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最後のお客様が、会計を済ませて店を出る。
「ありがとうございました」
私は満面の笑みで、背中しか見えていないお客様に深々と頭を下げる。
『もうすぐ終わりだ』
心の声が、私の頭の中でこだまする。
頭を下げ続ける私は、お客様が見えなくなった瞬間にシャッターを降ろして、店内の片付けに取り掛かる。
満面の笑みはオフモードへと切り替わっていた。
「美穂ちゃんおつかれ」
店の奥から里美さんが出てきた。
「おつかれさまです。ここを片付けたらあがりますので」
「そこまで片付けなくても大丈夫よ。それよりも売れ残ったケーキ一緒に食べない?余らしても仕方ないから」
「いいんですか。すいません」
里見さんの言葉に甘えて、私はケーキが用意されてる奥の部屋へと移動した。
私はパティシエ見習いとして、このケーキ屋で働いている。
経営者は里見さんで、私がここで働くまで、この店を一人で切り盛りしていた。
『少しでも役に立っているのだろうか』
私はそんな想いを持ちながら、日々ケーキ作りに奮闘している。
「今日も忙しかったですね」
「そうね。もう一人レジ係を雇えば、気持ちにも余裕が持てると思うんだけど、経済的にちょっとね」
「あんなにたくさん売れたのに、厳しいんですか」
「材料費が高騰してるからね。それでも黒字だから大丈夫よ」
里見さんの言葉に、私はホッとする。
「それよりも、美穂ちゃん考案の仔犬ケーキが好評なのよ。ありがとう」
「いいえ、とんでもないです。あのケーキは里見さんの手解きがなければ完成しませんでした。私こそ里見さんに感謝です」
「手解きかぁ。そう言われたらそうだけど、あれね、実家にいる犬がヒントになったの」
「えっ、そうなんですか」
私は目を丸くする。
「そうなの。美穂ちゃんが作った仔犬ケーキを初めて見た時、なぜか実家にいる犬に似ててね。それで技術を教えるのと一緒にちょっと変えたの。ごめんね美穂ちゃん、けどあのケーキは美穂ちゃん考案で出来たものだから感謝してるわ」
里見さんが私の作ったケーキを褒めてくれた。
気になる発言もあったが、それ以上に里見さんの実家にいる犬のことが気になった。
「実家に帰ったら、その犬に会えるんですね」
私は里見さんに訊いてみる。
「実家に帰りたくないな」
意外な言葉が帰ってきた。
「両親と喧嘩でもしたんですか?」
「それはないけど」
「だったら帰ったらいいじゃないですか」
そう言って、私は里見さんに詰め寄る。
「実家に帰ると結婚の話になるのよ。しまいにはお見合いでもどうだとか言われて、気が重くなるわ」
「その気なければ、軽く聞き流せばいいじゃないですか」
「そうも言ってられないの」
「どうしてですか」
「自治会の集まりで、近所のおじさん達が自分の孫を抱いて来るんだって。それに対して、私のお父さんは犬を抱いていくのよ。しまいには、その犬をみんなに見せて『かわいいだろ』って言ってくるんだからたまったもんじゃないわ」
「………。」
重たい空気が流れる。
「ごめんね、変なこと言っちゃって、ケーキ食べて明日も頑張ろう」
そう言って、里見さんは売れ残ったケーキを食べ始めた。私も後を追うように食べ始める。
お互い無言で食べているのか、空気がさらに重くなる。
「ご馳走様でした。また明日よろしくお願いします」
ケーキを食べ終えた私は、片付けを済ませて店を出る。
「ありがとう、美穂ちゃん」
そう言ってきた里見さんに、私は一礼をして、自宅へと歩き始めた。
里見さんはとても良い人だ。
パティシエとしての腕も良いと思うし、とても優しく接しやすい。
一人でケーキ屋を立ち上げ、経営者としてもすごいと思っている。
だけど、恋愛運や結婚運が悪いのか、そっちの方に縁がないのもなぜか頷けてしまう。
『里見さん、ごめんなさい』
私は心の中で謝罪する。
この謝罪は、里見さんに面と向かって言うべきなんだけど、絶対に言えない。
だって、仔犬ケーキのモデルは里見さんだから。
里見さんの似顔絵風にしようと思ったら犬っぽくなって、それを里見さんが実家にいる犬に仕上げてしまったなんて、とてもじゃないけど言えない。
『里見さんと里見さんの実家にいる犬は似ている。里見さんのお父さんは、里見さん似の孫を想像して犬を抱いているのだろうか』
想像しただけでゾッとした。
「絶対に墓場まで持っていこう」
そう言い聞かせながら、私は家路へと急いだ。
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