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 漂着物頼りの暮らしは、早くも暗礁に乗り上げた。希望を胸に眠りに就いたものの、彼らは絶望の味を知る事となる。   3日目、漂着物なし。キャップ1杯の水のみ。  4日目、漂着物なし。キャップ1杯の水のみ。  この惨憺たる結果がもたらす衝撃は、計り知れないものがある。 「今日も、これだけ……。せめて雨が降れば」 「リンタロウ。私の分も飲んで良いよ」 「ダメ。ちゃんと分けよう」 「桃缶は開けないの?」 「悩ましい。けど、もう少しだけ粘りたい」 「そっか。判断は任せるね」  夜になれば、やる事もない。高台の寝床で、空きっ腹を抱えて横たわるだけ。4日目の晩には余分な発言が消えた。乾ききった喉が口数を減らすのだ。  明日は、明日こそはきっと良い日になる。そう言い聞かせた。言葉を止めると、その途端に気が狂いそうだ。  終わり無き窮地が、死の足音を響かせる。振り払っても、耳を塞いでも、冥土へ誘う声は鳴り止まない。夜は苦痛だ。こんな妄想に延々つきまとわれるのだから。満天の星空など、何の慰めにもならない。  リンタロウは、隣で眠るユリを片手で抱き寄せた。空いた片手には桃缶を抱く。そうまでしても、妄想を打ち払うには至らない。   飢餓と衰弱は、着実に彼を蝕んでいた。  5日目の朝。太陽が憎たらしい。今となっては陽の光など、大自然の美を照らすものではない。遭難者から貴重な水分を奪い去る虐殺装置だ。 「水、作りに行かなきゃ……」  リンタロウは、よろめきながら立ち上がった。全身どころか、指先を動かす事さえも気だるく、重たい。それでも僅かな水源の為に、潮溜まりまで降りて行かねばならない。そして夜は全てを回収した後、高台まで戻る事を強いられる。  健康な成人ならば苦もない動作だが、今の彼らには絶望的なルーティーンである。 「ユリ。辛いだろ。君は待ってて」 「平気。付いていく」  お互いに口数はめっきり減った。空腹で意識が朦朧とする事もそうだが、そもそも声を出したくない。何か声を出そうとするだけで、渇いたノドが張り裂けそうな程に痛むのだ。  リンタロウは無言のまま、蒸留施設を整えた。1日キャップ1杯の真水。それは今も変わらない。 (次は、漂着物だ。頼むから、何か……)  想いはしても言葉にはせず、歩き出した。ユリも押し黙ったまま付いてくる。しかし、彼女が決して手伝うことはない。無言のまま後を付け、ただひたすらにリンタロウの姿を眺め続ける。  それはどこか、監視のようにも思えた。 (僕を見張ってどうするってんだ。もしかして、水や食料を独り占めされる事を警戒してる?)  不意に湧いた疑念は、立ちどころに燃え上がった。証拠も言質もない、リンタロウの言いがかりである。しかし、こうも容易く信じ込めたのは、極限状態であるためだ。 (そこまで疑われるだなんて、あんまりだ! 僕は命を擦り減らしながら堪えてるのに!)  憤激に促されてか、少しだけリンタロウの足が早くなる。するとユリも歩調を合わせた。その速やかな追跡に、リンタロウは一層の腹立たしさを覚えてしまう。 「僕だけ降りる。君はここに」  リンタロウは掠れた声で告げた。そして返事も聞かずに、足場の悪い段差を降りていく。なぜか今ばかりはユリから離れたくて堪らない。  だが、こんな時に限って事件が起きる。リンタロウは降りる途中、足を滑らせて態勢を崩してしまったのだ。 「うわぁ?! 助けて!」  リンタロウは辛うじて、岸壁の凹凸に掴まった。しかし位置が悪すぎる。このまま落下すれば、岩場でなく海の中だ。今の体力で海に落ちたなら、生還出来る見込みは高くない。 「ユリ、お願いだ! 手を貸してくれ!」  懸命に叫ぶ。しかし、救助の動きはない。彼女は今も岩場の上で立ち尽くし、茫洋とした瞳を空へ向けていた。 「聞こえないのかユリ! 早く助けてくれ、長くは保たない!」 「えっ、うん。今行くから」  ようやく動き出したユリ。素早く段差を降りて、1度足場を確かめた。それから手を伸ばし、リンタロウの腕を掴むと、振り子の要領で引き戻した。  放り投げられたリンタロウは、激しい息を吐きながら足場を登っていく。そして広い岩場に戻ったところで、ようやく落ち着きを取り戻した。 「ハァ、ハァ。危うく死ぬところだった」 「ごめんなさい。何だかボーーッとしてしまって……」 「遅かったよ。何度も君の名前を叫んだよ?」 「本当に他意は無いの。反省してるわ」  リンタロウの疑心暗鬼は、もはや手がつけられない。普段なら素直に聞き入れた謝罪も、裏に斜(はす)にと深読みしてしまう。 (嘘だ。僕を見殺しにしようとしたハズだ。ユリには明確な動機だってあるし)  静かに目線を向けたのは、高台の方。寝床として使用する岩場には、今も手つかずの桃缶がある。  それがユリの目的だと確信する。リンタロウを亡き者にすれば、あの魅惑の果実を、濃密なるシロップを独占できるのだ。命を狙うには十分過ぎる動機だと感じられた。 「そうはさせるか。独り占めなんて許さないぞ!」  咄嗟にリンタロウは駆け出した。目指すは寝床、そして桃缶である。  