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黒い森のヒルダ
――トントン
木製のドアにぶら下がる女性の左手を持ち上げて、2回ノックする。鈍い銀色に輝くドアノッカーは不気味で苦手だが、悪いものを退ける護符の役割があるのだという。
「お入り」
家の中から、しゃがれた声がする。あたしはそっとドアを押す。部屋の中央にあるテーブル越しに、深緑色のローブを着た老女が顔を上げた。テーブルには小瓶が幾つも並んでいる。先月の注文書に応じて、彼女が調合した薬が入っているのだ。
「こんにちは、ヒルダおばあちゃん」
「はいはい、よく来たね」
「これ、昨日咲いたの」
あたしは籠をテーブルに乗せて、魔女のシワシワの手にデイジーを渡した。
「可愛い花じゃ。お前さんみたいじゃねぇ」
彼女は空いた瓶に花を挿すと、明るい出窓に飾った。黒い魔女として人々から恐れられているけれど、あたしにはいつも優しいおばあちゃんでしかない。
「パイを焼いたでな、食べて行きんさい」
「わぁ、ありがとう!」
食料と薬、中身を入れ替えた籠を床に下ろすと、あたしは椅子に腰かける。ヒルダおばあちゃんが、こんがりキツネ色のパイとお茶を用意してくれた。
「最近、変わったことはあったかね」
「そうねぇ……リクワードの街で、貴族のお嬢様が行方不明なんだって。お役人が一生懸命探しているって、半月前に泊まったお客さんが話していたわ」
うちの宿屋は行商人の利用が多い。彼らは食事のときに他のお客さんとお喋りするので、色んな情報が飛び交うことになる。
「リクワードのお嬢様かい。そりゃあ、穏やかじゃないねぇ」
ヒルダおばあちゃんは、次回の注文書に目を落としながら、ヒッヒッと喉を鳴らす。リクワードは、オドマイヤー公爵領のほぼ中央にあり、この辺りで1番大きな街だ。あたしは噂話を聞く度に、いつか訪ねてみたいと密かに憧れている。
「おばあちゃんは、リクワードに行ったことあるの?」
「ああ」
「ねぇ、どんなところ? 屋根が空まで届く教会があるって本当?」
「さてねぇ……随分と昔のことじゃからねぇ」
身を乗り出したあたしを見詰めると、ヒルダおばあちゃんは静かに微笑んだ。ああ、ダメだ。彼女は触れたくない話題になると、いつもこんな風に笑って、口を閉ざしてしまう。
「さぁさ、そろそろ戻った方がええ。日のあるうちに、お帰り」
いつの間にか、デイジーに差していたお日様が翳っている。あたしは「ご馳走さま」とお礼を言うと、赤いフードを確り被り、籠を抱えておばあちゃんの家を出た。梢の先に覗く空は、早くも茜に色づいている。家までの細い一本道には陰が落ち、酷く頼りなく見えた。あたしは1つ息を吐いて、歩調を早めた。
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