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見渡す限りの大海原が真っ赤に染まる。沈みゆく太陽が、今日という日の終りを告げようとしていた。
そのパノラマ景色を、窓越しに眺めるリンタロウは、船旅を心から愉しんでいた。風光明媚は、疲れがちな現代人に効く。何度見ても飽きないと思う。
そんな彼の傍らには愛妻のユリが寄り添う。これは単なる旅行ではなく、長期間のハネムーン。今のリンタロウはまさに、幸せの絶頂期にあると言えた。
「良い夕焼けだね」
バルコニーの外は絶景だ。どこを見ても地平線で、視界を遮るものは何もない。母なる海を我が物顔で疾駆する体験は、未知なる快感を伴った。
隣のユリも、たおやかに微笑んでは同意する。
「素敵よね。ここまでキレイな景色って、初めて見るかも」
「僕もだよ。中々お目にかかれるものじゃない」
「本当にありがとう、リンタロウ」
「船旅をチョイスした事?」
「それもだけど、私なんかと結婚してくれた事。こんな幸せが手に入るなんて、少し怖いなって思う」
「大げさだな。僕はごく平凡な男だよ」
「でも、凄い血筋だって聞いた事があるの」
「凄かったのはもうホント、遥か昔の事さ。それにウチは分家も分家でね。しがらみとか、役得みたいなものは全然ないよ」
確かにリンタロウの祖先は、偉業を成し遂げたという事実がある。しかし彼は、自分と無関係であると常々感じていた。そもそも何を成し遂げたかすらも知らない。
幼き頃、曽祖父から何か聞かされた覚えはある。しかし肝心の内容はというと、全てが記憶の彼方だ。
大人になるまで気にも留めなかったし、今現在まで、知らずに困ることも無かった。やはり自分の人生とは関係ないのだと、リンタロウは思う。
「ユリ。こちらこそ、気持ちに応えてくれるとは思わなかった。望外の喜びだよ」
「そう……。私はこんなにも醜いのに。どこを気に入って貰えたのかすら、分からないけれど」
ユリは伏し目がちに自虐の弁を語るが、実際は真逆である。絶世の美女、あるいは傾国の美女とも呼べる程の美貌を誇る。この船に寝泊まりする間でさえ、男連中の視線を嫌になるくらい集めたものだ。
更に言えば、外見だけでなく高い知性も魅力的だ。知識が豊富というタイプではなく、洞察力に優れるタイプだ。まさに才色兼備を体現した女性だった。
それなのになぜ、ここまで卑屈なのか。リンタロウとしては気になった。何か人に話せない秘密があるのかもしれない。
彼女の心を縛るものは何か。業か、経歴か、あるいは生まれ育ちなのか。その秘密について探る事も、彼の密やかな目的だった。非日常を過ごす長旅において、人は心を無防備にしがちだ。ハネムーンなど、まさにうってつけである。
「ユリ。僕はね、もっともっと君の事が知りたい。まだ出会って1年足らずだから、全てを知り尽くすには早いと思うけど」
「私は、少しだけ怖いかな。嫌われてしまいそうで」
「そんな事無いって。たとえどんな事実があったとしても、必ず受け止める覚悟だよ。むしろ、今よりも好きになっちゃうかもね」
「ありがとう……。その言葉だけでも十分嬉しい」
リンタロウは返事を聞くと、片手を差し出した。エスコートのつもりである。
「さてと。少し早いけど晩御飯にしようか。日が暮れた後じゃ混むだろうし」
「昨日のお肉、また食べられるかな。とても美味しかった」
「どうだろ、行ってみないとね」
それから2人はレストランエリアへ向かった。ユリの希望もあったので、ブラジル料理をチョイス。
オーダーの後、2人分のチーズパンと海鮮シチューが並ぶ。テーブル中央には大皿盛りのシュラスコだ。リンタロウは見ただけで胸焼けを覚えるが、ユリは嬉しそうだ。
「それじゃあ、いただきます!」
「う、うん。無理しなくて良いからね」
ユリは食事の作法までも美しい。さながら映画のワンシーンを思わせる優雅さだ。特に串肉を齧り取ろうとする様など、楽団のフルート奏者も同然ではないか。
