フルムーンと舞踏会

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 木の影から通行人を眺めながら歯軋りする男に出会ったらどうするだろうか。  気軽に肩を叩いてみる?  いいや、十人中十人が関わらないと答えるだろう。  ましてその男が、天から舞い降りてきた月なんです、と自己紹介した日には、全力で回れ右をするに違いない。  都香砂(つかさ)もまた、常識的な判断をする女性であった。  ただし、恋人の浮気現場を目撃してやけ酒をした後でなかったなら──だ。 「あの」  突然肩を叩かれた男は激しく体を揺らし、大袈裟な叫び声を上げて後ずさった。 「な、なんだそなたは!」 「いや、それはこっちの台詞……っ!」  都香砂は男の顔を見て思わず息を呑んだ。  雪のように白く、陶器のように滑らかな肌。  薄い唇はごく自然な血色で染まり、輝く青の瞳がサファイアのように美しい。  何より、まるで夜空に光る月のように美しい銀髪が彼の造形美を際立たせていた。  瞬きも忘れて凝視する。 「貴方……何者?」 「私は月だ」 「そう、月なの。道理で神秘的。それで、お月様がこんなところで何をしているの?」 「下界の様子を見に来たのだ。最近誰も私を見ていなくてな……中秋の頃ですら、皆下を向いて歩くのだ」 「ああ、お月見? 忘れてたわ」 「わ、忘れただと?」  月は開いた口が塞がらないといった状態で固まった後、ガックリと肩を落とした。  そんな仰々しい反応ですら美しいと、今の都香砂は本気で思っている。  顔を上げた月は燃えるような眼差しで都香砂を捉えたかと思うと、ガッチリと肩を掴んできた。 「このままではいかん。私を蔑ろにする原因を突き止めねば……そなた、付き合うのだ」 「え? なんで私が」 「もう二度と、忘れたなどとは言わせぬ」  美しい笑みだが目が笑っていない。  都香砂は少し酔いが覚め、厄介ごとに首を突っ込んだと自覚した。      週末の昼下がり、この世のものとは思えない程美しい男を連れて歩くのは、案外悪い気分ではなかった。  恋人の浮気現場を見た後だからかもしれない。  金色の光を受けてシルバーブロンドのように輝く銀髪が揺れるたび、老若男女を問わず人の視線が彼に釘付けとなる。  当初は面倒なことになったと思っていたが、この際デートだと思って楽しむことにした。  ユエ——月のことをそう呼ぶことにした——はなぜ人々が月への関心を失ったのかが知りたいらしい。  都香砂は今デザート専門店へ向かっている。  実は初めて出会った晩、そもそも月夜に得体の知れない液体を飲むとは何事だと怒られたのだ。  お月見には日本茶と団子が定番であることは知っている。  しかし、現代には様々な食文化があるので、まずそれを教えようと思ったのだ。  若者に人気と言われるだけあって、目的のお店は実に華やかな外観に包まれていた。  一歩中に足を踏み入れれば、途端に甘い香りが食欲を掻き立てる。  が、ユエは明らかに狼狽していた。 「な、何だ? あの毒々しい食べ物は」 「え、どれのこと……って、パフェ?」 「今の日本人は、あのような体に悪そうなものを食べるのか?」 「それは……否定し切れないけど。そもそも、ユエが最後に私たちの住む場所に降りてきたのっていつなの?」 「確か夏目漱石なる男と楽しく会話したな」 「ああ……月がきれいですね、の人ね……古い」 「そうだ! あの男の感性は素晴らしかった! 私への敬意に満ち溢れている!」  恍惚とした表情を浮かべるユエを見て、これは徹底的に現代の素晴らしさを教えてやらねばと心に誓う都香砂だった。  店内に硬い音が鳴り響く。  ユエがスプーンを取り落とした音だ。  都香砂は俯いて必死で笑いを堪えていた。  驚き、感動、戸惑い、抵抗……あらゆる感情が表情から見てとれる。  お店で一番人気のパフェの味は相当衝撃的だったようだ。  都香砂は新しく持ってきてもらったスプーンで、改めてアイスをひと掬いしてユエの開放された口に運ぶ。  素直に口を閉じで味わう辺り、尋ねなくても感想は分かりきっていた。 