迷子の旅館

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 困ったことになった。  友人と温泉街を歩いていると、月に浮かび上がるように立っていた迷子の旅館を見つけた。  小さい旅館だった。まだ子供なのだろう。使われている木材はまだ新しく、入り口も成人男性の腰くらいの高さしかない。露天風呂が付いていたがお尻を浸けるだけで精一杯だろう。 「きみ、どこから来たの」  友人が特に優しくもない口調で声をかけた。が、子供の旅館はただ泣くばかりだった。  旅館といえども泣いている子供を置いていくわけにはいくまい。予約している宿に向かう途中で、すでに予約の時間に遅れていたが、さらに遅れる旨を連絡してから私は友人と相談を始めた。 「この辺の旅館の子供かもね」 「きっと迷子だろう。親の旅館がある場所が分かればいいんだが」 「この辺に旅館なんて腐るほどあるぜ」 「とりあえず警察に連絡してみるのはどうだろう。親旅館が探しているかも」 「それがいい、なにかあったときに通報するのは市民の義務だものな」  友人は携帯電話を取り出すと、一一〇をダイヤルした。 「もしもし、私、温泉街を旅している旅行者なんですが、先ほど迷子になっている旅館の子供を保護しまして……ええ、ええ……、え?」  急に友人が甲高い声を出し、私は不安になる。 「いや、悪戯じゃないですよ。現に私の隣にいますもの、旅館。いや旅館が動くはずないって、実際動いているんだから仕方がないでしょう!」友人はまくしたてるように言ってから、「切られた」とつぶやいた。 「職務怠慢だな」「これだから国家権力は嫌いだ」「新聞に投書してやろうか」「そうだ、それがいい」「だがその前に……」二人の視線は小さな旅館に注がれた。「仕方がない、親旅館を探してやるからついてこい」  友人がぶっきらぼうに言うと、意外なことに旅館の子供は泣き止んで友人の背中を追いかけた。子供に好かれないタイプだと思っていたが、どうやらそうでもないらしかった。  それからたっぷり一時間、親旅館を探したが、一向に見つかる気配はなかった。いくつか旅館の従業員にも尋ねてみたが、心当たりがないと首を振るばかりだった。 「これは君、今日中には見つからないかもしれないぜ」 「かといってここに放っておくわけにはいくまい。ほら、君によく懐いてる」  子供の旅館は友人の服の裾をしっかりと握っていた。友人はムスッとした表情で頭を掻いた。 「そうだ、いい考えがある」  友人はそう言うと、親子のように並んだ子供の旅館の温泉に指を入れた。温泉に写った月が柔らかく崩れ、子供の旅館はくすぐったそうに建物をよじった。 「なにをしているんだい?」 「温泉の泉質である程度の場所が分かるんだ」友人は温泉に浸けた指をぺろりと舐めた。「これは塩化物泉のようだぜ。この辺りは硫黄の匂いが強いから、もう少し離れた場所だろう」  夜も更け、チェックインにはいささか遅すぎる時間になっていた。友人と私は疲れて無口になりながらも、塩化物泉の温泉がある地区を探した。 「あ」、と友人と私は同時に声を出した。  迷子になっていた子供の旅館をそのまま大きくしたような、まさに親旅館がそこにあった。老舗の高級旅館のようで、温泉の泉質を表す表示には“塩化物泉”と記されていた。 「ごめんください」  友人は物怖じすることもなく旅館に入ると、現れた従業員に告げた。 「私は迷子になったこの旅館の子供を保護して届けに参りました。この旅館の子で間違いないと思うのですが」  友人はそう言うと、子供の旅館の背中の辺りを押した。しかし、どういうわけか、子供の旅館はその場から動こうとしなかった。 「私どもの旅館にそのような子はおりません。どうぞお引き取りください」  従業員は伏し目がちに言って、奥に引っ込んでいってしまった。頑なで、有無を言わせない口調だった。 「なんだい、あれは」 「なにか訳ありなのかもしれない。それか、本当にここじゃないのか」 「これからどうするよ」 「どうするもなにも……」  小さな旅館は困ったような表情で、私たちを交互に見上げていた。  友人と私は、子供の旅館と並んで通りを歩いた。  周囲は真っ暗だったけど、温泉街に並ぶ提灯の明かりが周囲を照らして昼のように明るかった。  予約していた宿はキャンセルした。旅館とはいえ、知らない子供を連れて旅を続けるほど友人も私も常識のない人間ではなかった。  帰りの電車に揺られる間、誰も口を利かなかった。電車の椅子に揺られ、三人で温泉街の明かりが遠くなっていくのをただ眺めた。  少し欠けた月が綺麗で、私はその月と、この不思議な体験を、何年経っても色褪せずに思い出せるような気がしていた。  地元に帰り着くと、子供の旅館は友人が自宅に連れ帰った。  私は下宿住まいだし、友人の家には広い庭があるはずだった。  それから二年が経ち、友人の家を訪ねると、もう子供の旅館はいなかった。そこにいたのは立派な青年に成長した旅館だった。 「成長が早くて驚いたよ」  友人は少し広くなった温泉を手ですくいながら笑った。温泉に写りこんだ月が柔らかく崩れるけど、くすぐったそうに建物をよじる彼はもうそこにいなかった。かつて一緒に温泉街を歩いた迷子の旅館は堂々とそれを受け入れていた。 「旅とは不思議なものだね」友人は言った。  旅館の親はまだ見つかっていないという。
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