冷蔵庫から見る世界

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 冷蔵庫は冷却機についた霜を取り除くとき、コンプレッサーがブーンという音を出します。  よくそんなことを知っていると思われるかもしれませんが、それは当然のことでした。私は冷蔵庫なのですから。  ここは家電量販店でしょう。薄暗い店内には、私よりもさらに大型の冷蔵庫や電子レンジ、掃除機などが並べられていました。  今日はセールの日なのか、いつもはほとんど人が来ない店内は多くの人で賑わっています。 「あ、あっちの方がいいんじゃない?」 「さっきのと比べるとあんまり可愛くないね」  人々はそんなことを言い合いながら、私たちを見定めました。  そんな時間が過ぎてゆき、いつの間にか外は薄暗くなっていました。店内にはすでに一組の夫婦しかいません。  今日も誰からも買われずに一日が終わるのだろう、私がそんなことを考えていたときでした。その一組だけ残った夫婦が、私の目の前で足を止めました。 (いいんじゃない?)  まだ三十前と思われる女性が、夫に目で問うているのが分かりました。  夫婦は店員を呼ぶと、私を購入する旨を伝えました。まさか自分が買われる日が来るとは思っていなかったので、私は天にも昇るような心持ちでした。  夫婦は後日、私のことを引き取りに来るということで、満足そうな表情で帰っていきました。  夫婦は名前をタカハシといいました。  あまり広いとはいえないアパートに二人で暮らしているようで、私は部屋に運び込まれるなり、キッチンの隅にあった古い冷蔵庫の横に置かれました。  物の少ない家でしたが、私の近くには電子レンジや炊飯器も置かれており、私はあまり寂しさを感じることはありませんでした。  タカハシ夫妻はあまりキッチンには顔を出さず、数日に一度やってきては私の中に食パンを入れたり、電子レンジで牛乳を温めたりするだけでした。  あまり仲のいい夫婦ではなかったのかもしれません。キッチンには週に何度か、リビングの方から二人が怒鳴り合う声が聞こえてきました。  そんなときは決まってタカハシの夫がアパートの部屋から出ていき、タカハシの妻はキッチンでお酒を飲みながら泣いていました。  お酒を飲んだタカハシの妻はそのまま寝てしまいますが、たまに飲みすぎると錯乱状態になるのか、誰もない空間に「何見てんだよ!」と罵声を浴びせたり、電子レンジに向かって酒瓶を投げつけたりすることがありました。  私は電子レンジと仲良くなりました。あまり知られていませんが、家電同士は簡単な会話を交わすことができます。 「この家、あんまり良くないでしょ」  ある日、夫婦が不在のとき、電子レンジはそう言いました。 「どこが?」私は答えます。素朴な疑問でもありました。 「どこがって、あの夫婦って最悪じゃん。いっつも喧嘩ばかりしてるし、暴力的だし」 「でも、そんなの別に関係ないんじゃないの?」 「関係ないって……」  よく分かりませんが、電子レンジは呆れているようでした。ただ、私には電子レンジの気持ちが分かりませんでした。だって私たちはただの家電で、別にどこの家にいたってやることは同じなのですから。  タカハシの妻はイライラすると物に当たる性質があるようで、たびたび不具合を起こす電子レンジはよく被害にあっていました。 「なんでこんなこともできないんだよ!」そんなことを言いながら側面を激しく叩かれる電子レンジはかわいそうで、私は見ていられませんでした。  幸いにも、といってよいか分かりませんが、私はたまにブーンという音を立てるくらいで不具合という不具合もありませんでしたので、被害にあうことはありませんでした。  それでも、夜中に突然起きる諍いを聞くのや電子レンジが叩かれるのを見るのは辛いことでした。  事件が起きたのは私がタカハシの家を訪れて一年ほどが経過した頃でした。  その日は朝からタカハシの夫の機嫌が悪く、タカハシの妻のことを罵倒しては何度も顔やお腹などを殴りつけていました。言っている意味はよく分かちませんでしたが、「また浮気をしただろう」とか「全部分かってるんだ」というような言葉が聞こえてきていました。  その日は珍しく、タカハシの妻がとても興奮した様子で何事かを言い返していました。ひどい金切り声で何を叫んでいるかはっきりと分かりませんでしたが、「警察に――」とか、「皆捕まる」とか、そのような言葉の断片はなんとか聞き取ることができました。  二人でつかみ合って転げまわっているのでしょうか、リビングの方からは大きな物が倒れる音や何かが割れる音が聞こえてきました。  