「現代の食べ物も中々のお味でしょ?」 「ふ……パフェひとつでそのようなことを言うとは、まだまだだ」 「じゃ、次はケーキいってみよう」 「け、けーき?」  その後、ユエは各種代表的なケーキを網羅した上、ゼリーや焼き菓子など様々な種類のデザートに勝負を挑んだ。  そしてその全てに惨敗した。  テーブルの上には空になったいくつもの皿。  ユエは肘をついて両手を組んだ上に額を乗せて沈黙している。  彼は決して感想を口にしない。一言でも言葉を発すれば負けると思っているのだろう。  その発想が既に敗者の目線である。 「ちなみに、飲み物はどうだった?」 「……何のことだ」  決して顔を上げない彼の周りにはいくつかのカップもあった。  甘味の合間に、都香砂がコーヒーや紅茶を頼んでおいたのだ。  勿論日本茶との比較のためでもあるが、甘いものばかり食べるのも大変だろうとの配慮だ。 「認めんぞ……単体では苦いだけなのに、ケーキと交互に飲むと甘味で苦味が中和され、また甘味に手が伸びてしまうなど」  完璧に的を得た回答に、私は満足げに微笑んだ。    屍のように動かなくなったユエを何とか引き摺り出し、都香砂は再び街中を歩く。  今日は週末だから人が多い。  雑踏の中、ユエとはぐれないように手を繋ぎながら歩いていると、本当のデートのように錯覚してくる。  都香砂は通りすがりの店のウインドウに映った自分達の姿を見て、恋人と初めてこの通りを歩いた時のことを思い出していた。  無意識に耳のピアスに手が伸びる。  これは彼から初めてもらったプレゼントだった。 「耳がどうかしたのか?」  頭上から少し高めのテノールが降ってきて、都香砂は一度手を離してから顔を上げた。  人形のように整った顔が逆光に掠れている。  それでも、こちらを見る瞳には都香砂への気遣いの色が見えた。  胸に、針で刺したような痛みが走る。  思えば、もう長らく恋人からあたたかな眼差しを向けられたことがない。  都香砂は俯いて視線を外し、もう一度耳に手をやった。 「ううん、たまには違うものをつけてみるのもいいかもなって思っただけ」 「そうか」  深く聞いてこられない距離感が心地よかった。    さらに人通りの多い道を歩いていると、不意にユエが口を開いた。 「そなたと初めて会った夜にも思ったことだが、皆手に四角い箱を持って何をしているのだ?」 「箱? ……あぁ、スマホのことね。んー、電話であり、テレビであり、ゲーム機、みたいなものかな」 「……全くわからん」 「立って話すことじゃないわね。ちょうど近くに公園があるから、行ってみましょう」  脇道に曲がるため少し手を強く握って引っ張ると、ユエが同じくらいの強さで握り返してきた。  少しだけ、心臓が跳ねた。  大きな木の下で程よい木漏れ日に囲まれたベンチを見つけると、どちらからともなく腰を下ろす。  都香砂は説明するより見せた方が早いだろうと思い、最近人気の動画を見せた。  小さな液晶の中で人やアニメーションが目まぐるしく動くのを見て、ユエは目をパチクリとさせている。 「なんだ? 人間に特別な力はないと思っていたが……こんなに薄くて小さな箱に入れるような魔法が発達したのか?」 「確かに、細かい原理を知らない人からしたら、魔法のように思えるかも。実際は、科学の力なんだけどね。見て、これ、私が最近気に入ってるパズルゲーム」 「げーむ?」 「決まったルールを守りながら対戦相手と勝敗を競ったり、指定されたゴールを目指していく遊びよ。このゲームの場合、同じ色の風船を並べてどんどん消していくの。うまく全部消せると、ポイントが貯まっていくのよ」  言いながら画面を見せていると、ユエは意外にも前のめりになって食い入るようにスマホを凝視していた。  実際に手に持たせて、横でサポートしながらゲームをやらせてみせると、思ったよりずっと早くやり方を覚えていく。  地頭がいいようだ。  その割に、好奇心に満ちた目は子供のようにキラキラしている。  恋人は、今のユエのように、都香砂の好きなことに興味を示してくれたことがあっただろうか。  