あの月で、また会いましょう

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私は嫌われ者だ。 なぜなら、臭いから。 人間からも動物からも昆虫からも、 避けられ続ける運命。 どうして、私はカメムシなんだろう。 目立たなくてもいい。 ひっそりと生きて行ければそれで良かったのに。 今日も、どこで時間を潰すか考えている。 向こうの白い壁に引っ付くか、あっちに見える光の方に飛んでみるか。 どこに行っても、そう変わりはない。 見つかれば、怪訝な顔をされるだけ。 そんな私も、意外とロマンティックな部分もある。 月夜を見上げて思う。 「恋に落ちてみたい」 カメムシだって、いろんな夢がある。 でも、私の運命はもう決まっている。 来春までに、近くのカメムシの中から相手を選んで、交尾して産卵して死んでいくだけ。 誰にも言えないけど、本当は産卵なんかどうでもいい。 私は嫌われた上に、産卵するためだけに生まれてきたの? そんなの嫌だ。 恋の相手がカメムシでもいい。 でも本当は、そんな縛りなく、たまたま出会った人と恋に落ちたい。 運命の出会いを果たしてから、あの世に旅立ちたい。 そんな事を考えながら、恋の歌を口ずさみながら飛んでいく。 そしたら、壁にぶつかってしまった。 そして 、真っ逆さまに真下に落ちた。 「痛っ」 私は、道に落ちていた箱の中にいた。 蓋の隙間から、箱の中に滑り落ちてしまったようだ。 外に出ようとしても、ツルツルしていて出られない。 「もうダメだ」 諦めかけたその時だった。 「大丈夫ですか?」 上の方から、声が聞こえた。 「大丈夫とは言えないかも。 あっ、あなたは誰?」 「僕は、ただのカナブンです。 あなたの歌声が素敵だったので、ついつい後を追ってきてしまいました。 こんな時に言うことじゃないけど、あなたの声、大好きです。 僕はカナブンで、あなたはカメムシで、どうしたらいいのか分からないけど、とにかく、あなたが好きです」 少し照れくさそうにそう言うと、カナブンさんは私を助けようと手を伸ばした。 箱の隙間から差し込む月の光で、うっすらと顔が見える。 目が合った時、私の心臓は高鳴った。 そう、私は恋に落ちたのだ。 今まで感じたことのない、幸福な気持ちに心が覆われた。 でも、頭のどこかで考えている。 「あの人はカメムシじゃないのよ。 これから、どうするの? 分からない。分からない。 一緒にいたいだけ」 私は、カナブンさんの方に手を伸ばした。 なかなか、手が届かない。 カナブンさんは、体を前のめりにして手を伸ばした…その時だった。 「うわっ!」 カナブンさんが足を滑らせて、私の上に落ちてきた。 その衝撃で私の体が反応し、足の付け根から匂いの元であるアルデヒドが分泌されてしまった。 最悪だ。 とてつもない匂いが狭い箱の中に充満した。 強烈な匂いで、私の意識が少しづつ遠のいていく。 そうカメムシは、自分の匂いで気絶し死ぬ事すらあるのだ。 「ごめんなさい! こんな臭い匂いを嗅がせてしまって」 泣きそうになりながらカナブンさんを見ると、カナブンさんはひっくり返っていた。 「大丈夫ですよ。 落ちたおかげで、あなたのそばに来れたのだから」 カナブンさんは、優しい笑顔でそう言った。 私は、離れたくない気持ちを抑えて言った。 「あなただけでも、早く逃げてください! 私の匂いは、臭いだけじゃなくて毒なんです。 命すら奪うんです。だから早く…!」 それを聞いたカナブンさんは、そっと私の手を握った。 「私達カナブンは、ひっくり返ると自分で起き上がる事が出来ないんです。 すなわち、ひっくり返る=死、なのです。 どのみち、もう死ぬだけです。 だから、何も気にしないで。 僕は幸せです。 あなたと一緒に死ねるんですから」 私も、カナブンさんの手をギュッと握り返した。 とても温かい手。 でも、カナブンさんの手から徐々に力が抜けていくのが分かった。 私達の、短くも輝きに満ちた人生が終わろうとしていた。 私の目に映る最後の光。 箱の隙間から差し込む、月の光。 「カナブンさん、あの月でまた会いましょう。 一緒に、広い夜空を飛び回りましょう」 恋の歌が頭の中で流れる。 その音は、次第に小さくなり、そして消えた。
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