ユリがここまで執着していると分かれば、保管を続けるつもりはない。きっちり半分。正当な量をいただくべきだと決意したのだ。  しかし足場が悪い。潮が引いたばかりの岩場だ。普段よりも滑りやすく、この時のリンタロウも盛大に転倒。受け身も取れず、頭を激しく打ち付けてしまった。 「グヘッ!? 痛ぇ……」 「大丈夫、リンタロウ!? しっかり!」  血相を変えたユリが駆けつけた。そこまでは良いのだが、リンタロウの両肩を掴んでは、激しく前後に揺さぶるのは好ましくない。  実際、正気を取り戻したリンタロウは、力任せにその手を払い除けた。 「痛いだろ! 何するんだよ!」 「ごめんなさい! 凄くこう、パニックになっちゃって……」 「頭を打った人を揺さぶるとか、何考えてんだ! 殺意があったとしか思えないよ!」 「そんな、ひどい……。そこまで言わなくたって!」  憤然として立ち上がったユリは、いずこかへ駆け去ろうとした。しかし、そちらも足場は悪い。彼女も盛大に滑り、後頭部を激しく強打した。 「ああっ、ユリ! 大丈夫!?」  「ゴハァ……痛い……」 「しっかりしろ、気を確かに持つんだ!」  リンタロウは素早く駆けつけた。そして目を回すユリを激しく揺さぶる。その流れは、先程の一件と酷似していた。 「痛ッ、やめて……。やめてったら!」 「何だよ。心配したのに、そこまで邪険に扱うなよ!」 「私、そこまで強くやってないし! アナタこそ殺すつもりだったんじゃないの!?」 「そんな言い方しなくても良いだろ!」  お互いが立ち上がると、別々の方へ歩き、別れた。  そして立ち止まる。今はとにかく冷静にならねばと、深呼吸を繰り返した。  そうして思い返されるのは、数々の思い出だ。 (色々あったよ。平凡な人生の割に……)  ユリとの出会いはスポーツイベント。キッカケは些細な会話。同席した食事で意気投合し、強く惹かれ合った。  週末はたいてい2人で日帰り旅行。イベントは少し奮発して有名店。緊張しきりの親族顔合わせ。挙式は涙に濡れ、そして待ちに待ったハネムーン。 (お互い、眠い目を擦って、旅行プランを用意したんだよね。コタツで一緒に寝落ちした事もあったな)  記憶の最後に浮かぶのは、流れ着いた缶詰。予期せぬ形で口にした黄桃。美味かった。順番を待つ間、堪えるのが辛い。1秒2秒すら苦痛だ。あのムニンとした魅惑の果実を、心ゆくままに貪る事が出来たなら、どれだけ幸せだろう。シロップの濃密さと言ったら、もう悪魔的だ。魂を売り渡してしまいそうな程に蕩ける、甘露の如き聖水だと思う。 (そう。色々あったんだよ……)  この頃リンタロウは、冷静さを取り戻した。振り返ると、ユリも既にこちら側を向いて、立ち尽くしている事に気づく。そうしてお互いに向き合った。何も語らず、ロクな表情も無しに。  するとユリが先手を打った。前傾姿勢になって駆け出したのだ。リンタロウも合わせて走り出す。振り上げた右手を強く握り、指先にまで力を込める。それはユリも同じだ。まるで2人はあわせ鏡のようである。 「僕はこれまで、ずっと幸せだった!」 「私も、夢を見てるかのように、幸せな毎日だった!」  接近した両者は、既に間合いに入った。強く踏み込み、全体重を攻撃に乗せる。やはり最後には拳が物を言うのだ。 「君だけでも生き延びてくれ、ユリーーッ!」 「私の分まで幸せになって、リンタロウーーッ!」  同時に放たれる右の主砲(ストレート)。行き交う拳。そして、お互いの頬が激しく撃ち抜かれた。 「グハッ! 何て威力だ……!」  リンタロウは、錐揉み回転を強いられつつ吹き飛ばされ、岩盤に突き刺さった。しかし、致命傷には至らない。深手を負ったものの、自力で立ち上がる事が出来た。 「うう。これは、僕の負けかもしれないな……」  そこでユリの姿を探すのだが、見当たらない。正確に言えば、立ってはいない。岩場の上で両手足を投げ出しながら、倒れ込んでいた。 「ユリ……。まさか気を喪ってるとか」  近くまで歩み寄って、ようやく気づく。ユリの首は、あらぬ方へと曲がっており、もはや回復不能である事。たとえここが緊急手術室だったとしても、蘇生させるのは不可能だろう。  そう思わせる程に損傷は激しかった。 「僕は、何て事を! よりにもよって、君を手にかけてしまうだなんて!」  リンタロウは泣いた。その場で突っ伏して、岩盤を叩いてまで泣いた。極限状態だったにせよ、なぜ彼女を守ろうとしなかったのか、いやむしろ率先して殴りかかったのは、なぜか。自問する声は尽きない。  その時だ。ふと、かつてない怖気に襲われた。全身に粟が生じ、震えが止まらなくなる。 「この気配はいったい……」 「うふ、うふふふ。さすがリンタロウ、私が見込んだ男ね」 「ユリ……嘘だろ!?」  愛する者は再び立ち上がった。だが、あまりにも異様な姿で、とても同一人物とは思えない。  その頭は、肩から零れ落ちそうな程に垂れ下がる。どう見ても致命傷であるのに、軽快な笑い声を響かせ続ける。そして瞳は真っ赤に染まり、頬にも血涙が走るような文様まで浮かんでいた。これで生きている、と呼べるかは甚だ疑問だった。
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