都香砂は自問自答する。  どれだけ思い返してみても、都香砂が彼のやることに関心を寄せる場面しか浮かんでこなかった。  どんどんと要領を得ていくユエを見るのは、初めは楽しかった。  しかし、彼がスマホを握り始めた時より、影が倍以上長くなっている。  都香砂はいい加減声をかけてみた。 「ねえ、ずっとゲームをしているけど、もう空が茜色に染まりそうな時間になったわよ。気付いてる?」 「な、何?」  ユエはやっとスマホから顔を上げて、慌てて周囲を見渡した。  もう太陽が地平線に沈もうとしている。  ユエはあまりの驚きで固まっていた。  苦笑いしながら都香砂は畳みかける。 「みんな下を向いて歩くようになった理由、わかった?」  ユエは大きくうなだれた。    すっかり夜の色に包まれた街並みを、ユエはとぼとぼと肩を落としながら歩いていた。  大通りの店に色とりどりのネオンが光る。  ユエは生気を失った目でそれをぼんやり見つめた。 「日が暮れるというのに、こんなにも明るいのだな。これでは……星もあまり見えまい」  薄い膜でも貼られたように霞む空を、寂しげに眺めていた。  少し気の毒ではあったが、そろそろ帰ろうと駅へと向かう。  駅構内には比較的大きな旅行代理店があった。  恋人ともうまくいっていないし、気分転換に小旅行にでも旅立つかとパンフレットを眺めていると、横からユエの手が伸びてきた。  ユエの瞳には少しばかり光が蘇っている。  手にしたパンフレットを懐にしまった。 「気になるツアーでもあった?」 「そんなところだ。ところで、スマホでもう一度動画を見たいのだが、かまわないか?」 「いいよ」  近場のカフェに入って、彼にスマホを手渡す。  操作を初めて初日とは思えない手つきで、何かを確認している。  その表情は真剣そのものだ。 「何見てるの?」 「見つけたのだ。現代で、私が存在する意義を」  立ち上がって踵を返すユエを、私は慌てて追いかけた。      都会の空らしく、少しぼんやりとした群青色を眺めながら、最近月を見ていないなと気付く。  よくよく考えてみれば、月は今目の前にいるのだ。  太陽が沈んだ今、彼の髪は本来の銀色を取り戻し月光の如く青白く輝いている。  二人は、初めて出会った公園へとやってきた。  ユエは改まって彼女に向き合うと、手を腰の辺りで曲げ、紳士の礼をとる。 「今日は現代の文化を教えてくれて感謝する。実に有意義な時間であった」 「そう言ってもらえて嬉しいわ。私も……誰かと出かけるのは久しぶりだったから、楽しかった」  恋人のことを思い出し、少しばかり遠い目をする。  月は懐にしまったパンフレットを取り出し都香砂に見せた。 「何々……星空探検ツアー?」 「都会を離れ、建物の明かりのないところでじっくりと星空を眺める集まりのようだ」 「ふーん、こういうのもいいわね。普段パソコンやスマホばっかり眺めてるから、自然に触れてリフレッシュできそう」 「それだ。そういう気持ちが大切なのだ」 「え?」  都香砂が顔を上げると、ユエは微笑んでいた。  小さな電灯しかない暗い公園なのに、妙に眩しく感じる。  心なしか、ユエから発せられる光も強まっているようだ。 「私は、忘れられたわけではなかった。ただ、文明の進化によって、役割を変えただけなのだ」 「役割って?」  ユエは一度都香砂から視線を外し、空に手を掲げてみせた。  すうっとその手に吸い込まれるように、辺りの電灯や家々の明かりが消えていく。  突然の真っ暗闇に、都香砂はニ、三歩足踏みした。 「昔は、この状態が普通だったのだ」  指鳴らしの音が聞こえたかと思うと、一瞬で明かりが元に戻った。  都香砂は狐につままれたような顔で周囲を見渡す。  くすりと、ユエが小さく笑う声が聞こえた。 「人は暗闇の中では不安を感じる生き物だ。日が沈めば、明るさを感じられるのは空しかない。だから、皆私を見上げてくれたのだ」  ユエは自分の掌に口付けると、その手を空へと伸ばす。  掌から淡い光が放たれ、空に上弦の月が現れた。  