ねぇ、もう一足、サンダル買おうか。

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 鍵を取り出す手元が覚束ない。怒りと困惑。悲しみはない。辛くもなく、ただ納得がいっていない。それだけ。  雑にパンプスを脱ぎ捨てる。フローリングのひんやりとした感触がストッキング越しに伝わってきて、眉を顰めながらドアノブに手をかけた。  間接照明の淡いオレンジ色の光に包まれて、アリサは足先を鮮やかに彩っている。  「おかえり」  「うん」  「……なんかあった?」  「彼氏に振られた」  口に出しても、案外傷ついてはいない。それが喜ばしいことなのかも分からない。たぶん、こういうところがダメだったんだろう。  ラグの上に鞄を放り投げる。ジャラジャラと、中身たちが盛大にぶつかる音がした。  「え、てか彼氏いたの?!」  「……そんなに意外?」  「だって全然、そんな素振りなかったし」  アリサがそんなに驚いているところ、初めて見たかもしれない。それでいて手元は狂うことなく、繊細な動きを保っている。さて、興味があるんだかないんだか。  「慰めいる?」  「……なんで?」  「……ヒマちゃんさぁ、もしかして『俺のこと本当に好きなのか分からない』みたいな理由で振られてない?」  「え、なんで分かったの」  「やっぱりねぇ」  ぱちぱちと目を瞬かせる私に、おいでよ、とアリサがポンとソファを叩く。ジャケットを脱いで、けれどハンガーにかけるほどの気力もなかったから、手に抱えたままソファに倒れ込んだ。かけた体重の分だけ、緩やかに沈んでいく。  「ストッキング脱いで」  「うん」  理由も聞かず、従順に手を伸ばしたことに驚いた。いつの間にか、アリサにそれほど心を許していたのか。するすると太ももから足先までを滑り抜けて、残骸とジャケットを鞄の近くに放り投げた。  「お行儀悪いよ」  「うるさいなぁ」  形だけの説教は柔らかく、疲れ切った足先を優しく持ち上げられた。ひんやりとした感触が爪に乗る。ふぅ、と詰めていた息を吐き出した。  「あのね」  「うん」  「会わない期間が続いた時って、今なにしてるのか訊かなきゃいけないらしいよ」  「うん」  「なんだ、知ってたの」  私はわざとらしく腕を伸ばして、全身の筋肉が伸びきっていくのを感じながら、ゆっくりと息を吸った。  お味噌汁の、匂いがする。  「豆腐?」  「ん……あぁ、うん。あとわかめと油揚げ」  「最高じゃん」  「お腹空いた?」  「うーん……」  お腹は空いていたし、いっぱいでもあった。心のどこかがキュウ、と痛みを訴えているような気がする。私はまだ、ちゃんと傷つくことができるのか。そうでなければ、きっと困る。  「私の言い分としてはね」  「うん?」  「彼は頻繁にSNSを更新している人だったから、どこで何をしているのかは粗方把握していたんだ。だからわざわざ突き詰める必要もなかったし……興味も、なかった」  「でもヒマちゃん、アタシにはよく連絡くれるよね。今どこ? とか、何してるの? とか」  「そりゃあね。だって帰ってくるんならドアチェーンかけるわけにはいかないし、ご飯も家で食べるなら作って残しておけるし」  「必要があるから?」  「そう」  「じゃあアタシとの同居が終わったらさ、どうなる?」  「……一緒にいる理由がなくなったのなら、連絡は取らないかもしれない」  曖昧な言葉であることを自覚して、黙った。足先が、アリサのそれと同じ赤色に染められていく。あまり派手な色は好きじゃないけれど、文句を言う気にもなれなかった。  「アタシのこと彼氏に話したの?」  「言ってない」  「どうして?」  「一緒に住むのは私であって、彼には関係がないから……?」  「ていうか、その彼、ここに来てた?」  「ううん。でも、たまに家を空けることあったでしょう。その時に彼の家に泊まりに行ってたけど。そもそもちょっと遠いところに住んでいるから、あんまり会わなくて」  「まさかとは思うけど、振られた理由にアタシの存在が関係してたりしないよね?」  「それはないよ」  「あぁ、そう。よかった」  存外、どうでも良さそうな口調だった。私の爪を彩ることに集中しているのかもしれないし、ただ単に興味がないのかもしれない。分からない。