やがて二人はキッチンの方までやってきました。  二人の怒鳴り声は気が変になりそうなほどうるさくて、もし私に耳があったら両手で抑えたままその場でうずくまっていたことでしょう。 「俺を裏切るっていうことなんだな!」  タカハシの夫はそう叫ぶと、拳で電子レンジの側面を殴りました。何度も何度も。  電子レンジの悲鳴が響きますが、冷蔵庫である私にはどうすることもできません。私はただ早くこの時間が過ぎ去りますようにと、願うことくらいしかできませんでした。  やがて電子レンジから煙が出始めるのを見て、タカハシの妻は一言、「やばいよ」とつぶやきました。  その表情を見て冷静さを取り戻したタカハシの夫は、電子レンジのことを何度も揺すりました。もちろんもう電源なんて入りません。煙はなおも激しく出続けており、アパートが火事になってしまうんじゃないかと私は心配になりました。  ふと、遠くからサイレンのような音が聞こえました。  夫婦の争う声や音を聞いた近隣の住人が、警察に通報したのかもしれません。  パトカーがアパートの前に止まり、すぐに制服を着た警察官が入り込んできました。  家の中を見た警察官は慌てた様子でどこかに無線で連絡し、すぐにタカハシの夫と妻は手錠を掛けられ、連れていかれました。それが二人を見た最後になりました。  いつの間にか電子レンジから煙は出なくなっており、すぐにやってきた業者の人に回収されていきました。  それを無感情に眺めながら、私はひとつブーンという音を出しました。  私はまた業者に引き取られ、売りに出されることになりました。  前とは違う家電量販店で、さすがにもう買い手はつかないだろうと思っていましたが、何度目かのセールのときにある老夫婦の目に留まったようでした。  その老夫婦は変わっていました。 「あなた、名前はなんていうの?」 「これまでどうやって過ごしてきたの?」  ただの冷蔵庫である私にそのようなことを話しかけてくるのです。  家電量販店の店員もこれには少し困ってしまったようで、老夫婦を少し離れた場所に案内して、何事かを話してくれているようでした。  しかし、老夫婦は店員からなにかを説明されたことで、逆に私に興味を持ったようでした。  私は老夫婦の小さな一軒家に引き取られることが決まりました。  老夫婦は前の家とは違って夫婦仲が良く、なにより変わり者でした。  冷蔵庫である私をあろうことかリビングに連れてきてソファに座らせたり、寝室でベッドに寝かせたりしようとするのです。そんなことをしたら中の水がこぼれたり、コンセントが外れて中身が腐ったりしてしまうじゃありませんか。  私は抵抗しますが、そのたびに、老夫婦は困惑したような、泣きそうな表情になって、私も困ってしまうのでした。  老夫婦は名前をキムラといいました。  二人の話を聞いていると、二人にはお互いのほかには親族もなく、二人の年金で細々と暮らしているということでした。  それでも、羽振りの良いときがあったタカハシ夫妻のときよりも、たくさんの食材を私に与えてくれましたし、熱を感じて暖かいのか私のことを抱きしめてくれるときさえありました。  ある日、変わり者のキムラ夫妻によって、私はリビングのテーブルの前に待機させられました。  ついに業者がやってきて私は引き取られてしまうのだろうか。変わり者のキムラ夫妻についに愛想を尽かされてしまったのだろうかと考えていると、扉が開き、小綺麗な身なりをした男が私の前に腰かけました。キムラ夫婦はその後ろに、心配そうな表情を浮かべて立っていました。 「カウンセラーのスミといいます」男はそう名乗りました。続けて言います。「なぜ私がここに来たか分かりますか?」  冷蔵庫である私は答えずにただブーンと音を出しました。その光景はシュールで、まるでへたくそな演劇の中に入り込んだような、そんな気分でした。  そのような空気を変えようとしてか、キムラの夫は真剣な表情で、笑ってしまうようなことを口にしました。 「養護施設の方から聞いたんですが、この子は、どうやら自分のことを人間ではなく物――それもおそらく冷蔵庫だと信じ込んでいるようなのです」  もし私に笑うことができる機能があれば、大声を出して笑っていたでしょう。それでも、キムラ夫妻もスミも表情はいたって真剣でした。  曰く、幼くして養護施設に預けられた私は、誰とも会話をせずにたまに「ブーン」という音を出す以外は身動き一つせず、これまでいくつかの里親のもとに預けられたものの、すぐに施設に返されてしまったということでした。  