ユエと出会う前より、綺麗に見える。 「今は、地上にも沢山の人工的な光が溢れている。だから、空を眺める必要性が薄れたのだ。娯楽も沢山ある。今は機械の輝きが当たり前となった。だが、だからこそ——」  ユエは再び都香砂の目を見た。  サファイアのような瞳が強く輝く。  上弦の月が少しずつ満ちてきた。 「時折、自然に帰る時間が必要なのだ。動画サイトにも、沢山の癒し動画なるものがあった。愛らしい生き物も多かったが、自然の美しい風景を映しているものも少なくない。文明が発達すればするほど、人々は昔を懐古して求めている」  ユエは再び手を持ち上げると、都香砂の頬に優しく触れた。  わずかな接触から弾ける熱が、瞬く間に身体中を巡る。 「自然はリフレッシュできると言ったな? 今日一日の礼として、私の持てる全ての力を使って、そなたをリフレッシュさせてやろう」  頬から手を離し、先程と同じように天に真っ直ぐに腕を伸ばすと、街中の明かりが消えた。  人々は足を止め、ざわめき、困惑する。  都香砂がスマホを取り出すと、こちらも電源が落ちていた。  ユエは全身から銀光を迸らせ、空へと解き放った。  くすんだ夜空が突如薄膜を外したように鮮明になり、無数の星々が強い輝きを発している。  田舎の星空でも、ここまでの眩しさではない。  天の川は文字通り光る川となって夜空を横断し、やがて天を埋め尽くすような流星群が降り始めた。  もう、人々に恐れや戸惑いはない。  今、誰もがスマホや電子機器から目を離し、家の窓から、屋上から、空を見上げていた。  いつの間にか地表では鈴虫やコオロギの美しい音色が響き始めている。  この都会のどこにこれだけの虫達が隠れていたのかと思うほどの大合唱だ。  歩道や道路など、人や車が行き交う場所は一面ススキが揺れている。  いつの間にか、月は一杯まで満ち、見事な満月となっていた。  ユエがもう一度恭しく腰を折る。 「ご婦人、一曲どうだろうか?」  都香砂は興奮に満ちた顔で手を差し出すと、ユエの雪のような手に触れた瞬間、体が宙に浮き始めた。  あっという間に地面が遠くなって、星々の輝きが目の前まで迫る。 「さあ、始めようではないか。夜の空中散歩だ」  地表から届く虫の音に合わせて足を踏み出せば、舞台照明のように星が様々な色に変化して二人を照らす。  天の川を渡れば織姫と彦星がにこやかに手を振り、月を横切れば月兎が人参片手にお辞儀をする。  空の一番高いところまでくると、ユエは足でターン、とペガスス座を蹴った。  瞬く間に星屑のペガサスが姿を現し、夜空を悠然と一周して、星光の軌跡を残す。地上からは大歓声。  都香砂は笑った。  ユエも笑った。  二人の楽しそうな声は、月が西の空へ傾くまで続いていった。   「ああ、楽しかった!」  都香砂は息を弾ませながら満面の笑みを見せる。  ユエは眩しいものを見るように目を細めた。 「私も、今宵は久方ぶりに楽しんだ。礼を言う」 「お礼だなんて、私の台詞よ! こんなに笑ったはいつぶりかしら」  都香砂は興奮も冷めやらず、まだ繋いだままのユエの手をぎゅっと握りしめる。  ユエは一瞬目を丸くしたが、ほんのりと頬を紅色に染め口元に美しい弧を浮かべた。 「私は、大切なことを忘れていたのだ。人々が私を見てくれないと嘆くばかりで、見てもらおうと努力することを怠った」  風がさらさらとススキの穂を揺らす。  空から降った星光が、まるで蛍のように辺りを彷徨っている。 「今宵は多くの人間が私を見てくれた。誰かを笑顔にしたいと、そう思い、行動することが大切だったのだ」  都香砂の体から力が抜ける。  ユエの手からするりと指が外れ、だらりと腕が体の横に落ちた。  今の恋人と付き合い始めて三年。いつの間にか、相手を笑顔にしようという配慮に欠けていた。お互いに、だ。  きっと浮気の件がなくても、二人は潮時だった。  都香砂の目から大粒の涙が零れる。  それでも、彼女は顔をくしゃくしゃにしながら笑った。 「ありがとう。私も、あなたのおかげで大切なことに気付けたわ。夜の公園で一人やけ酒、なんてもう終わり。