アリサのことは、なんにも知らない。  次、反対の足ね、と右足が持ち上げられる。左足には、ムラのない綺麗な赤が咲いていた。  「これ終わったらさぁ」  「うん」  「飲もうか」  「でも、ご飯は?」  「あんまり食べる気にならないんでしょ」  「……うん」  鼻が慣れてきたのか、鼻腔を擽る温かい匂いは薄くなってきている。空きっ腹にお酒はよくないと聞いたことはあるけれど、この際もうなんだってよかった。  「仕方ないから、アタシの大切なストックから一本分けてあげるよ」  「それはどうも。……明日、買って帰るよ」  「わ、ラッキー。一ダースね」  「ダメ。飲み過ぎ」  「じゃあ七」  「一」  「五」  「……」  「……三」  「……ハァ、分かった。三本ね」  手が塞がっているからか、アリサは上半身をくねらせて喜びを表現していて、それがなんだかくだらなくて笑ってしまう。揺れるから笑わないでよ、と無茶苦茶な苦情が飛んできて、左足でアリサの横腹をつついた。  「ちょっと」  「それ、そんなに真剣にしてくれなくてもいいよ」  「うん。でも、足元が綺麗だとテンション上がるでしょ。お風呂入る時とかさ」  「……そうだね」  できたぁ、と間延びした声が完成を告げる。グッと伸びをするアリサに口先だけの労いの言葉をかけて、両足をパタパタとばたつかせた。うん、綺麗だ。もしかしたら、アリサはネイリストだったのかもしれない。それを訊く気はさらさらないけれど。  「先、ベランダ出といて」  「うん」  足先をぶつけないように気をつけながら掃き出し窓のそばへ向かう。手をかけて引けば、夜風が部屋の中へ流れ込んで来た。  シャワーサンダルを履いて振り返る。片手に缶を二本持って、もう片方の手に靴を持ったアリサが見えた。もう一足、ベランダ用のサンダルを買ってもいいかもしれない。  「虫入るから、早く」  「分かってる。……寒い?」  「ううん。大丈夫」  缶を一本受け取って、ステイオンタブに指をかけた。プシュ、と炭酸の圧力が逃げていく音がして、アリサのそれと軽くぶつける。  「かんぱーい」  「乾杯」  控えめに一口飲んだ私とは対照的に、アリサの喉は勢いよく上下している。これはすぐに二本目に移るのだろう。同居してから早数ヶ月。酔ったアリサの介抱という部分では、もう五回ほど痛い目を見ている。  「飲み過ぎないでよ」  「ヒマちゃんはね、もっと飲みすぎた方がいいよ」  アリサの声は丸く、優しい。私の名前が陽毬(ヒマリ)だからヒマちゃん。アリサがその音を声に乗せるたび、数時間前まで恋人だった男を思い出す。律儀に、今も。  アリサは不意に空を見上げて、わぁ、と感嘆の声を漏らした。  「見て、ヒマちゃん。アタシ達が初めて会ったのも満月の日だったよね」  「三日月でしょ」  「え、違うよ。満月!」  このやり取りも、三回目を過ぎた辺りから数えるのをやめてしまった。あの日アリサは、今はストレートに下ろしている髪を派手に巻いていて、ピンクの煌びやかなドレスを着て、そして裸足のまま全力疾走していたところ、私とぶつかった。そのままなぜか巻き込まれて、月明かりの下をひたすら走った。何から逃げていたのか、結局鬼の姿を見ることはなく、そうして不思議なことにそれから私の家に住みついている。あの日の私は仕事に忙殺されて、たぶんかなり正気じゃなかったんだろう。  住所不定。年齢、職業共に不詳。アリサは、そういう女だった。とはいえ家賃、食費、光熱費などはキッチリ半額支払われているので、さして問題はないのが問題というか。  「そういえばさ」  「なに?」  「会社の人にね、リモート飲み会やろうよって言われて」  「へぇ。いつ? アタシどっか行っとくよ」  「いや、断った。同居人がいるからって」  「……それ、ただ面倒くさかったからアタシを口実にしただけでしょ」  「バレた?」  便利な三文字だ。でも、確かに便利だったけれど、それ以上に厄介な三文字でもあった。  肘を置いていただけのベランダの柵に体重をかけて、あの時の先輩の言葉を思い出す。  「同居人って言っちゃったもんだからさ、男と同棲してるの? って興味持たれちゃって」  「あー」  「で、男じゃなくて女ですって言ったらさ、友達とシェアハウスしてるってこと? って」  「うん」  「別に、そこで頷けばよかったんだろうけどさ……」  「ヒマちゃん真面目だからなぁ」  「うん。