの街で、貴族のお嬢様が行方不明なんだって。お役人が一生懸命探しているって、半月前に泊まったお客さんが話していたわ」  うちの宿屋は行商人の利用が多い。彼らは食事のときに他のお客さんとお喋りするので、色んな情報が飛び交うことになる。 「リクワードのお嬢様かい。そりゃあ、穏やかじゃないねぇ」  ヒルダおばあちゃんは、次回の注文書に目を落としながら、ヒッヒッと喉を鳴らす。リクワードは、オドマイヤー公爵領のほぼ中央にあり、この辺りで1番大きな街だ。あたしは噂話を聞く度に、いつか訪ねてみたいと密かに憧れている。 「おばあちゃんは、リクワードに行ったことあるの?」 「ああ」 「ねぇ、どんなところ? 屋根が空まで届く教会があるって本当?」 「さてねぇ……随分と昔のことじゃからねぇ」  身を乗り出したあたしを見詰めると、ヒルダおばあちゃんは静かに微笑んだ。ああ、ダメだ。彼女は触れたくない話題になると、いつもこんな風に笑って、口を閉ざしてしまう。 「さぁさ、そろそろ戻った方がええ。日のあるうちに、お帰り」  いつの間にか、デイジーに差していたお日様が翳っている。あたしは「ご馳走さま」とお礼を言うと、赤いフードを確り被り、籠を抱えておばあちゃんの家を出た。梢の先に覗く空は、早くも茜に色づいている。家までの細い一本道には陰が落ち、酷く頼りなく見えた。あたしは1つ息を吐いて、歩調を早めた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加