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忙しい朝
「ミア! いつまで寝てるの!」
突然の雷に薄く目を開けると、ママが部屋に入ってくるところだった。
「あっ……ママ」
白いブラウスと黒のロングスカートの上にエプロンを付けて、長い髪をきちんと束ねている。見慣れたいつもの格好だ。
「あら! 食べなかったの?」
「ごめんなさい。疲れて、眠っちゃった」
「そう。ほら、起きて」
大人しくベッドの縁に腰かけると、首に付けたままのチョーカーを外してくれた。あたしを叩き起こしはしたものの、ママが怒っている様子はない。
「昨夜は満室だったからね。顔を洗って、朝食の準備を手伝って頂戴」
「はい、ママ」
ママは手付かずの夕食を持って台所へ消え、あたしは裏口を出る。お日様が眩しい。深呼吸して澄んだ朝の空気を肺に入れると、燻っていた眠気がスーッと溶けた。冷えた井戸水で顔を洗って、屋内に戻る。
十数人分の朝食を調理するママは大忙しで、台所は戦場と化していた。あたしも急ぎテーブルを拭いて、椅子を並べ直す。
コツン、と爪先になにかが当たり、壁際まで転がった。それは乳白色の小さなボタンのようで、目を凝らすと、中央に弓と馬のような模様が薄く刻まれている。あたしは咄嗟にポケットに入れた。
「おはよう、お嬢ちゃん」
「おはようございます」
2階から、浅黒く日焼けした男たちが下りてきた。背の低い髭面のオジサンと、背の高い若者だ。オジサンだけがテーブルに着いた。
「おいヨゼフ、ペテロたちがまだだ。起こして来い」
「あいよ、兄貴」
若者が席を立ち、階上に消える。
「お嬢ちゃん、4人分まとめて持ってきてくれるかい」
「はっ、はい、ただいま……」
あたしはペコリとお辞儀して、台所に駆ける。胸がドキドキして止まらない。
「ペテロ」に「ヨゼフ」――昨夜、ママと話していたのは、この男たちだ。
動揺を誰にも悟られないよう笑顔を貼り付けて、4人分の朝食を次々と運ぶ。ソーセージと目玉焼き、ポテトが乗ったプレートに、野菜スープの皿、それと焼きたてパンが盛り付けられた籠。
程なく、若者が似た年格好の男たちと戻ってきて、席に着いた。他のお客さんも次々にやって来たので、食堂は一気に賑やかになる。あたしもクルクルてんてこ舞い。お陰で余計なことを考えずに済んだ。
食事を終えると、お客さんは次々に出発した。お客さんが全ていなくなると、ママは夕食の仕込みに入る。あたしは食堂と客室の清掃。汚れたシーツを抱えて1階に下りると、ママが帳簿をパタンと閉じた。
「夕方まで、少し休むわ。あとは頼むわね」
「ええ。お休みなさい、ママ」
あたしの髪にキスを落とすと、ママは2階に上がっていった。
裏庭で、大きなタライに水を張って洗濯を始める。降り注ぐお日様を浴びながら、大好きな石鹸の香りに包まれて、小鳥のさえずりと一緒にハミングすれば、シーツの汚れはきれいサッパリ流れて消える。あたしの心に出来た染みも消えて白くなればいいのに。
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