最後に預けられた里親のところには長くいたけど、それも国から保護費用をもらうために引き取られただけで満足に食事も与えられず、最後には里親が暴力事件を起こして捕まってしまい、施設に戻ってきたところをキムラ夫妻が引き取り、なんとか心を開いてもらいたく、藁にもすがる思いでカウンセラーの先生に連絡したということでした。 「なるほど」しばらく考えるそぶりを見せて、スミと名乗ったカウンセラーは飄々と言いました。「キムラさん、この子が人間だというのは、おそらくあなた方の勘違いでしょう。この子は正真正銘の冷蔵庫です」  キムラ夫妻は大層驚いた様子で、私は少し呆れてしまいました。 「だって見るからに人間じゃないですか、顔だって手足だってある」 「手足があったって冷蔵庫は冷蔵庫ですよ。だって言葉を話さず感情もない、そんなものを人間と呼ぶはずがないでしょう」 「なんてこと言うんだ!」  激昂するキムラの夫をなんとかなだめ、スミは言います。 「分かりました分かりました。そこまで言うのなら、私がこの子を言葉が話せて人間の感情が分かる冷蔵庫になんとか改修してみましょう。こう見えて私、冷蔵庫専門のカウンセラーなんでした」  スミが言っていることはよく分かりませんでしたが、私の生活が大きく変わろうとしていることだけは分かりました。  その日から、スミによる冷蔵庫の改修が始まりました。  聞けば、科学の進歩により、最近の冷蔵庫は人間と同じように歩いたり眠ったりすることができるし、改修次第では、人と会話をしたり、友達と遊んだりすることだってできるそうです。  それを聞いた私の心は踊りました。それが本当なら、冷蔵庫の私でもまるで人間のような生活が送れるじゃないですか。  私は最新型の冷蔵庫に改修されるために必死で訓練しました。スミは私が訓練に失敗するたびに私に罵声を浴びせ、何度もくじけそうになりましたが、キムラ夫妻の励ましもあり、また自分が少しずつ改修さていくのが嬉しく、寝る間も惜しんで人間の真似をしました。 「わたしの、なまえは、きむら、れい、です。れいぞうこ、です」  私は言葉も覚えました。  私の名前は、キムラの妻が付けてくれました。最近は冷蔵庫にも名前を付ける風潮があるというので驚きです。  家にはもう一台別の冷蔵庫がありましたが、奇妙なことにそちらの冷蔵庫は改修されていないため名前を付けなくてよいそうです。人間の社会は本当に不思議です。  訓練を続ける中で、私は人間らしいふるまいを覚えていきましたが、一つだけ、どうしても改修できないことがありました。  スミが言うには、私は同い年くらいの子供もが、全て掃除機や電子レンジといった家電に見えているというのです。 「調子が悪い子供がいれば家電が壊れているように見えるし、血を流している子供がいれば煙を出しているように見えるようだ――」  そんな訳ないと思いましたが、これまで冷蔵庫専門カウンセラーのスミの言うことはすべて正しかったのです。  子供と本物の掃除機を見分けるという、幼児でもできるような作業ができるようになるまで、私は二年の歳月を費やしました。その頃には私は人間の年齢で十歳になっていました。  電化製品と子供の区別がつくようになった私は、地元の小学校に入学しました。  本来なら小学四年生の年齢だそうですが、特別に二年生のクラスに入れてもらえることになりました。もちろん文句なんてありません。私は改修によって冷蔵庫として初めて、人間の学校に通うことができたのですから。  学校にはすぐに慣れ、はじめての友達もできました。同い年の子も、年下の子も、年上の子も。  その中に一人だけ、見覚えのあるような子がいました。  ある日、私はどうしても気になって、放課後、彼女を呼び出して聞きました。「私たち、どこかで会ったことない?」と。  すると彼女は、「もうあれやらないの。口で『ブーン』っていうやつ」と言ってけたけたと笑いました。  彼女はタケウチ夫妻の家で一年近くをともに過ごした電子レンジでした。煙を出して業者に運ばれた後、修理されてこの近くに越してきたのでしょう。  私が「ブーン」という音を出してあげると、彼女はまたけたけたと笑いました。  冷蔵庫は冷却機についた霜を取り除くとき、コンプレッサーがブーンという音を出します。その音がどうしてそんなにおかしいのか、私には分かりません。改修を続ければ分かるようになるでしょうか。  ただ、それから十年経っても、二十年経っても、かつて電子レンジだった彼女は私に「ブーン」をせがんできて、聞くたびにけたけたと子供のように笑うのでした。
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