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危険なお使い
「ミア! ミア、どこにいるんだい!」
裏庭の井戸から戻ると、ママがあたしを呼んでいた。額の汗を拭って空を見上げる。お日様は、てっぺんから少し西に傾いた辺り。ああ、もうお使いの時間なのね。
「ミアっ!」
「ここよ、ママ。水汲みをしていたの」
2階から降りてきたママは、普段と違う真っ黒なロングドレスに身を包んでいる。広く開いた襟ぐりが張りのある胸を強調し、引き締まった腰の括れから豊かなヒップラインへと視線を集める若々しいデザインだ。実際、あたしのママは若いのだ。肌にはシワもシミもないし、腰までの緩やかに波打つブロンドは艶やかで、白いもの1本見当たらない。今年14になるあたしを、女手ひとつで育てているとは信じられない程だ。
「早く森へ行って頂戴。急がないと、満月が昇るまでに帰ってこられないよ」
「はい、ママ」
あたしの家は「金の仔羊亭」という名の宿屋だ。バルゥド村の外れで、黒い森との境界に建っている。1階には食堂とあたしの部屋があり、2階に客室が6部屋とママの部屋がある。この宿屋は、ママとパパが2人で始めたけれど、パパはあたしが4つになる前に森で銀色の狼に襲われて死んでしまったそうだ。
「ほら、おいで」
あたしはママに駆け寄り、クルリと背を向けて、栗毛色のお下げ髪を持ち上げる。首にしっとり冷たい感触があり、小さくカチリと音がした。御守りの付いた革製のチョーカーを嵌めてくれたのだ。
「いいかい。森の中では、絶対にフードを脱いじゃいけないよ」
「ええ、ママ」
「約束を破ったら、命はないよ。それはそれは恐ろしい銀色の狼が、お前を狙っているんだからね」
「分かっているわ。大丈夫、今日もいつも通り帰ってくるわ」
あたしは振り返ると、ママを見上げて微笑んだ。ママの真っ赤な唇も弧を描く。
「おお、私の愛しいミア。美味しい食事を用意して待っているからね」
「ありがとう。行ってくるわね、ママ」
ママの抱擁が終わると、あたしは自分の部屋に寄り、赤いフード付きのローブを纏う。それから、調理台の上に置かれた籐の籠を抱えて、裏口から外に出た。裏庭で、昨日咲いたばかりのデイジーを数本摘んで、籠に入れる。籠の中には、赤ワインとライ麦パンとチーズ、ジャムとピクルスの瓶詰め、そして大切な注文書が入っている。
裏庭の木戸を潜ると、巨木が立ち並ぶ深い森の奥へと細い一本道が続いている。森の木々は、両手を広げるように枝を伸ばしてお日様を遮るから、昼なお仄暗い。それでも、この森では木の実やキノコ、貴重な薬草が豊富に採れる。なのに、森に近づく者はほとんどいない。
なぜなら、この森には人間を食べる恐ろしい狼がいるし、更に恐ろしい黒い魔女が棲んでいるのだ。黒い魔女は、悪い人間を操って人間をさらわせると、魔術の糧にするという。実際、近隣の町や村では子どもや若い女性が何人も消えている。彼らを探しに来た大人も、森に足を踏み入れた狩人も、行方不明者は後を絶たない。
そんな恐ろしい森に、あたしは月に一度、お使いに入る。あたしが無事でいられるのは、特別な“お使い”を意味するチョーカーを付け、人さらいから姿を隠す魔法のローブを着ているお陰だ。
けれども、夜には狼が出る。狼にはローブの魔法は効かないから、月が昇るまでにお家に帰らなくちゃいけない。
さぁ、あと少しだ。一本道の突き当たり、森の最深部に棲む黒い魔女が、あたしの訪問を待っている。
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