土曜日の朝

1/1
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

土曜日の朝

 土曜日の朝からいつもの通勤電車に乗っている。昨日、忘れものをしたからだ。  連絡がつかなかったお客様に、今日、どうしても電話をしなければならない。昨夜までは、家から電話しようと思っていたのだけど、番号がわからなかった。そのことに、今朝、気づいた。  会社に行って番号を控えて来るか、または会社から電話を掛けるか。いずれにしても会社に行かなければならなかった。入口のカギは、いつも私が開けるので、持っている。  電車は普段より空いている。座ったまま職場の最寄り駅に着いた。  秋の初めの土曜日。しかも晴天。平日よりも家族連れや恋人たちが多く、車内も駅もそれなりに混んでいる。仕事で来たけれども、いつもより華やかな街の様子に、戸惑いと、得した気分を覚えた。  改札を出て、手元から前方に目を移した時、ハッとした。目が合った。3日前にギャラリーで会った彼だ。サラの彼氏さん。これから駅に入るようだ。  お辞儀をして「先日は…」と言うと、彼も「どうもありがとうございました」と穏やかにほほ笑んだ。  見ただけで1枚の絵も買ってないのに、お礼を言われて、ちょっと心の端っこが痒くなった。 「お住まい、このあたりなんですか?」 「ええ、まあ…。これからお仕事なんですか?」 「ちょっと忘れ物を…」 「そうですか。お気をつけて」 「ありがとうございます。ではこれで…」 「失礼します」  彼は改札へ、私はいつもと同じ道を職場に向かった。けどいつもと違う。土曜日だからではなく、休日出勤だからでもない。心の中に柔らかな風が吹いていた。  お客様への電話は無事に完了した。鍵も閉めた。帰宅して洗濯や掃除をしよう。そのあとで読みかけの本を読もう。と、思っていたけど、透明な青空と、陽光に照らされたイチョウ並木の緑色から黄色へのグラデーションに惹かれて、予定を変更。並木道を散策してから帰ることにした。  暑い夏も、寒い冬も、平凡な日常ばかりで、特に変化のない暮らしをしている。それでも、植物の色や、街を行く人々の服装や、お店のディスプレイなどから、季節の移り変わりを感じると、自分も地球の一部で、宇宙の一部なんだ、と、安心できる。  傍からは孤独な女に見えるかも知れないけど、大人になってから、寂しいと思ったことは、あまりない。  あまりないんだけど…。  今、たった今、胸の真ん中に小さな穴があいた。  さっき心の中に吹いた柔らかな風が、ひんやりと沁みる。  私は、イチョウ並木の向こうに、誰かを探してる。そう気づいたら、穴はどんどん広がっていく。  子どもの頃から頭の中にぼんやりと映っていた絵を、実際に見せてくれた、彼を探してる。『金の矢雨』を描いた彼に、もう一度、会いたい。彼の絵の月光を、もう一度、浴びたい。  寂しさって、こういうものだったんだ…。  遠い昔に何かを切り取られた傷が、またうずいてる。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!