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――逃げなきゃ、月から逃げなきゃ。
月明かりが照らす夜は、闇に紛れて潜む彼らが金色の輪郭を眼光を露わにする。普段は見えないものが見える。見つからないように隠れて逃げて、けして満月の明かりをこの体に纏わせてはいけない。
「くれぐれも」
愛したあの人はそういって微笑み去った。
愛していた。離れたくなどなかった。私も一緒に連れて行ってほしかった。
どうして愛するあなたのいる月から逃げなくてはいけないの。
「ぼくの代わりにその子を愛して」
そうだ。私はこの子を守りたいんだ。愛するあなたの子。守らなきゃ、逃げなきゃ、月から逃げなきゃ。
私が愛した人は月に愛された人だった。
学生時代にアルバイトをしていたプラネタリウムの常連だった彼は、ある日、忘れものをしてしまったと閉館時間ギリギリにやってきた。
「プラネタリウムの中を見せてもらっても?」
「あ、はい。どうぞ」
物静かで、おぼろ月のような柔らかい輪郭をした彼の顔に、間接照明に照らされた長い睫毛が影を落としていた。
なんて妖艶な雰囲気を纏った人だろう。
初めて近くでちゃんと向かい合って見上げた彼の顔。ドキドキする。でも、少し顔色が良くないような気がしていた。彼のことはよく知っている、というよりいつも見ていたから分かる。
「あの、大丈夫ですか?」
「え?」
私の問いかけに彼は目を見開いた。
「あ、いえ……、その」
「もしかして、今日見られてた、かな?」
「……すみません」
「いや、驚かせてしまって、こちらこそごめんね」
プラネタリムのドームの中へ案内すると、彼は自分の座っていた座席の辺りをしゃがんだり覗き込んだりしながら何かを探し始めた。
今日は中秋の名月。それに合わせてプラネタリウムの投影テーマも「名月の夜空」だった。席にもたれ掛かって投影された夜空を見上げ、そこに浮かぶ月を見ながら、彼はひっそりと涙を流していた。
理由は分からなかった。なぜ泣いているのかも、なぜ彼のことが気になって仕方がないのかも、なぜこの広い館内で、どこにいても直ぐに彼を見つけることができるのかも。
ふと、館内の入り口付近から物音がして、職員が施錠に来たことに気づき、一度プラネタリウムドームから出ようとした時だった。後ろから回された手に口を覆われ、身動きが取れないように押さえ込まれた。
驚きと混乱で頭が真っ白になった。
「――しっ……」
耳元でそう言ったのは他の誰でもない、忘れものを探していたはずの彼だ。
彼は私を後ろから抱きしめるようにしてしゃがみ込ませ、椅子と投影機の隙間に身を隠した。
息を潜めるというより息が止まりそうだ。
彼の胸の中で彼のぬくもりと彼の息づかいだけが聞こえてくる。どくどくと鼓動が高鳴り、どんどん熱が上がっていく。
ひたひたと足音が近づき、止まり、行ったり来たりを繰り返し、そして職員はとうとう去っていってしまった。施設内の照明が落とされ、施錠された重い金属音が響くと、口を覆っていた手の力が緩められ、ようやく十分な酸素が肺の中へと流入してきた。
「――なにをっ……」
暗がりの中、振り返り見上げた彼の顔は肌の温度が感じとれるほど近くて、息が止まり言葉が詰まる。
「……ごめんね?」
非常灯でぼんやり浮かんできた彼の瞳は妖艶にやんわり弧を描いたのに、微笑んでいるようにも泣いているようにも見えた。
「今夜はぼくと、ここにかくれんぼしてくれない」
「かくれんぼ?」
「そう」
「……鬼は?」
長い睫毛が小さく震えて空の見えないプラネタリウムの天井を仰ぐ。
「月、だよ」
その日を境に、二人で過ごす時間は徐々に増えていった。