そのようにして食べ進める姿を、リンタロウは、ただ見惚れた。食事量はほどほどに、その代わりワインを多めに過ごして、お終いとした。
「いやぁ美味しかったね。ブラジル料理って特に馴染みは無かったけど、結構好きかも」
「リンタロウ。あまり食べて無かったようだけど」
「ちょっとワインを飲みすぎてさ、水っぱらになった」
「なら酔い醒ましした方が良いかな。デッキに行って夜風にでも当たる?」
「良いねそれ。夜の海もきっとキレイだよ」
既に日は暮れ、一面が漆黒の闇だ。星空は見えるものの、船が放つ煌々とした灯りが邪魔である。もし仮に自前のクルーズ船であったなら、あらゆる灯りを消して夜空を堪能したい所だ。
「アハハ、あんまり見えないね。夕焼けの方が見応えあったかな」
「そうかもね。だけど、これはこれで好き」
「悪くないよね。1つひとつの体験が宝物さ」
リンタロウは、手すりに両腕を乗せて寄りかかった。頬を打つ冷たい風が心地よい。目を細めて愉しんでいると、ユリも隣に立ち、リンタロウを真似た。そうして2人肩を並べて、夜の海を眺め続けた。
やがて、ユリが静かに口を開いた。どことなく、押し殺したような声だ。
「ねぇ。本当に、私の事が知りたい?」
「もちろんだとも。嘘偽りはないよ」
「そう。本気なのね……」
その時だ。リンタロウは背中に衝撃を受けた。押されたか、あるいは鈍器で殴られたか、そんな感覚だ。
怪我を心配するだけの猶予はない。なぜなら彼は、力づくで押し出されたからだ。そのまま夜の海へ真っ逆さまだ。
「うわぁーー!?」
一体誰が。落下の最中、懸命に視線を向けた。しかしデッキに犯人の姿は見えない。その代わり、ユリがこちらに迫る姿が、眼に飛び込んできた。
彼女もリンタロウの後を追って、身を投げだしたのである。そうして、2人揃って船外に飛び出す事となった。
「プハァ! 何を考えてるんだ、危ないじゃないか!」
「だってリンタロウはお酒飲んでるし! 1人きりにしたら死んでしまうわ!」
「うっ……。今はとにかく、助けを呼ばないと」
海面から見上げて見たものの、やはりデッキに人影は見えない。緊急事態を知らせるには、声で気づかせる他なかった。
「おおーーい! 海に投げ出されたぞ、助けてくれーー!」
「ここに2人居ます! どなたか聞こえませんかーー!」
懸命に叫ぶものの、船上の気配は変わらない。愉しげに笑う声や、優雅なクラシック音楽が、最大限の皮肉として聞こえてくる。
「埒があかない。船の外側に、救命用のボートや浮き輪が無いか探してみよう」
「う、うん。分かった」
「辺りは真っ暗だ。絶対に手を離さないようにね」
ユリと固く手を結ぶ。そして、いざ泳ぎだそうとしたところ、リンタロウは違和感を覚えた。
「えっ、何だ。引っ張られる……ッ!」
「リンタロウ!?」
「離れてユリ! うわっ!」
リンタロウは突如、強い力で水中に引き込まれた。腹に何かが巻き付いている。解こうにも、力では全く敵わない。少なくとも素手では、対抗しようも無かった。
やがて息が切れるころ。口から大量の空気が溢れ出し、代わりに海水が体内へと流れ込んできた。
ユリの手を事前に離したのは正解だった。先程、手を握ったのは一緒に生還する為であって、死期まで共にするつもりはない。
「まさか、こんな最期だなんて……!」
こうして暗い外海の中で、意識を手放した。その後の事は何も覚えていない。ただ微かに、頬が硬い地面に触れた感覚だけ、あった気がする。それが夢か真かは定かでない。
それからどれだけの時間が流れたろう。リンタロウは、奇跡的にも意識を取り戻した。
「ここは、一体……?」
朝焼けの美しい日差しが視界を照らす。そこは一面が荒々しい岩肌で、人影はおろか、文明の名残すら見られない。
リンタロウは、無人島へと漂着してしまったのである。
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