もっと、自分を大切にするわ」  月光を受けて淡い星のように煌めく涙を拭って、ユエはそっと彼女の耳たぶに触れた。  都香砂の肩が小さく跳ねる。  ユエが年季の入ったピアスを親指で擦ると、青白い光を放って形を変えた。  誕生石であるアメジストは満月のような丸い石となり、光の加減で七色に輝きを変化させる。  都香砂は新しいピアスを指先で確認しながら、不自然なほど俯いた。  彼に触られた部分が熱を持っている。  きっと顔もルビーのような燃える色をしているに違いない。  ユエは彼女の肩を軽く抱き寄せると、つむじに軽くキスを落とした。  驚いて顔を上げると、彼女の反応に満足げな笑みが返ってくる。 「ちょっと! 何よ、この手慣れた感じ!」 「スマホで読んだ漫画やら小説やらを参考にしてみたのだが……悪くなかったようだな?」 「聞いてくるな、この状況で!」  感情をむき出しにして叫べば、ユエは大きな声を上げて笑った。  あどけなさを感じさせる表情に、心が大きく波打つ。 「いいものだな、最新テクノロジーも。現代の女人の心を掴む要素がすぐ分かる。だが、同時に学んだよ。どんなに見せ方や伝え方は変わっても、人と人とが通じ合うための核たる言葉は変わっていない」  月は唇が触れそうなほどに顔を都香砂の耳元に寄せ、囁いた。 「愛している、都香砂。月の輝きに誓って」  都香砂は少しの間目を見開いた後、いつの間にか握られていた手をそっと握り返した。  今度は互いの唇の距離が近くなる。  月とのキスは、甘いミルクのような味がした。      社内の長い廊下で、控えめながら自信に満ちた足音が響く。  シックなグレーのパンツスーツに、襟元は少し華やかなボウタイブラウス。  すれ違う社員たちもその溢れる気品に惹かれ、ちらちらと視線を投げかける。 「都香砂、俺が悪かった!」  そんな人通りのある場所で、都香砂の元恋人は大声を上げた。  都香砂は足を止め、腰に手を当てながら振り返る。 「もう、あなたとは名前を呼び合う関係ではなくなったはずだけど」  周囲がにわかに騒がしくなる。二人が恋仲であったのは公然の秘密であったからだ。  元恋人は周りの目も省みず、都香砂の前で膝を突き頭を下げた。 「お前がいかに素晴らしい女性であったかが分かった。あの後輩は見た目がいいだけで、我儘だし無駄に金がかかる。自立したお前の良さを再認識した!」  公衆の面前で自らの浮気を暴露した上、元カノに追い縋るという醜態を晒していることに気づいていないようだ。  都香砂は大きなため息を吐くと、横髪を持ち上げて新しいピアスを見せた。 「あなた、昔私に言ったわよね? 女なら、男をその気にさせる努力をしろって。その言葉、そっくりそのまま返すわ。男なら、綺麗になりたいと思わせる男になりなさいよ」  真昼の月のように白く輝くピアスを見て、元恋人は開いた口が塞がらない様子だ。  そんな彼を全く気に留めることもなく、都香砂は踵を返した。  その後、この騒動が上層部の耳に入った上、勤務時間中に後輩とホテルに行ったことも発覚。  元恋人はめでたく左遷となったらしい。  勿論、都香砂は全く意に介せず、己の仕事を忠実にこなしていく。  その姿が評価され、晴れて係長という役職をもらうことになった。    秋の夜長に、都香砂は以前やけ酒をした公園のベンチに腰を下ろしていた。  手にはコンビニで買った団子と温かい緑茶が握られている。  都香砂は少し落ち着かない様子で、ピアスが曲がっていないか触ったり、手鏡で化粧のチェックをした。  月はいつだって空で輝いているのだ。常に綺麗な自分を見てほしい。  ペットボトルの栓をひねると、緑茶の香りがふわりと漂ってきて、自然と目を細める。  団子を口に運べば、ほんのりとした甘さに心がほぐれた。  改めて空を見上げれば、煌々と輝く満月と目が合う。 「月がきれいね」  ほんのり笑顔を浮かべながら呟けば、それに応えるように、空に一筋の流れ星が走った。
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