逢瀬を重ねるのはプラネタリウムか私の自宅だったけれど、名前を実月、年齢は二十歳ということ以外、彼はあまり自分のことを話さなかった。あの日、プラネタリウムで月を見上げながら泣いていた理由も分からぬままだ。でも、根掘り葉掘り聞くのは気が引けたし、束縛して嫌われるのは避けたいし、きっといつか話してくれるだろうと信じていた。
信じていたけれど、いくら同じ時間を過ごしても、いくつ肌を重ねても正式な彼女になれなかった。
それでもただひとつ、そばにいる私だけに教えてくれたことがある。
彼は満月の日、闇に紛れて逃げ隠れている。
「……それって、竹取物語?」
「そうだよ」
恐る恐る訊ねて返ってきた答えはそれだった。
優しく私に触れ、頬を撫でる指先。鼓膜を揺らす柔らかな声。
「格好悪いけど、満月から逃げ回ってるんだ。月に見つかったら、月に連れ戻される」
「……そしたら、私は?」
カーテンの隙間から上弦の月を眺めて伏し目がちに実月は言った。
「――ごめん」
――置いていくよ――、と。
彼は呆気なく私を手放すつもりらしかった。運命には抗えないのだと簡単に受け入れる彼は、とても美しくて脆いガラス細工のように儚く透き通っていた。無論、その言葉の全てを鵜呑みにするつもりはなかった。だから都合の良いように解釈をした。
「だったら、ずっとかくれんぼしよう。見つからないようにずっとずっと隠れていよう、私と一緒に」
「……うん、砂良、ずっとぼくを隠して」
ブランケットで包むように、何かから逃れるように、一瞬一瞬を逃さないように抱きしめ合う。
誰にも見せなければ誰からも奪われることは無い。
それでも月は、執拗に実月を追いかけてきた。
満月の夜は黒い兎が金色の光を纏ってその輪郭を露わにさせながら、暗闇をぴょんぴょんと伝って彼を探していた。長い耳をピンと立て、地球上のありとあらゆる音の中から彼の声を聞き分けようとしていた。
そんな夢を何度も見るようになった。
満月の夜が近づくたびに実月に頻繁に連絡を取るようになった。返事が無いときはとめどなく不安が押し寄せ、徐々に過呼吸になっていった。満月を迎える日は仕事が手につかなくなって、無断欠勤や早退を繰り返すようになった。
心配して連絡を寄越してくる親にも友人にも、彼のことを知られたくないなんて異常なのかもしれない。でも、実月は私だけのものだから、誰も彼を私から奪わないでほしいから、だから隠し通した。
そしてその、海の満ち引きのように引いては押し寄せる不安の波は、彼の子を身ごもると更に加速した。
その時が訪れたのは「かくれんぼしよう」と約束をしてから二十五回目の満月を迎えた時だった。
すでにお腹の子は臨月を迎えていた。
ふとトイレの小窓からた見えた満月は、その存在を主張するように大きく強く光り輝いていて、怖くなった。ぴしゃりと窓を閉め、部屋中のカーテンを閉めた。何十年に一度の名月だとニュースで流れると、すぐにテレビの電源を切った。
「ごめんね?」
実月は怯える私にいつもそう言った。
「なんで謝るの?」
「ごめん……」
―――!!
「――つっ……!」
突如としてお腹に走った激痛。同時に不正出血があった。あまりの痛さと、子どもになにかあったらと不安で涙が止まらなかった。
「救急車呼ぶから」
実月はいつもの穏やかな顔を険しくさせスマホを手に取った。その手は震えていた。出産に備えて用意していた入院用品をひとまとめにして、担架の通路を確保すると「大丈夫だから」と私の手を握った。
いつもどこかおぼろげで、いつかふっと消えてしまいそうな彼の手が力強くて、ここにいてくれることが嬉しくて、また涙が溢れた。
救急隊が来て、通院していた産婦人科を伝えた。救急車に担ぎ込まれても実月はずっと私のそばにいてくれた。ずっとずっとその手を離さないでいてくれた。
でも実月、分かってる?