友達ではないです、って言っちゃって」  先輩の、まるで難問にぶち当たったかのような難解な顔が浮かぶ。それまで興味がなさそうに隣で書類をコピーしていた同期の視線も、確かにあの瞬間は感じていた。  「じゃあ、恋人? って」  「うん」  「もちろん、違いますって言ったよ。そしたらますます訳が分からないって顔して、じゃあ、どんな関係なの? って」  「まぁ、そうなるだろうね」  「私、言葉に詰まっちゃって、結局答えられなかったんだよなぁ」  友人ではないし、恋人でもない。他人と言うには遠すぎて、家族と言うには近すぎる。  もしもアリサが死んだら、私はきっと悲しむだろう。だけどこの家を出て行った時、アリサがどこかで息絶えても、私に連絡が来ることはない。  『互いに干渉しないこと』。同居をするにあたって取り決めたルールは、たった一つ、これだけだ。  「同居人、だよ。アタシ達は。それ以上でも以下でもない」  「うん」  「……名前なんて、無理につけなくたっていいでしょ」  アリサと私は、まるっきり正反対の人間だった。もしも学生時代を共にしていて、クラスメイトだったとしたら、私はアリサを敬遠していただろうし、アリサも私に興味は示さなかっただろう。  そんな私達が肩を並べて缶を傾けている。そんなことがある日突然起こってしまうから、人生ってよく分からないな、と思う。  「ねぇ、この生活が終わるキッカケってなんだろうね」  「……アリサが結婚する時?」  「えー。それはたぶん、すっごい先の話だよ?」  「うん。……別にまだ、もうちょっといればいいよ」  顔が熱い。慣れないことを口走ってしまったからか、それともアルコールが回ってきたのか。後者だと思い込んだ方が楽な気はするけれど、逃げているようで居心地が悪い。  「……もし二人とも、この先ずっと独り身だったらさぁ」  「うん」  「付き合う……ことは、まぁないけど」  「そりゃあね」  「一緒に生きていくのも、楽しいかもね」  口調は軽くて、本気ではないことだけが伝わった。だけど、私もそうだ。期間限定の同居人。そもそも始まりが突然だったのだから、終わりも突然やって来るのだろう。互いのことをなにも知らなくて、深く立ち入りもしない。だからこそ心地いい。だから今は、隣にいる。  アリサは今もよく夜に家を出ていくことが多いし、たぶん、独り立ち出来るくらいのお金を稼いでいる最中だ。それで構わない。むしろ、その方がいい。そうで無くなってしまったら、取り返しのつかないことになりそうな気がした。本来、私達は、一緒にいるようなタイプじゃない。  「2本目。いい?」  「うん」  アリサが部屋に戻って行って、一人でまた空を見上げた。やっぱり私は三日月だったと思うのだけれど、まぁ、そんなことはどうでもいい。  遠くの方に繁華街の光が見える。あの時キャッチの声を無視せずに少しだけ捕まってやっていたら、アリサとはぶつからなかったのだろう。そんな風に動き出した思考が、窓を引く音に掻き消された。  「はい、これ」  「ありがと」  カーディガンを手渡されて袖を通す。振り返ると、先ほど脱ぎ散らかしたジャケットがきちんとハンガーにかけられていた。ダメだなぁ、と気分が沈む。ずっと一人でいたのだから、二人でいることに慣れてしまったら、きっとこの先困るだろう。  月は煌々と浮かんでいる。その輝きに、いつかの彼の言葉を思い出した。ふと隣を見遣る。アリサは、アリサだったらなんて言うのだろう。  「アリサ」  「ん?」  「……月。月がさ、綺麗だね」  「うん。そうだねぇ」  アリサの声は穏やかで、温かくて、あぁ、そういうことか、と思った。私の台詞とアリサの台詞は、大してなんら違いはない。明確に違うのは、感情というか、気持ちそのものだった。共感。寄り添い。そういう優しいものが、アリサの声には滲んでいる。たぶん、あの時の私にはなかった。ただ同調しただけ。ただ言葉を返しただけ。大事なのは言葉じゃなくて、それに乗る声そのものだったのかもしれない。  「……私、ちゃんと好きだったはずなんだけどな」  「その、さっき言ってた彼氏の話?」  「うん。そう思っていたし、そう信じていたんだけど……なんか、違ったのかなぁって思わされたというか」  「ヒマちゃんはさ、ちょっと不器用なだけなんじゃないかな。