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犬のフェイスマスクのくり抜かれた眼窩から涙が零れる。 レコードが奏でる歌声も男の開花した欲望に呼応して歓喜の色を帯びていく。 曲はバラ色の人生( La vie en Rose )に変わっていた。 白い手が男の股間を弄る。 徐々に照明が揺らぎ、理性が肉体から離脱して喘ぐ自分を見下ろしていた。 ああ── 男はその時支配者をも見下ろしていた。 肛門の快楽から意識は瘡蓋のように剥がれ過去へ羽ばたく。 ピアフの歌声だけが追いかけてくる。小さな歌姫ピアフと指を絡め旋回する。 支配者は鞭を放り投げ、男の背をオットマンに見立て長い脚を組んで載せた。 暫くして葉巻の白煙が立つ。室内が香りで満たされていく。 男はこの香りを知っていた。 キューバ産のモンテクリストNo4。コーヒーとチョコレートの味わいで癖がない。苦みやコクの強いものだと噎せてしまう。 芳ばしい木とナツメグのほのかに甘い香り。 金持ちを象徴するファッションアイテムとして葉巻を咥えていただけの男にはちょうど良かった。それにチェ・ゲバラも愛したというエピソードも気に入っていた。
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