私と一緒に外へ出たら、月にみつかっちゃうよ。
隠れて。
逃げて。
そしてこの子を、その手に抱いて。
――くれぐれも、満月の光を浴びさせてはいけないよ。
愛したあの人は夢の中でそういって微笑み去った。
生まれた子どもと帰宅しても実月はその姿を現さなかった。
彼は本当に月へ連れ戻されてしまったのだと愕然とした。
彼の衣服や食器や生活必需品はそのまま、神隠しにでもあったかのようにぽっかり彼の存在だけが消えてしまった。
もしかしたら新月のように本当は直ぐそばに存在していて見えないだけかもしれないと、何度も目を凝らして注意深く周囲を観察した。
朝になったら淡くぼんやり浮かび上がってくるのではと、毎朝飛び起きた。
でも、何度の落胆を繰り返しても彼は姿を現してはくれなかった。
「ごめん」とよく零していた彼の口癖は、いつか必ず訪れる別れを受け入れ、愁いていたからに他ならない。
「ママー! 今日お月見の日だって。おだんご作って、すすきをかざるんだって」
実月との間に生まれた娘には美月と名付けた。一人で子どもを育てる不安の中、彼女はすくすくと真っ直ぐ育ってくれた。
――ぼくの代わりにその子を愛して。
夢の中で聞こえてくる声はきっと月から。この世界では聞いたことのない幸福感と安堵に満ちた柔らかな彼の声だった。
彼を愛する人のもとへ帰ることを引き留めていたのは私の方かもしれない。そう自分を責めて涙しても、正解か不正解かもう誰も導き出してはくれない。
「お月見の日は、ママとかくれんぼして遊ぶ日でしょう?」
「そうだね! でも、まんまるお月さまみづきも見たいなあ」
「ダメよ!!」
「……ママ?」
声を荒げた私を不思議そうに覗き込む美月に、はっと我に返った。
「ごめん、ごめんね美月。大きな声を出しちゃって」
「そうだ! みづきいいこと考えたよ! ママとかくれんぼして遊んでから、そのあとお団子食べて、お月見しようよ」
どうして人は、月に魅了されるのだろう。遙か昔から変わるこなく愛されているのだろう。その手に掴みたくて仕方ないのだろう。涙がでるほど美しくて、手の届かない月。
この子と見上げることができるのは、欠けていて、よそ見をしている月だけ。
「美月はママとさよならしたい?」
美月には、さよならしたパパは夜空へ行ったのだとだけ伝えていた。
「さよなら? やだ! ママと会えなくなるのは悲しい」
「うん、うん。そうだよね、なら、ママと一緒にずっとかくれんぼしよう。お月さまからかくれんぼしよう」
愛する彼との子。もし、月が美月を見つけてしまったらと考えると、怖ろしくて仕方がなかった。私はこの子を手放すなんてできない。どんな手を使ってでも月から隠れて逃げて、ずっと二人でここで生きていく。
「どうしてお月さまから隠れるの?」
美月の瞳は、まん丸で透き通っていて、まるでそこに月が宿っているように真っ直ぐ見つめてくる。
彼と同じ目。
――どうして月から隠れるの?
「……それは、ね、あなたがパパに愛されているから……」
日が暮れて、大きくてオレンジ色の月が地上近くに昇った。
「夜空にいるパパも一緒にかくれんぼしたいの?」
ぎゅっと目を瞑って、息を深く吸って、カーテンを閉めた。
どうして、どうして、どうして。愛する彼のいる月から逃げなくてはいけないのだろう。
「……うん。そうね、そうよきっと、パパが鬼」
「そっかあ。なら、しかたがないね」
肩を上げて大人みたな仕草をしてみせて、しぶしぶ納得したようだった。きっと彼女は、私が何かを誤魔化していることを無意識に感じ取ってる。感じ取った上で承知している。
そうだ。どうして私は、逃げることばかり考えてしまっていたのだろう。
「……あのね美月。ママも、美月のこと愛してるのよ?」
「うん、それは知ってる」
愛する彼に似て夜空に浮かぶ月のように無邪気に笑う美月をそっと抱きしめた。
美月の中には確実に実月が宿っている。美月もきっと月に愛されている。
いつか月が、彼が美月を見つけて、どうしても月へ連れて行きたいと言うのなら、私はそれを受け入れるしかない。受け入れるしかないとしたら、私はその日を迎えるまで美月を守って愛し抜くだけ。たくさんの愛情を注いで幸せに暮らすだけ。
そしていつか、その日が訪れて、美月が月へ行くことになったならば、それは私の愛を彼に伝えることができる唯一の方法なのかもしれない。
美月を通してあなたへの愛を。
それで彼が喜んでくれるならそれ以上の幸せはないかもしれない。
「よーし! それじゃあかくれんぼするよ」
「待ってママ、百数えて!!」
だからその日が来るまで愛娘は見せてあげない。
それくらいの意地悪は許してもらわないと割に合わない。
あなたはあの美しい月に愛されていた。
でも私も、月に負けないくらい今でもあなたを愛している。
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