たぶん、ちゃんと愛だったと思うよ。その人に対しても、アタシに対してもね」  「……そう、なのかな。私、愛情とかそういうの、ずっとよく分かんなくて」  「うん、たぶんね。だって愛にはいろんな種類があるでしょ。……ヒマちゃん、次の人とはさ、上手くいくといいね」  うん、と煮え切らない音が漏れた。本当に、そうだと思う。上手くいけば、きっといいんだろう。  それからは、もっと他愛のない話をした。右隣の部屋からカレーの匂いがすること、私が帰って来る少し前、左隣の部屋のカップルが言い争う声がして、彼女の方が出て行ったらしいこと。能天気に三本目を取りに行こうとするアリサを随所で止めながら、落ち着いた時間を過ごしていた。  そんな、ほんのちょっぴり、私にも酔いが回り始めた頃だった。  「あのさ」  不意に、アリサが震えた声を出した。夜風に当たりすぎて冷えてしまったような声ではなくて、ほんの少し、緊張しているようにも感じられた。  「アタシの名前、知りたい?」  一瞬、言葉に詰まった。それはたぶん言葉の内容にではなくて、アリサが明確に線を超えてきたことに。アリサというのは彼女自身がそう名乗っただけのものであって、それが本当かどうかを確かめる術も理由も、本来ならなかった。  「……知ってるよ」  「え?!」  「免許証、机の上に置きっぱなしにしてたことあったでしょう。たまたま目に入って」  「……なんだ、知ってたの」  真似しないでよ、と鋭くもない声で咎める。一瞬張り詰めた空気はすぐに雲散した。本人がそう言うのなら彼女の名前はアリサでなければならなかったし、だから今の今まで、忘れかけてすらいた。  「どう思った?」  「なにが?」  「アタシの名前」  「どうって言われてもな……」  「アタシはね、なんて言うのかな……やっぱり、どこまで行ってもヒマちゃんとは正反対なんだなぁ……って思ったよ」  どんな言葉を返せばいいのか分からなくて、返事の代わりに缶を傾けた。一口分をゆっくり飲み込んで、それだけでは大した時間稼ぎにもならないことに気付く。  「アタシの名前覚えてる?」  「……真夜(マヤ)、でしょ」  「うん」  口にしたのは初めてだ。そのたった二文字が、なんだか禁断の呪文のようにも思われた。彼女の心に直接触れてしまったような、そんな罪悪感みたいなものが確かにあった。  「ヒマちゃんが決めていいよ。どっちで呼ぶか」  「……そんな、簡単に決められないよ」  「……そうだね」  「少し、考えさせて」  「うん」  それからしばらく、私も彼女も何も言わなかった。二人の間を流れる空気こそ穏やかだったけれど、夜の静けさも相まって、なんだか底冷えするような気持ちを抱く。  答えを出すことは憚られた。どちらにしても、後悔しそうだったから。……傷ついている。傷ついているというか、心が不安定で、たくさん隙間ができてしまったような。彼に振られたことが原因ではないことだけがハッキリと分かって、なんとも言えない気持ちになった。  もう一度空を見上げた。やっぱり、満月だったような気もして来る。  ポツリと、感情が落ちる。  「……お腹空いたな……」  「味噌汁、温めようか」  「……うん」  すっかり空になった缶を持て余しながら、先に部屋に戻った彼女に続くことを、少し躊躇う。  呼び方を決めること、それは即ち、私の中での彼女との関係を明確にしてしまうことだ。ここで止めるか、これからを望むか。どちらにしても、終わりは来るだろう。  それが惜しくて答えを出せずにいること、それが私が彼にあげられなかったものなのかもしれない。  そう思うと全てのことがどうでもよくなって、どうでもいいというか、なんだっていい気がして、慌ただしくサンダルを脱ぎ捨てた。  親愛。友愛。情愛。信愛。いろんな言葉が浮かんだ。どれを取ってもこれが愛なら、目一杯今を楽しんでやろう。二人でベランダから月を見上げて、満月だの三日月だのくだらない論争をして、そうして缶をぶつけ合いたい。それが出来れば十分だ。  コンロに火をつける背中に向かって、彼女の名前を、呼んだ。  「ねぇ、もう一足、サンダル買おうか」
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